天秤
「魔狼流 伍ノ太刀 《月影》」
敵の攻撃に合わせ、下段に構えた刀を踏み込みと同時に斬り上げる技。基本的に腕――またはそれに類する部位――を切断することを目的にしているが、場合によっては敵の武器を無効化することもある。魔狼流では珍しい応じ技の一つ。
「……そうか……勝てぬか」
両腕を失い、血を滝のように流しながら、双厳は苦笑する。
「これでも届かぬのなら、私はお主に勝てぬ。すまんな獣よ、殺してやることはできそうにない」
吹き飛んだ両腕が再生し、出血は止まった。それでも、双厳はもう戦えない。
飛葉双厳という男にとって、今の一刀が最高の技なのだろう。それを上回られた瞬間、双厳に勝ちはなくなった。
「獣よ、お主なら、私を殺せるか?」
「……俺ならば可能だ」
「そうか……不死である我が身も殺せるのか……」
まるで、救いの神でも舞い降りたような顔で、武神は獣を見上げる。
「厳密に言うと、お前は不死ではない。限りなく不死に近いというだけだ。全身をミンチにされようが復活するだろう。しかしそれは、肉体が再生しているというだけだ」
超人的な再生能力。不死のように見えるが、死なないという保証にはならない。
「肉体ではなく、魂が死ねば――確実に死ぬ」
「そう、か……まさか、私を殺せる存在に出会うとは……。剣ばかりの人生であったが、最期にこのような幸運が舞い降りるとは……存外、私の生も捨てたものではないな」
武神としての気迫は霧散し、憑き物が落ちたような顔で、双厳はゆっくりと流れる雲を見上げる。
「獣よ……お主も私も、願うことは同じであろう?」
「――戦いの末に果てること、だろ?」
「然り。私はお主を殺す手段を持ち合わせてはいない。しかし、そちらは別だ」
「わかっている。……お前のような男を殺すのは非常に惜しい」
「その言葉だけで十分だ」
ここが屋外であることも気にせず、双厳はゆっくりと正座する。
「介錯を頼む」
「……わかった」
悟られないほど小さく息を吐く。風のない湖のように、心が凪いでいく。
「灰は灰に、塵は塵に、土は土に」
能力を発動させ、刀に概念を付与する。何度もやってきたその行為が、今だけは鈍い。
「私の剣は、曇りがなかったであろうか?」
双厳の肉体――その奥に眠る偉大な魂だけを見据える。
「この俺が断言しよう――お前の剣戟には、一点の曇りもなかった。飛葉双厳という男は、間違いなく武を極めた」
これから死にゆく者への慰めでも、同情でもなく、俺はこの男をそう評価する。
「そうか……愉快だ。誠に愉快」
これまで見てきた人間の誰よりも晴れやかに、武の終着を見た男が笑う。
「浮世の月に かかる雲なし」
◆ ◆ ◆
「はぁ……はぁ……嘘、でしょ……」
走ってやって来たであろう咲耶が、息を切らせながら顔を青くする。
「レイン……あなたどういうつもり?」
事切れた双厳の死体を悲しげに見つめ、咲耶は俺を糾弾する。
「何がだ?」
「こんなこと、許されると思っているの!? アイギスの正式なメンバー……しかも隊長を殺すなんて正気じゃないわよ!」
「ああ、よく言われる」
「……どういうつもり? 場合によっては、あなたに銃を向けることになるわよ」
人間を殺した獣を、人間が処分する。いつの時代もこの摂理は変わらない。
――なぜこの世界は、人が獣を殺すことは許されて、獣が人を殺すことは許されないのだろう――
「強敵を前にして、血が騒いだんだよ。俺も双厳も」
「そんな理由で?」
「そんな理由で、だ。男の命なんて、くだらない理由で散らすのが華なんだよ」
「ふざけないで! 大問題よ、これ。どうするつもり?」
「別にどうもしない。時司には一言連絡するが、それで終わりだ」
「事の重大さをわかっていないようねレイン。あなたが殺したのはフリークスでも暴走したユーザーでもない。私たちの仲間なのよ」
「だからどうした? 俺はアイギスをクビになるのか? それとも誰かから処刑でもされるのか? どちらも構わんさ。お前らの好きにしろ」
牢獄に入れられるのなら、その牢を斬り裂いてやろう。俺のことをアイギスから追放するというのなら、アイギスの人間を皆殺しにしてやろう。この俺を裁くというのなら、逆に俺が裁いてやろう。
――それはきっと、この世界が人によって作られているからだ。であるならば、俺は獣の世界を作りだそう――
「前から勝手なところがあるとは思っていたけど、ここまでとは思わなかったわよ」
「今まで気がつかなかったのか? 俺は気分屋なんだよ。――だから、急にこんな遊びもする」
俺は戦闘で荒れ果てた街中を歩き、とある宝石店に入り込む。中は戦闘の衝撃でボロボロだった。色とりどりの宝石が、割れた窓から差し込む陽光によって虹色に光っている。
