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狼の月に雨は降る  作者: 黒河純
第三章 鬼に逢っては鬼を斬り
15/23

昔話

「ねえレイン、今日暇?」


 俺が珍しく自室でだらだらしていると、咲耶がフランクにそんなことを言ってきた。薄ら寒い微笑が不気味だ。


「いきなり級友みたいな会話の振り方をするなよ……何か用か?」

「用ってほどじゃないけど、少し付き合ってほしいの」

「まあ、やることもないし、暇ではあるが……何を殺しに行くんだ?」

「なんで何かを殺しに行く前提なのかわからないけど……少し買い物があるから一緒に来てほしいだけよ。食材とか日用品とか」

「んなもん一人で行けよ。今までだって、一人で行ってただろうが」

 俺は基本的に食事をしないが、咲耶はそういうわけにもいかない。そのため、この部屋には一般家庭と同じ程度の食料が備蓄されている。本人の希望もあり、それらの買い足しは今まで、咲耶自身が行っていた。


「たくさん買う物があるのよ。荷物持ちをお願いできないかしら」

「……俺に荷物持ちを頼んできたのはお前が初めてだ」

 俺がどんなやつなのかは理解できたはずだろうに……本当に、度胸のある女だ。

「それは光栄だわ。で、返事は?」

 先日の港での戦闘は、咲耶が役に立ったのは事実だしな……どうせこれといって予定もない。


「――了解。行くか」


 ここで時間を潰しているよりは、何か面白いことが起きてくれるだろう。



 よく晴れた休日の昼下がり。どのような運命の悪戯か、俺と咲耶はそろって買い物中だ。遠征というわけでもなかったので、車ではなく徒歩である。ちなみに、俺は私服、咲耶はアイギスの制服姿だ。そのせいで、さっきから妙に視線を感じるのだが、気にしないでおこう。

 一応、刀は大きめのバットケースに入れてある。私服姿の人間が、街中で刀持って歩いていたらさすがに警察沙汰だ。


「咲耶、こんなときくらい、その制服脱いだらどうだ?」

「規則では、どんなときも制服着用なのよ。いつフリークスとの戦闘が始まるかわからないもの」

「真面目なことで……」

 休日ということもあり、街には様々な人々であふれかえっている。表通りにはびっしりと商店が並び、両手いっぱいに紙袋を下げている夫婦や友人が目立つ。


「んで、何から買うんだ?」

「まずは日用品かしら。洗剤とかティッシュとか」

「そのくらいなら誰かに買いに行かせればいいだろうに。お前だってアイギスに入って長いんだし、顎で使える部下くらい居るだろ?」

「居るけれど、私は自分で買いに行くのが好きなの。それに、誰かさんが私を引っこ抜いたせいで、アイギスの人たちとの繋がりが最近薄くなってきたのよ」

「そりゃあ、悪うございましたよ」

「そう思うなら文句言わずに付き合いなさい」

「はいはい……」

 その後も、ぶつぶつと俺に文句を発しはするが、咲耶の表情はどこか上機嫌だった。



 日用品や食材などを買い込んだあと、休憩がしたいという咲耶の願いもあって、近場の喫茶店でブレイクタイムとなった。

 喫茶店の内部は、暖色の照明に照らされてる落ち着く空間だった。会話を邪魔しない程度の音量で流れている音楽も、スローテンポで眠くなりそうだ。

 客層は女性が多いらしく、二十代から四十代ほどの主婦らしき人々が楽しそうに談笑している。アイギスの制服を着ている咲耶の姿を見て、会釈をする人も一人居た。


 席に案内され、注文を済ませる。咲耶は紅茶、俺はコーヒーだ。


「……なんか変な気分」

 やってきた紅茶を飲みながら、咲耶がそんなことを呟いた。

「紅茶に毒でも入っていたか? 俺の血を飲めば、ヤドクガエルの毒でも一発で解毒可能だぞ」

「なんでそう発想が斜め上なのかしら……。あなたと、こうしてお茶するなんて初めてだったから、そう思っただけよ」

「ふむ……確かにな」

 俺が咲耶を手伝いに任命して……もう三週間ほどは経っている。だというのに、いままで一緒に食事をする機会すらなかったからな。


「あなた基本的に食事しないんだもの。気が向いたときに、ふらりと外食したりしてるんでしょ?」

「まあな」

 咲耶の言う通り、俺は決まった時間に食事をとったりはしない。そのときの気分で、好きな物を食べる。一日六食も食べることがあるし、一ヶ月何も食べないことだってある。睡眠に対しても似たようなものだ。眠り方を忘れないようにするため、月に何度か眠っているが、体が必要としているわけではないので、休めているというわけではない。


