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狼の月に雨は降る  作者: 黒河純
最終章 神に逢っては神を斬る
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エピローグ

 これは正義を貫く物語ではない

 これは悪を貫く物語ではない


 これは英雄の物語ではない

 これは悪党の物語ではない


 これは愛情の物語ではない

 これは慈愛の物語ではない

 これは親愛の物語ではない


 これは――復讐の物語である

 未来も希望もなく、憎悪に塗り固められた復讐の物語である


 ◆ ◆ ◆


 その日の夜は、どこか幻想的で、なぜだか儚げに思えた。


「ここに来るのも久しぶりだな」

 獰猛な肉食獣の眼球のように、満月が俺を見下ろしている。まるで片目を潰された獣が、夜の闇に引きずり込もうとしているようで、少しだけ気味が悪かった。


「……この公園、巣鴨さんと初めて会ったとこ……だっけ?」

「ああ。もう、ずいぶん前のことに思えるな」

 咲耶と出会ってから、季節が一つ巡った程度だと言うのに、果てしなく長い時間戦っていた気がする。


「ほんと、あいつは不思議なやつだよ」

 ここで偶然出会っただけの小娘、それが巣鴨咲耶だ。

 特別な力を持っているわけでもない――ごくごくありふれたユーザーだった。

 両親を殺され、その復讐だけを生きる糧にしている――狂気に染まりかけていた小娘だった。

 俺が殺そうとして、なぜか殺せなかった――ただの人間だった。


「本当に、なんであんなやつと偶然出会ってしまったんだか」

「……偶然じゃないかもよ……」

「ん? 何か言ったか?」

「……なんでも。……ねえレイン、もし……もしも、帰るべき場所があるなら、帰りたい?」

「いきなりどうしたんだ雪月。変なものでも喰ったか?」

「……別に。ちょっとしたおとぎ話。……レイン、わたしと出会った頃、人としての記憶なかったから……もし、本当の家族のことを覚えていたら、帰りたいのかなって……」

「そんなことか。別にどうもしない。俺は今の俺が嫌いじゃないしな。もしフェンリルを取り込む前の――純粋な人間だった頃の記憶を取り戻しても、俺は俺だ。獣として生きてきた時間が消えるわけじゃない。記憶が戻ろうが戻るまいが、今まで通り戦い続ける」