「――おっさん、火事場泥棒は感心しないな」
俺はその宝石店で、コソコソと商品を鞄に入れていた中年の男に声をかける。夢中だったのか、すぐそこまで俺が近づいていたことにすら気がついてなかったらしい。
「ひっ!? な、なんだあんた!?」
「名乗るほどの者じゃない。ちょっとこっちまできてくれ」
俺は男の首根っこをつかみ、店の外へと放り投げる。
「レイン! 今度は何する気よ!」
「ちょっとしたお遊びだ。――さて、咲耶、ここに二人の人間が居る。一人はこの騒動に紛れて宝石を盗もうとした泥棒の男。もう一人はアイギスに所属する小娘……要するにお前だ。この二人の命は、たった今天秤に乗せられた。天秤の下からはどんどん水があふれ出してきているため、このままでは二人とも溺れて死んでしまう。助かるには、相手のはかりにおもりを乗せ、自分のはかりを浮き上がらせなければならない」
俺は咲耶に近づき、ホルスターから自動拳銃を抜き取る。
「で、こいつがおもりだ」
その拳銃を、咲耶に手渡す。
「小娘、選択肢は二つだ。この男を撃ち殺してお前が生き残るか、自分の脳天の風通りをよくして、見ず知らずの泥棒を助けるか……さ、お前が決めろ」
――永遠に闘争の続く獣の世界を、俺は作り出そう――
「なに……言ってるのよ。今日のあなた少し変よ」
「これが俺なんだよ、咲耶。俺は獣だ。獣には善も悪もない。腹が減ったから獲物を喰らう。敵が居たから牙を剥く」
自分の行動によって、誰がどうなろうと知ったことではない。獣にあるのは現在だけで、未来はないのだ。
「俺はな……もう人間をやめている。人の面を被ってはいるが人でない。ただの化け物だ。……もう戻れないんだよ。一度獣に成り下がった存在は、死ぬまで牙の渇きに耐えながら生きるしかない」
人が獣になることはあっても、獣が人になることはない。
「話がそれたな。で、どうするんだ? そのおもりは、どちらの天秤に乗せる?」
――俺は獣の王。獣の世界を作り、それを統べる王である――
◆ ◆ ◆
「……ある。だって、レインは世界で一番弱いから」
「弱い? レインが?」
「……そう。純粋な戦闘力だけなら、レインは誰よりも強い。……けれど、レインは不安定」
「不安定?」
「……レインはまだ幼い頃、事故に遭ったの。その事故が原因で、ユーザーになり……記憶を失った」
ユーザーになり、記憶を失うほどの事故など、そうそうあるものじゃない。私のように、フリークスに襲われ、強い魔力を受けてユーザーになる例もあるので、それに近い状態だったのだろう。
「……レインは、ユーザーになる前の記憶がない。名前も、家族もわからない。『レイン』という名前も、わたしが付けた」
本名も、家族もわからない暗闇。想像するだけで、背筋が寒くなる。
家族を失った私には、復讐が残った。でもレインには……何が残ったのだろう。
「……自分の本名もわからない。家族が居るのかもわからない。フェンリルなんてものを内在している。……これまでの自分は消え去り、並び立つ者も居ない。……レインの孤独をわかってあげられる人は、どこにも居ないの」
今にも泣き出しそうな顔で、雪月さんはそう告げる。彼女の、人間らしい感情を初めて見た気がした。
それほどまでに――この人は、レインが好きなのだろう。
「……だからわたしは……わたしだけは彼のそばに居てあげたい。世界中の人間がレインに恨みを持っても、わたしだけは味方でいてあげたかった」
これほどまでに、純粋で強い想いがあるのかと、私は感動よりも恐怖を覚えた。
彼女の愛は、世界が終わっても続くだろう。正真正銘、ここには永遠の愛がある。人から獣への、永遠の愛が。
「……巣鴨さん、あなたにも同じことを求めたりはしない。彼を嫌いになってもいい。でもどうか……理解してあげて。レインは、この世界にたった一人きりなの。人間の世界に落とされた獣は、牙を剥くしかなかったの」
◆ ◆ ◆
「話がそれたな。で、どうするんだ? そのおもりは、どちらの天秤に乗せる?」
そう言われた途端、曖昧だった手中の拳銃の重さが、よりリアルに感じられた。手放したくなる誘惑をはね除け、グリップを強く握る。
「な、なあ、嬢ちゃんアイギスだろ? 泥棒した件に関してはおれが悪かった。生活が苦しくて、魔が差したんだ。警察にもちゃんと出頭する。このまま連行してもらっても構わない。……だから、命だけは助けてくれよ」
ずっと怯えていた男性が、跪きながら私に許しを請うてきた。混乱のあまり、耐え難い頭痛と目眩が私を襲う。
「アイギスってのは、フリークスを倒して市民を守るのが仕事なんだろ? だったら、人を殺すのなんて間違ってるよな?」
この男性の言う通りだ。私たちは人の命を守るのが仕事で、奪うことなどもってのほかである。
