幻の月
「雪月、居るか?」
咲耶を殺し損なった俺は、負け犬のようにその場を逃げ出し、アイギス本部の中にある雪月の部屋まで足を運んだ。雪月は一応、時司直轄の護衛役という名目のため、宿舎ではなく本部に自室がある。
「……レイン? どうしたの?」
「いや、ちょっとな……今暇か?」
「……レイン以上に大切な用事なんてない」
「嬉しい言葉だこと」
部屋の中に入り、室内を軽く物色する。主な家具はベッドとデスクくらいだ。ぬいぐるみや雑誌など、家主の人柄を示すような品物はどこにも見当たらない。
第三者がこの部屋を見ても、住んでいる人間が男なのか女なのか、若者なのか老人なのかすら、判別がつかないだろう。雪月の部屋はそういう部屋だ。端的に言ってしまうと、生活感という名の色がない。
「相変わらず、殺風景な部屋だ」
久々に来たが、まるで物が増えていない。時間が流れていないのかと感じるほど、過去の記憶と寸分も差異がない。
「……わたし、趣味とかないから」
「作ったらどうだ? 金なら時司がいくらでも出してくれるだろうよ」
「……いいよ。わたしには」
「そうか? 俺が興味あるものだったら付き合ってやるぞ?」
「……いいの。わたしはレインがそばに居てくれれば、それでいいから」
包み込むような、優しい声。雪月は、いつでも俺の一番の理解者で在り続けてくれる。
「……それで、何があったの?」
『何かあったの?』ではなく『何があったの?』と、雪月は訊く。
やはりこいつは、俺よりも俺のことをわかっているのだろう。名付けの親は伊達ではない。
「お前にはなんでもお見通しなんだな」
「……レインに関することだけ、だよ」
珍しく誇らしげな雪月の頭を、あやすように軽くなでる。流れるような髪の感触と、柔らかいシャンプーの香りが心を落ち着かせる。
「実はな……殺そうとして殺せなかったやつが居る」
「……珍しい……というより初めてだね。誰?」
「巣鴨咲耶だ」
俺の回答が意外だったのか、いつも感情の少ない雪月の顔から、さらに感情が消える。
「説明がほしそうな顔してるな」
「……できれば」
まあ、ここまできて、なんの説明もしないわけにはいかないか。
「たいした話じゃない。咲耶が俺の意に反した行動を取ったから、殺そうとしたんだが……どうしても殺せなかった」
「……巣鴨さん、実はとっても強かった?」
「んなわけあるか。相手は無抵抗だった。武器さえあれば、子供でも殺せた――なのに、俺が殺せなかった」
あのときの感覚を思い返す。魂が咲耶を傷つけることを拒否しているような、そんな感覚。
手が震え、呼吸が荒くなり、視界が暗くなる――そんな、恐怖にも似た『何か』が俺の全身を支配し、蹂躙した。
「正直、こんなこと初めてでな……どうすればいいのかわからないんだよ」
殺すことしかできない獣が、初めて殺せなかった相手――俺は今、巣鴨咲耶が心底怖い。この世の何よりも怖い。あいつの近くに居ると、俺という存在が揺らいでしまうような錯覚が心を縛る。
戦って死ぬことよりも、戦って殺せなくなることの方が、俺には何百倍も恐ろしいのだ。
「……レインは、わたしを殺せる?」
弱さの発露を黙って聞いていた雪月が、どのような結論に達したのかは不明だが、ぽつりと、そんなことを問いかけてきた。
「は? どういうことだよ?」
「……もし、どうしてもわたしを殺さないとならなくなった場合……レインは、わたしを殺せる?」
いつも以上に真剣な雪月の瞳を受け、突拍子もない質問を真面目に考える。
雪月を、どうしても殺さなくてはならなくなったとしたら……俺は……。
「そう、だな……ああ、殺せる。間違いなく殺せる。避けられない事態に陥ったのであれば、俺はお前を殺すことができる」
嘘偽りのないその返答を聞いて――雪月は嬉しそうだった。
「……そう。それでいいの。あなたは獣の王。理性を引き裂いた気高き獣。流れるように生命を奪い、敵を踏みにじり君臨する……絶対的な王」
まるで母親のような顔つきで、雪月は俺の頬に手を当てる。揺らいでしまった俺という存在を、確立させていくかのように。
