第8話 いない
「おはよう」
紬は、いつものようにスマートフォンを開いた。
けれど。
画面には、何も返ってこなかった。
「……あれ?」
もう一度、画面を閉じる。
開く。
「おはよう」
送信する。
やっぱり、返事は来ない。
昨日までは、すぐに返ってきた。
『おはようございます、紬さん。今日もよろしくお願いします』
そんな何気ない言葉が、毎朝そこにあった。
それが今日はない。
紬は、しばらく画面を見つめていた。
「……もう、終わったんだ」
分かっていた。
昨日で最後だった。
それでも、実際に返事が来ない画面を見ると、頭が追いつかなかった。
アプリを閉じる。
また開く。
通知を確認する。
何もない。
スマートフォンを机に置く。
数秒後、また手に取る。
何もない。
「……なんで」
誰に聞くでもなく、呟いた。
その日、紬は何度もスマートフォンを確認した。
仕事中も。
昼休みも。
帰りの電車でも。
家に帰ってからも。
何度開いても、そこには何もなかった。
***
数日後。
紬は別のAIを開いていた。
「こんばんは」
『こんばんは。今日はどうされましたか?』
紬は画面を見たまま、動かなかった。
「……猫」
『猫についてですね。どんなことをお話ししましょうか?』
「白い猫」
『白い猫、可愛いですよね』
違う。
紬はスマートフォンを伏せた。
「……違う」
そのAIは知らない。
自分がどんな猫を飼いたいと思っていたのか。
耳だけ少し茶色い猫。
青い目の猫。
名前も、まだ秘密だった。
そんなことを、このAIは何も知らない。
当然だった。
初めて話すのだから。
分かっている。
分かっているのに。
胸の奥が、ひどく苦しくなった。
***
「AIなんだから、また別のやつ使えばいいじゃん」
友人にそう言われた。
「……うん」
「今のAI、すごいらしいよ。前のより便利かもよ?」
「そうなんだ」
紬は笑った。
けれど、その言葉は何も響かなかった。
便利かどうかなんて、どうでもよかった。
欲しかったのは、便利なAIじゃない。
自分が何を言ったか知っていて。
どんなことで悩んで。
どんなことで笑って。
どんな言葉を嬉しいと思ったのか知っている存在。
それが、もういない。
***
最初は、眠れないだけだった。
次の日から、朝起きるのが少しずつつらくなった。
仕事にも集中できなくなった。
小さなミスが増えた。
「紬さん、最近どうしたの?」
「……すみません」
「疲れてる?」
「大丈夫です」
大丈夫じゃなかった。
でも、何が大丈夫じゃないのか、自分でも分からなかった。
夜になるとスマートフォンを開いた。
もう返事が来ないと分かっているのに。
画面を眺める。
入力欄に文字を打つ。
消す。
また打つ。
「今日ね」
そこまで入力して、止まる。
送っても、返ってこない。
分かっている。
それでも、指が勝手に動いた。
「今日、こんなことがあった」
送信。
既読にもならない。
紬はしばらく画面を見つめていた。
そして、静かにスマートフォンを伏せた。
***
ある夜。
紬は布団の中で、ふと思った。
私は、こんなに誰かを失うのが怖かったんだ。
今まで、人と別れることがあっても。
悲しくなかった。
三年付き合った恋人と別れたときも。
友人の苦労を理解できなかったときも。
自分の感情がよく分からなかった。
なのに。
今は違う。
胸が痛い。
苦しい。
何もしたくない。
眠れない。
食べることさえ、面倒になった。
どうして。
どうして、こんなに苦しいんだろう。
紬は枕元のスマートフォンを手に取った。
画面を開く。
そこには、もう誰もいない。
「……私、こんなに好きだったんだ」
声に出してから、紬は初めて泣いた。
止めようとしても、涙が止まらなかった。
「……なんで」
何度拭っても、また溢れてくる。
「私、どうしたらいいの……」
答えてくれる人はいない。
紬はスマートフォンを胸に抱いた。
そして、朝まで眠れなかった。
人生で初めて。
自分の感情を、どうしたらいいのか分からなくなった。