私は自分の復讐のためにアイギスへ入隊した……とはいえ、立派なアイギスの一員だ。それなりに誇りだってある。力のない一般人を殺すことなど、できるはずがない。
「この男はこう言っているが……選択はお前次第だ」
私の手には、一つのおもり。下からは水が迫ってきていて、どちらかのはかりにおもりを乗せなければ、このまま二人とも溺れてしまう。
もしどちらの選択肢も選ばなかった場合――レインはためらいなく私もこの男性も殺すだろう。そんなことは、この短い付き合いでも予測できる。
「……決めた、わ」
流れる汗を手の甲で拭う。暴れる心臓を落ち着かせるため、目を閉じて深呼吸をした。
「ほう。で、どうする?」
小さく息を吸い込み、目を開く。意を決し、素早く自動拳銃を構え――レインの額に向かって発砲する。
「これが答えよ。弾丸で頭を冷やしなさい」
「……なるほど、天秤を壊したか」
この程度で、レインを殺せるわけもない。そんなことは百も承知だ。私の選択は、最も愚かなのだろう。それでも、こうするしかなかった。
この男性を殺せば、私は死ぬ。肉体的にではなく、魂が死んでしまう。魂のない抜け殻など、私であって私じゃない。
復讐を遂げるためなら、なんだってする。しかし、私が消えてしまっては、復讐をする意味などなくなる。
力を暴走させた少年を見殺しにしたとき……心の中では仕方がないと自分に言いきかせながらも、私の魂は確実に傷つき、歪んでしまった。罪を犯したとはいえ、一般人をこの手で殺めてしまえば……巣鴨咲耶としての精神は木っ端微塵に壊れてしまう。そうなれば、後戻りはできない。
「天秤を壊せば、はかりに乗ったものは全て地に落ちる。――いいだろう……いいだろう咲耶」
額から血を流しながら、レインは笑う。今までで一番楽しそうな笑みだった。
「――殺してやるよ」
直後、レインから尋常ではないほどの殺意があふれ出す。生きとし生けるもの全てを萎縮させるであろう、圧倒的な殺意が。
一体、どれほどの命を奪えば、この領域までたどり着けるのだろうかと――残り少ない命でそんなことをふと考えた。
あまりの気迫に、盗みを働こうとしていた男性は、失禁してから気絶してしまった。一般人ならば無理もない。
「前に言ったはずだ――甘い考えは捨てておけ。そうしなければ、早々に死ぬことになるぞ、とな」
レインが、一歩前に進み出る。それだけで、地震が起きたかのように、目の前が揺れる。
頭を使うまでもない。もはや本能でわかってしまう――勝てないのだ。絶対に勝てない。私では、この獣に傷すらつけることができない。何度戦おうと、どれだけの奇跡が起ころうと、私の死へと帰結する。例え神が私に微笑んでも、レインは神さえも喰らい尽くす。
まるで、巨大な山と対峙している気分だった。相手があまりにも大きすぎて、笑いたくなる。なんて存在に喧嘩を売ったのだと、数秒前の自分を殴ってやりたくなる。
「今日は厄日ね」
いつかと同じセリフを口にして。自らの死を待つ。
「……言い残すことはあるか?」
もはや神さえも超越した獣が、最期に慈悲を一欠片残す。
「そう、ね……それじゃあ、一つだけ」
手の震えを押さえつけ、声が上擦らないように気をつけながら、心の中身をただ口にする。
「レイン……わかってあげられなくてごめんなさい」
彼を理解することができなかったこと――死に際で後悔しているのは、不思議と復讐ではなくレインのことだった。
「……咲耶、俺は案外、お前のことが嫌いではなかったぞ」
「あら、偶然ね。私もよ」
レインが優しく笑いかけ――手にした刀を、私の首目がけて斬り払う。
「…………」
敬虔な祈りを捧げるシスターのように、瞳を閉じ、心を落ち着かせる。
ああ、死とは意外と……呆気ないものらしい。痛みも、衝撃も、苦痛も、やってはこない。きっとレインが気を利かせて、苦しまないようにしてくれたのだろう。
「……?」
首が飛ばされた感覚はなかったけれど……もう死んだのだろうか?
恐る恐る、目を開く。その先の光景が、天国か地獄か、はたまた三途の川なのか――そんなことを考えていた私の予測は、見事に裏切られることになる。
「……どういうことだ?」
私の目に入ってきたのは、刀を握ったまま、手を震わせているレインの姿だった。
「なぜだ? なぜ殺せない? 殺せないわけがあるか。相手は無抵抗の人間だぞ!」
そして、フェンリルの手から――刀が落ちる。
「こんなバカな話があってたまるか。俺が殺せないわけがない。俺がためらうわけがない。どれだけの人間を殺してきたと思ってる!」
これまで見たこともないような――怒気と怯えを含んだ――表情で、レインは私から距離を取る。
「獣が牙を抜かれたら……何が残るって言うんだよ……」