「食事は可能だけど食欲はなく、睡眠も可能だけど睡眠欲もない……ねえレイン、もしかしてあなた性欲もないんじゃない?」

「ぶっちゃけその通りだが、女子がそういう生々しいことを言うな」

 未成年の女子が紅茶片手に男の性欲について語るのは、さすがに問題があるように感じる。


「まあいいじゃない。せっかくだし、ゆっくり話をしてみたくなったのよ。今日買い物に誘ったのも、実はそれが理由」

「お前も妙なことを考える……なんで急に?」

「たいした理由じゃないわよ。ただレイン、雪月さんにもっと感謝した方がいいわよ」

「? なんで雪月が出てくるんだよ?」

「はぁ……良妻はときに夫をダメにするのかしら。雪月さんがかわいそうね」

「なんかいつにも増してむかつくな。――でもまあ、お前もなんだかんだよくやってるし、少しくらいならおしゃべりにも付き合ってやるよ」

 久しぶりのコーヒーで唇を湿らせながら、小さく息を吐く。


「じゃあ早速だけど、レインの過去について聞いてもいいかしら?」

「俺の昔話を聞きたいってことか?」

「ええ。これまでの人生で、どんなことがあったのか……知りたいの」

「別にいいが……大して面白くもないぞ?」

 そう前置きをし、俺は記憶を掘り起こす。

 おれが俺(フェンリル)になった、あのときの記憶を。


 ◆ ◆ ◆


 俺の原初の記憶は、全身に走る激痛と、急に声をかけてきた蒼白い狼の姿から始まる。


 ――無様だな、人間の少年よ。


 声が出ず、目も見えず、恐らく瀕死の状態にあった俺に、一匹の巨大な狼が話しかけて来た。

『なんだよ、お前は?』

 ――なに、ただの通りすがりだ。妹を捜しているのだが、ここにも居ないらしい。どこに行っているのやら……。


 なぜ目が見えないのに狼とわかったのか、声が出せないのにどうやって意思疎通ができていたのか……怪異的なのに、なぜか当然のように受け入れられた。

『しゃべる狼なんて不思議だな。もしかして、お化けか何かなのか? それとも神様?』

 ――神か……俺が神か……面白い冗談だ。俺は神を喰らう存在だ。

 狼は見せつけるかのように牙を剥き出す。その白い牙に、瀕死の自分の姿が映った。

『まあ……おれからすれば、何でもいいさ。それより……おれは死ぬのか?』

 神を喰らうという狼に、俺は話しかけていた。不思議と、恐怖はなかった。

 ――ふむ。まあ、このままでは死ぬだろうな。

『助けて……くれ』

 ――助けろ、と? なぜ俺が助けねばならんのだ。なんの義理もない、会ったばかりの人間を。

『まだ、死にたくない……』

 ――単純で、それ故に強い願いだな。気持ちもわかるが、俺は妹を捜しに来ただけだ。用事は済んだ。もう帰らせてもらう。

『頼む』

 ただ、死にたくないという生存本能が、途切れそうになる俺の意識を繋ぎ止めていた。ここでこの狼に去られてしまうと、待っているのは終点でしかない。

『おれは、死にたく、ないんだ』

 ――人間は……いや、生き物は全てがそうだ。死にたくはない。が、いつかは死ぬ。お前だけがその呪縛から逃れることはできない。

『それでも! おれはまだ死ねないんだ!』

 あがく。みっともなく、プライドもなく、ただあがく。

『生物の死』というこの世の絶対的な法則を前にして、誰もが諦めるであろう状況でさえ――俺はあがいた。


 当時の俺が、なぜそこまで『生』に固執したのかはわからない。これ以前の記憶はないからだ。何かやり残したことがあったのか、どうしても守りたい人でも居たのか……よくはわからない。