「……待っている家族が居ても?」

「それでもだ。俺は獣に成り果てた。もう、帰る場所はない」

「……そっか」

 どこか悲しそうな――そしてほっとしたような――表情で、雪月は空を見上げる。


「……じゃあ、わたしも一緒に行く。レインと一緒。どこまでも行く」

 昼の次が夜のように、子供から大人へと成長するように、月はいつまでも光り輝くように……まるで当たり前のことのように、雪月は俺のとなりに立ち続ける。

「……わたしだと、レインの居場所にはなれないから……せめて、手助けくらいはさせてほしい」

 そっと、雪月は俺の手を握る。刀ばかりを握っていたため、気がつかなかったが――人の手は、こんなにも温かいものなんだな。


 ◆ ◆ ◆


「あら、ホントにここに居たのね」


 雪月が珍しく先に本部まで戻り、入れ替わりのようにやってきたのは――右目を眼帯で覆った咲耶だった。


「なんだ小娘。わざわざお出迎えにきてくれたのか?」

「雪月さんから、あなたがここに居るって聞いて、暇だったから散歩ついでに寄っただけよ」

「ついで、ねぇ」

「そ。ついでよ」

 ここから本部まではかなり離れていたが……そのことには突っ込みを入れないでおこう。


 咲耶は無言で俺の横に陣取り、満月を見上げる。

「覚えてる? 私たち、ここで初めて会ったのよ」

「数ヶ月前のことを忘れるほど、ボケちゃいない。フリークスの気配がするから来てみれば、アイギスの制服を着た小娘が一人で戦ってたんだからな。それなりに驚いたさ」

 アイギスが出動するときは、必ず部隊で動く。非常事態を除けば、どれだけの凄腕でも、一人でフリークスを相手にすることはない。

 あのときの咲耶は、非番でフラフラしているところに、運悪くフリークスが発生したのだろう。


「こっちこそ驚いたわよ。正体不明の男がいきなりやってきて、フリークスを簡単に倒しちゃうんだもの。しかも、自分はアイギスに所属しているって言うし」

 咲耶は月を見上げながら、二人の出会いを思い返す。あのときと変わらない月が、静かに俺たちを照らす。

「それからもレインに付き合わされて、散々な目に遭ったけど……案外、悪くはなかったわ」

「そうか……俺もだ」

 咲耶と出会ってからの日々は、不思議と印象深いものばかりだ。モノクロだった人生に、少しだけ色が付いた――そんな気分だった。


「…………訊いてもいい?」

 長い沈黙を挟んだあと、咲耶はそう尋ねてきた。

「ああ。気分がいいから何でも答えてやる」


「それじゃあ……なぜあのとき、私を殺さなかったの?」


 あのとき――ヘルとの戦いのあと、気力をなくした咲耶に俺が斬りかかったとき――俺は咲耶を斬らなかった。斬れなかったのではなく、斬らなかった。

 俺は自分の意思で、咲耶の生を望んだ。

「私を、殺すんじゃなかったの?」


 復讐とは、死を導く呪いだ。絶対に逃れることができない呪いから――咲耶だけは逃れた。


 とある国の少年、

 とある街のピアニスト、

 とある村の青年とその父親、

 その全員が死んだ。復讐を誓った者は全員。

 彼らと咲耶の違いとはなんだろうかとふと考える。恨みの強さだったのか、力の強さだったのか、運のよさだったのか……俺にはわからない。


 ただそれでも、咲耶だけは生き残った。復讐を終え、生を諦めた少女だけが生き残った。


「……殺すつもりだった。今でもそのつもり――なんだが、それよりも見てみたくなったんだよ」

「見てみたくなった?」

「――お前がどう生きるのか、だ」

 復讐を糧に生きてきた人間が、その呪いから解き放たれたとき、どのように生きるのか……それを見たくなった。


「今の私は、生きてすらいないわよ。進んでもいない」

「それは違う。人は思考している限り生きている。生きている人は、必ず進んでいる。現状維持なんて言葉は、臆病者が作り出した空想だ。停滞などない」

「進んでいる? 私が? 生きる目標を失って、活力を失って、道さえも失った私が!?」

「お前はそれでも、未来を得たんだ」

「真っ暗で、冷たくて、一人きりの未来なんていらないわよ! それだったら、温かい過去に浸っていたいの! ねえ、それがそんなに悪いこと!?」

「悪いことだ。過去を振り返るのはいい。過去を懐かしむのもいい。……だが、過去に逃げるな。そこにはなにもない」


 人も、獣も、神も、前を見て進むしかない。過去にどれだけの未練があっても、時間が止まってほしいと祈っても、進むしかない。血にまみれた道でも、光のない道でも、進むしかない。

「あなたは、過去がないからそんなことが言えるのよ。私には、過去しかないのよ……」

 咲耶は月から顔を背けるように、うつむいて首を横に振る。涙が数滴、地面を濡らす。


「憎しみだけで走ってきて、もう疲れちゃったの。足が一歩も動きそうにないし、動かす気も起きはしない」

「……仕方のない小娘だ。――だったら、俺が後ろから押してやる」

 咲耶の頭を、乱暴になでる。その感触と匂いに、なぜだか懐かしい気分になる。

 不満そうに赤面しつつも、咲耶は俺の手を振りほどこうとはしなかった。


「……あなた、ヘルとの戦い以来、ちょっと変わったわね」

「そうか?」

「ええ。うまく言えないけど……当たりが柔らかくなった気がするわ」

 自分が変わった気など微塵もないが、咲耶がそう言うのなら、そうなのかもしれない。こいつは意外と、人のことをよく見ている。


「もしかして……フェンリルの魂が殺されたことによって、人間らしさが戻ったのかしら」

「そんな話があるか。俺は俺だ」

「でも、もし将来……フェンリルの魂が完全に消えたら、あなたの記憶も戻るんじゃない?」

「記憶? フェンリルを宿す前の記憶か? そんなものいらん」

「いらんって……自分の正体とか知りたくないの?」

「正直興味ないな。今の生活が嫌でもない」

 勝手気ままにフリークスやユーザーと戦う現状が、俺は好きだった。アイギスに所属はしているが、縛られてはいないし、雪月という頼れる相棒も居る。不満はまるでない。


「もしかしたら、あなたの――人としての家族が、今でも帰りを待っているかもしれないわよ」

「雪月と同じようなことを……俺がフェンリルを宿したのはもう十年以上も昔の話だ。家族が居ても、とっくに死んだと思われてるだろうよ」

「……寂しくないの?」

「……寂しくはないさ」

 獣とは、孤独を感じない存在だ。群れることはあるが、あくまでも狩りのためであって、他者が恋しいわけではない。


「それじゃあレイン……私はあなたのそばに居るわ」


 月に誓うように、咲耶はそっと俺の手を握る。

 その手はやはり温かかった。


 ◆ ◆ ◆


「それじゃあレイン……私はあなたのそばに居るわ」

 そう言った私の顔を、レインは珍獣でも眺めるように見返してきた。


「急にどうした小娘。気でも狂ったか?」

「失礼ね。たいした意味なんてないわよ。……ただ、今の私にはやることもないし、何をすればいいのかもわからない。だから、あなたのそばで、これからのことを考えようかと思ったの。死ぬことはいつでもできるけど、生きることは今しかできないもの」