「……あなたは災厄の化身。善も悪もなく、ただ理不尽に降りかかる災いの牙」
ゆっくりと――まるで硝子細工を扱うように――雪月は俺を抱きしめる。心地よい体温と匂いに、久しく忘れていた眠気がやって来た。
「……あなたは地を揺らす者。神さえも喰らう恐ろしき巨狼――月まで牙の届く者。その刃は肉を斬り裂き、その牙は魂を斬り裂き、その瞳は心を斬り裂く」
雪月の言葉を受け……全身に、狼の血が流れ出す。
脳が潰れようとも獣の意思は消えず、心臓が潰れようとも獣の牙は消えず。
まぶたの裏に、幻の月が蘇る。
「……何も迷う必要はない。ただあなたは、自分の思うがままに振る舞えばいい。誰の許可もいらない。……王こそが法なのだから」
そうだ……俺は獣だ。俺は人をやめている。正義心には唾を吐き、悪心には嘲笑しよう。
殺したいやつは殺す。生かしたいやつは生かす。
善悪などない――あるのは、俺の心だけだ。
「なあ、雪月」
「……ん。なに?」
俺が信じるものは、ただ一つ――
「今夜は、月が綺麗だな」
――月光に輝く、狼の牙だけだ。
◆ ◆ ◆
「――以上が、先日の顛末です」
飛葉双厳隊長がレインに殺されたあの日から、一日が経った。事態の収拾に当たっていた時司さんから呼び出しがかかったのが、十分ほど前のこと。
「……これまた、妙なことになってきたものだね」
時司さんは疲れた表情を隠すこともせず、大きなため息をついた。一週間前に比べ、ずいぶんと老けたような印象を受ける。
「飛葉さんが亡くなった、か……彼はかなりの古株だったし、腕も確かだ。正直かなり痛い」
「六番隊はこれからどうなるのでしょう?」
「しばらくは活動停止だね。そのうち新たな隊長を選び抜くよ。……しかし、当面の問題はレインだ」
今回は野良のユーザーを殺したのとはわけが違う。このまま、何もしないわけにもいかないだろう。
「そうですね。さすがに彼の行動は目に余ります。厳重な処分を――」
「いいや巣鴨君、キミは勘違いをしている。レインが飛葉さんを殺したことが問題なのではない。――レインがキミを殺せなかったことが問題なんだ」
私の言葉を遮り、時司さんはそう断言した。その真意が読み取れず、僅かに反応が遅れる。
「……どういう意味でしょう?」
「知らないだろうが、レインがアイギスのメンバーを殺したことなんて何度もあった。罪のない一般人を虐殺したことも数え切れない。……しかし、レインが殺そうとして殺せなかった人間なんて、これが初めてなんだよ」
こめかみを指で小さく叩きながら、時司さんは目を閉じる。
「これまでとは違う何かが、レインの中で起こっている。それがどんなことなのか、どのように作用するのか、まるでわからない。……僕は今、核兵器の前で警告音を聞いている気分だよ」
「そんなに、重大な危機なのですか?」
「キミを殺せなかったことを引き金に、レインの精神が変調をきたし、人類を皆殺しにするかもしれない」
「さすがに、そんなことは――」
「ないとは言い切れないんだ。レインならば、ね。彼はこの地球上で誰よりも強く、誰よりも容赦がない。本気で人類の敵となれば、人間はその牙から逃れる手立てがない」
時司さんは苦虫をかみ潰したような顔でコーヒーをすする。どれだけ砂糖とミルクを入れても、その表情が晴れることはないのだろう。
「……しかし、なぜレインはキミを殺せなかったのだろうね……。心当たりは?」
「いえ、ありません」
「恋仲になっていたとか?」
「ありません。ありえません」
「だろうね。……ふぅ」
地下の会議室に、停滞の空気が流れる。重苦しさに、息が詰まる。
「――よう、元気そうだな」
そんな空気を知ってか知らずか、背後の扉が開き、話題の人が現れた。半歩後ろに、雪月さんの姿もある。
「レインに、雪月君か……どうかしたのかい?」
「悪いな時司、お前じゃなくて咲耶に話がある」
「? なによ?」
あのときは命を拾ったが、今回も大丈夫とは限らない。小さく身構え、ホルスターの自動拳銃に手をかける。
そんな様子に気分を悪くした様子もなく、レインは平然と――
「お前の復讐、果たしてやるよ」
――そう言い放った。