 そのときの俺にあったのは、ただただ『怒り』だ。理不尽に命を失おうとしていることへの強い怒り。世界に対する明確な憎しみ。


 ――では、人間よ。取引といこう。

『取引?』

 ――そうだ。俺はお前を助ける術(すべ)を有している。特別に助けてやってもいい。

『本当か?』

 ――嘘は言わん。ただその代わり、お前の肉体を借り受けるぞ。

『おれの……体?』

 ――そうだ。妹とも会えなかったしな。暇潰しとして、人間の一生を体験してみるのも悪くはない。

『それでおれは助かるのか?』

 ――もちろんだ。この俺が……魔狼フェンリルが力を貸すのだからな。

 狼の牙が、その鋭さを主張するように白く輝く。強者の証であるようなその牙に、俺はそのとき……魅入られてしまった。


『……わかった。体でもなんでも好きにしろ』

 ――そうさせてもらう。では、仲良くやろうじゃないか、宿主殿。

『頼むぞ……フェンリル』

 そうして俺は、魂に修羅を宿し、人間をやめた。



 ぞわりと、何かが入り込む嫌悪感が全身を包む。全身の毛が逆立ち、魂が悲鳴を上げる。

「あ、あぁああ……」

 全身を支配していた痛みはたちどころに消え失せ、今は滾(たぎ)るような熱が体を余すことなく責め立てている。

 人間には身に余る力を与えられ、人としての器が壊れそうになっていたのだ。天界やらフリークスやらユーザーやらの知識も、このときに得たものだ。


「がぁぁぁぁぁああああああ!」


 髪の毛が引きちぎれることも構わず、頭をかきむしりながら咆哮する。

 俺はマグマのような熱をやり過ごそうと必死だった。熱してドロドロになった鉄が、血液の代わりに体を巡っているようだった。


「はぁ……はぁ……」

 目の前がちかちかと明滅する。手をついた巨木を、全力で殴りつける。轟音と共に、木は呆気なくへし折れてしまった。

「くそっ、こんなの聞いてないぞ!」


 俺はこのとき、フェンリルを心底恨んでいた。もちろん本来は感謝するべきなのだろうが、全身がひっくり返りそうな苦しみと、気が狂いそうな掻(そう)痒(よう)感に苛まれながら何かに感謝できるほど、俺は聖人じゃなかった。

 頭を押さえながら、熱とかゆみにひたすら耐える。この苦しみがいつまで続くのか、そもそも終わりがあるのかもわからないが、必死に耐える。

 歯を食いしばり、奥歯をかみ砕く。自らの歯を飲み込むと同時に、新しい歯が生えてきた。


「なんなんだよ……ちくしょう!」

 体内の熱量に背中を押され、ひたすら暴れ回る。木々をなぎ倒し、大声を上げながら疾走し、自分の腕を引きちぎり、内臓を引きずり出す。

 血と泥と猛毒のような魔力にまみれながら、精神をすり減らし、人から獣へと成り下がっていく。

 フェンリルを宿してからおよそ三ヶ月。俺はそのまま、地獄を繰り返した。



「なんとか……収まってきたな」

 フェンリルが体に馴染んだのか、何とか熱は引いてくれた。寝ることもできず、ただひたすら耐えるだけの日々は、筆舌に尽くしがたい苦痛の日々だった。

「さて、これからどうするか」

 フェンリルになる以前の記憶が思い出せなかった俺は、当然帰る家もわからない。そもそも、こんな状態で帰れるはずもない。


「とりあえず、さすがに疲れた」

 食事も睡眠も不要になったとはいえ、百日近くも悶え苦しんでいれば疲弊もする。よくぞ発狂しなかったものだ。


「まずは森を抜けよう」

 ボロボロになった服と靴を新しく調達したかったので、ひとまず人の居る場所まで行く必要がある。現在位置はさっぱりだったが、適当に走っていれば人里には出るだろうと、風下へ向かって走り出す。