「いい心がけだが、なんで俺のそばで……」

「あら、迷惑?」

「そうじゃないが……」

「だったらいいじゃない。私、あなたのことそこそこ好きよ」

「そりゃどうも」


 今の私では、彼の居場所になることはできないかもしれない。

 でもいつか、私がこの孤独な獣の帰るべき場所になれたのなら――そうなれば、復讐に代わる何かが手に入るかもしれない。そんなことを考えていた。


「ほらレイン……月が綺麗よ」

 繋いだ手を小さく揺らし、空を見上げる。秋の近づいてきた夜空には、金色に輝く満月が浮かんでいる。獣の片目のような月が、今の私には相応しい。右目を失った今の私には。

「失ってから、視えてくるものもあるのね」

 私は全てを失った。そうして得たものは、月への魅力だけだ。

 でも……それでいい。狼のそばに居るには、きっと、月を怖がっていてはいけないはずだから。


「物好きな小娘だ……まあ、意外とよく働いていたし、お前の眼に助けられたのも事実だしな……ついてきたいなら勝手にしろ」

「ええ。勝手にするわ」

 レインの大きな手の感触を確かめながら、二人そろって月光を浴びる。


「浮世の月に かかる雲なし……か」

 突如、レインが月を見上げながらそんなことを呟いた。

「何それ? 詩?」

「知らないのか? 大昔の武士が、悲願を達成し、死ぬときに残した句だ。『あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし』……本当の辞世の句は別の句なんだが……一から説明すると小一時間かかるから省略する」

「へぇ……レインって、意外と歴史とか好きなのね」

「剣術を学んでいたら自然とな。――この句の意味わかるか?」

「うっ……私って歴史ダメなのよ」

「若いんだからもっと勉強しろ――この句意は……『思いを晴らして死んでいくのは、何と楽しいことだろう。見上げる月に雲がひとつもかかっていないように、私の心は澄み切っている』てなところだな」

 そのとき、雲を吹き飛ばすかのように、一陣の風が走る。私たちの背中を押すように、強い風が。


「俺もいつか……そんな気持ちで死ねるだろうか」

 これまで、休むことなく戦い続けてきた魔狼が、自分の最期を夢想する。これからも続く戦に、心が折れないように。


「レイン……私は神様なんかじゃないし、あなたがどんな気持ちで、どのようにして死ぬのかはわからない。……でも、そのときが来たら、そばで見守っているわ。約束してあげる」


 そして語り継ぐのだ。血の雨を降らせ、月まで牙を届かせる――獣の物語を。


「生意気な……。まあいい。それじゃあ咲耶、これからもこき使うからそのつもりでな」

「望むところよ」

 顔を見合わせ、私とレインは、仲のいい兄妹のように笑い合う。こんなにも楽しい気持ちは、本当に久しぶりだ。


「――それより咲耶……気づいてるか?」

「ええ。実はもう気づいてるわ」


 ずっと繋ぎっぱなしだった手を放し、二人そろって後ろを振り返る。

「「……最高」」

 そこには、生まれ落ちたばかりのフリークスの姿があり、私たちに殺意をぶつけていた。


「おい見ろ、また装甲種だぞ」

「今度はA型ね。どうしてこう、この公園はフリークスが発生するのかしら」

「お前がなんか惹きつけてるんじゃないのか?」

「失礼ね。どっちかと言うと惹きつけてるのはあなたよ。絶対」

「根拠のない決めつけはやめろっての。……しかし、お前と出会ってから暇をしないな」

「忙しい毎日ね」

 いつまでも攻めてこない私たちに業を煮やしたのか、フリークスが威嚇するように咆吼をあげる。

「はぁ……フリークスもお呼びだし、そろそろ行くか」

「ええ。行きましょうか」


 レインは刀に、私は残された左目に、蒼い光を灯す。


「この世界は、まだまだ楽しめそうだ」


 夜の静寂を引き裂くように、狼の遠吠えが月に向かって響き渡った。

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