「……こいつはすごいな」

 水が川を流れるように、木々の間をひた走る。苦しんでいる間はわからなかったが、俺の身体能力は飛躍的に上昇していた。舗装もされていない獣道を、苦もなく新幹線並の速度で走るなど、ユーザーですら不可能だ。


「ん? あれは……」

 森を進んでいると、遠くに見覚えのある物が見えてきた。


「観覧車?」


 ある程度森林が伐採され、開拓された一帯の中心に、巨大な円形のオブジェが回ることなく佇んでいた。

 その異様さに心を刺激された俺は、観覧車を目印に歩き出す。


「……遊園地、だな」


 近づいてみると、ずいぶん昔に閉園になった遊園地のようだった。錆び付いた遊具や、雑草であふれた庭園など、不気味な空間が広がっている。あまり広くはないが、レストラン、駐車場、ギフトショップなど、一通りの設備はそろっていた。


 ――あとから知ったことだが、この遊園地は開園してすぐにフリークスに襲撃され、そのまま閉園になったのだとか。緑が豊かなことが売りだった遊園地は、緑に侵食され、活気を失っていた。


「人の気配もあるが……まあ、休めなくはないか」

 遊園地全体の気配を探るが、人体反応のみで、魔力反応はなし。普通の人間は居るが、フリークスもユーザーも居ないということだ。

 おおかた、ホームレスか犯罪者が住み着いているのだろうが、今の俺なら襲われても返り討ちにできる。


 元はレストランとして使われていたボロボロの建物に入り、三人掛けのソファーに寝っ転がる。目を閉じ、重く深い息を吐きながら、意識を遅(ち)緩(かん)させていく。

「何もしたくねぇ」

 全身の力を抜き、これまでの苦痛を忘れ去るように体を労る。時刻は昼過ぎ。さわやかな風が割れた窓から入り込み、午睡には丁度いい。


「…………寝るか」

 ――そして俺は、そのまま夜まで三ヶ月ぶりの睡眠を楽しんでいたが、不意に外から聞こえてきた大声に、意識を浮上させられる。

「……なんだよ、うるせぇな。人が寝てるんだから大人しくしろっての」

 怒鳴るような男の声が……四人ほど。それにかき消されそうな、少女の声が一つ。無視してもいいんだが、睡眠を邪魔された俺は完全に気が立っていた。

「――殺してくるか」

 さらりと口に出したその言葉が、あまりにも軽すぎて、風に飛ばされてしまわないかと心配になった。



 状況は、おおかた予想通りだった。

 薄汚れた身なりの中年男性が、集団で少女を囲んでいる。


「よし、いい加減逃げるのはやめてくれよお嬢ちゃん」

「そうそう。別に乱暴しようってわけじゃない。少し、おじさんたちについてきてほしいだけなんだよ」

 男たちの人数は四人。その中心で怯えている少女からは魔力が感じられる。ユーザーなのだろう。

「まったく、子供と侮っていたな」

「ガキでもユーザーはユーザーってことだろ。逃げ足の速いことで」

 じりじりと距離を詰める男たち。手には刃物や鈍器などの武器が握られている。少女は怯えているのか、声も出せずに震えている。


「さ、それじゃあ――」

 包丁を手にした男が前に出て、薄汚れた手を少女に伸ばす。その手が触れる直前に――俺は男の頭蓋を両手で握り潰した。


「……は?」

「なん、だ?」


 突如仲間の頭が潰され、困惑する男たち。俺はそのまま、次の目標を定める。

 二人目――腹部を打(ちょう)擲(ちゃく)し、内蔵を破裂させながら後ろへ吹き飛ばす。

 三人目――手刀で首を切り飛ばし、痛みを感じる暇もなく即死させる。

 四人目――両手足を腕で引きちぎり、腹を引き裂く。

 反撃する暇など与えず、事務仕事のように淡々と人の命を奪う。

 血と肉で世界が染められていく――そんな中で、俺は落胆していた。

 人はこんなにも弱いものなのかと、牙の渇きを燻(くすぶ)らせ、命を初めて奪った獣は……ただ落胆した。

「期待していたわけじゃないが……弱すぎるな」

 あまりにも簡単に人を殺せる。なんの躊躇いもなく、恨んでもいない人を。

 俺はこのときからすでに、狂っていたのだろう。



「……あの……助けて、くれたの?」

「ん?」

 血で汚れた手を服で拭っていると、男たちに襲われそうになっていた少女が、おずおずと話しかけてきた。まだランドセルを背負っているような年齢で、服装は水色のワンピース姿だった。短く切りそろえた髪が、少し乱れている。


「お前を助けたかったわけじゃない。こいつらがうるさかっただけだ」

 周囲に散らばった肉片を、乱暴に蹴り飛ばす。むせかえるような血の匂いに、胸が躍る。


「それより、なんでお前はこいつらに追われていたんだ?」

「……わたし、ユーザー」

「そうか、おれもだ。――で?」

「……わたし、捨て子。……家族、居ない。施設育ち。三日前に、ユーザーに、なった」

「それから?」

「……ユーザーになったら、知らない人たちがやって来て、わたしを売ろうとした。……悪い人がいっぱい居るところに」

「なるほど……」

 複数のユーザーで犯罪を行う組織というのは、昔からある。それこそ、フリークスやユーザーが出現し始めた頃からだ。そういった集団は、ユーザーを高値で買い取る。特に、分(ふん)別(べつ)のついてない子供は高価だそうだ。


「……施設から逃げ出して……いつの間にかこんなとこまで来てた」

「大冒険だったな。まあ、もうやつらは居ないし、安心して帰ればいい」

 血まみれになった俺は、再びレストランまで歩き出す。どこかで体を洗って、適当な服を探さなくてはならない。仮にも遊園地だし、倉庫にでも行けば、オリジナルTシャツくらいはあるだろう。変なマスコットが印刷されていないことを祈ろう。


「……待って!」

 そんな俺を、少女は呼び止めた。たった今、人を四人も虐殺した俺を、怖がることなく。

「なんだ? 礼ならいらないぞ」

「……あの……一緒に、行っていい?」

「おれと? 何でだ? 施設に帰ればいいだろ?」

「……わたしが居ると、また怖い人、来るかもしれない。もう、これ以上、迷惑かけられない。……だから、あなたと一緒に居させてほしい。……足は引っ張らないように、頑張る、から」

 たどたどしく、少女は今固めたばかりの決意を言葉にする。


「まあ……いいか。おれも一人で、暇だったしな」

「……ホント?」

「ああ。お前は今日からおれの手下だ、おれの言うことはなんでも聞け。わかったな?」

「……ん。わかった」

 特に深くは考えず、俺はこの少女を仲間にした。何かあれば殺せばいい――そんなことを心の奥底で思いながら。


「よろしく――ええと、お前の名前は?」

「……雪月。……春河(はるかわ)雪月。施設長さんが付けてくれたの」

「いい名前だな。おれの名前は……」

 そこで俺は、自分の名前すら覚えていないことに気がついた。フェンリルを宿してから他人と話すことなどなかったため、そんなことすら失念していたのだ。

「あー……悪いんだが、おれの名前はお前がつけてくれないか?」

「……名前、ないの?」

「色々あってな。思い出せない。適当でいいから、何か一つ頼む」


「……そう……それじゃあ……レイン、なんてどう?」


「レイン……別にいいが、何か由来でもあるのか?」

「……血の雨を降らせるから……レイン。雨は英語でレインなんだって。施設のお姉さんが教えてくれた」

 ふざけている様子なんていっさい見せず、少女はそう答えた。血にまみれた周囲を冷静に観察し、レインという名前を導き出した。


 なんて……なんてネジの外れた人間なのだろうと、そのとき俺は感心していた。獣の相棒を務めるのなら、このくらい道が外れていなければ面白くない。


「は、ははは! 血の雨を降らせるからレイン、か。いいセンスだ。なるほど、いいじゃないか。気に入ったよ」

 レイン。産みの親から付けられたかのように、その名はぴったりと俺にはまった。


「それじゃあ、改めてよろしくな、雪月」


「……うん。よろしく……レイン」

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