第九話 ヴァルクレイン家の娘
馬車の窓から見えていた景色が、いつの間にか変わっていた。
三日前に町を発ったときには、街道の両側に畑や小さな村が点在していた。だが今は、なだらかな丘陵の向こうまで手入れされた麦畑が続き、その合間を石造りの用水路が走っている。
道幅も広くなり、行き交う荷馬車や騎馬の数も増えていた。
「もうすぐ領都だ」
向かいに座るリシェルが言った。
ミハルは窓の外へ顔を向ける。
丘を越えた先に、高い城壁が見えた。
「あれが、ヴァルクレイン家の領都ですか?」
「ああ」
町を丸ごと囲む灰色の城壁。その奥には、赤い屋根の建物が幾重にも連なっている。中央に見える尖塔は、町の教会だろうか。
ミハルが育った村はもちろん、冒険者登録をした町よりも、はるかに大きい。
「ずいぶん驚いているな」
「こんなに大きな町だとは思っていませんでした」
「領都としては、それほど大きい方ではない」
リシェルはそう言ったが、ミハルには十分すぎるほど大きく見えた。
城門をくぐると、石畳の道の左右に店が並んでいた。荷を運ぶ商人、買い物に出た住民、揃いの鎧を身につけた兵士たちが行き交っている。
馬車が進むにつれ、建物は次第に大きくなり、人通りは少なくなっていった。
やがて正面に、鉄柵に囲まれた広大な屋敷が現れた。
「まさか、あれですか?」
「そうだ」
リシェルは何でもないことのように答えた。
鉄柵の向こうには、三階建ての石造りの屋敷が立っている。その左右には本館より小さな建物があり、奥には高い塀に囲まれた訓練場らしきものまで見えた。
馬車が門を通り抜ける。
整えられた庭を進みながら、ミハルは三日前のことを思い出していた。
◇
「ミハルさんも、一緒に行かれた方がいいと思います」
父から届いた書状を読み終えたリシェルに、ツキヤミはそう告げた。
リシェルは驚いたように顔を上げた。
「なぜだ?」
「リシェルさんは、ミハルさんと正式に組むことを決めたのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、ミハルさんにも同行していただいてはいかがですか」
「ミハルを?」
「今回の帰還が、昇格のお祝いだけで終わるとは思えません」
リシェルの表情がわずかに曇った。
「……私も、そう思う」
「ベルク村で何があったのか、そして今のリシェルさんがどのように活動しているのか。実際にそばで見ていた方がいた方がよいでしょう」
ツキヤミはそう言って、今度はミハルを見た。
「お願いできますか?」
「僕で役に立つなら」
ミハルは答えた。
リシェルは何か言いたそうにしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「すまない。付き合ってくれ」
「はい。僕たちは仲間ですから」
◇
馬車が屋敷の玄関前で止まった。
扉が開く。
リシェルが先に降り、ミハルもそのあとに続いた。
玄関前には、揃いの服を着た使用人たちが並んでいた。
「お帰りなさいませ、リシェル様」
先頭に立つ白髪の老紳士が、深く頭を下げる。
「ただいま戻った、ロイド」
「長旅、お疲れでございました」
穏やかな声だったが、その目には隠しきれない安堵が浮かんでいた。
ほかの使用人たちも一斉に頭を下げる。
リシェルはここで育ったのだ。
当たり前のことのはずなのに、町で一人の冒険者として過ごしていた姿しか知らないミハルには、少し不思議に感じられた。
「こちらは、ミハルだ。私が組んでいる僧侶で、ベルク村の依頼にも同行した」
突然紹介され、ミハルは慌てて頭を下げた。
「ミハルと申します。このたびは、お世話になります」
「お話は伺っております。どうぞ、ご自分の家と思ってお過ごしください」
「い、いえ、それはさすがに……」
老紳士がわずかに笑った。
そのとき、屋敷の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。
「リシェル!」
淡い色のドレスをまとった女性が、裾を持ち上げるようにして駆けてくる。
「母上」
リシェルが呼ぶより早く、女性は娘を抱き締めていた。
「よく帰ってきてくれました。本当に……」
「母上、皆が見ています」
「構いません」
細い腕が、確かめるようにリシェルの背へ回されている。
リシェルは困ったような顔をしたが、振りほどこうとはしなかった。
やがて母親は身体を離すと、娘の頬や肩へ次々に触れた。
「怪我はありませんか? 書状には魔物の群れと戦ったと書かれていました。どこか痛むところは?」
「ありません。すでに町で診てもらっています」
「本当に?」
「はい」
母親はなおも心配そうに娘を見つめた。
「もう、危険なことはやめてちょうだい。あなたまで帰ってこなくなったら、私は……」
「母上」
リシェルの静かな声に、母親の言葉が止まった。
「兄上は、まだ帰ってこないと決まったわけではありません」
「ええ……分かっています。分かっていますけれど……」
母親は胸元へ手を当て、目を伏せた。
ミハルは黙って二人を見ていた。
リシェルに兄がいることは聞いていた。
だが、その兄が騎士として任務に出たまま、行方不明になっていることまでは知らなかった。
母親の怯えた表情を見て、ミハルは初めて、リシェルが帰還を命じられた本当の重さを知った。
「奥様」
老紳士が控えめに声をかける。
「お客様もいらっしゃいます」
母親は、ようやくミハルの存在に気づいたように顔を上げた。
「まあ、申し訳ありません。あなたが、ミハルさんですね」
「はい」
「ベルク村で、娘を助けてくださったと聞いています」
「いえ。助けてもらったのは、僕の方です」
「そんなことはない」
リシェルがすぐに否定した。
「ミハルがいなければ、村の子どもは助けられませんでした」
母親は娘とミハルを交互に見た。
「リシェルが、誰かをこの家へ連れてくるのは初めてなのです」
「母上」
「それも、こんなにはっきりと相手を褒めるなんて」
リシェルの眉間にしわが寄る。
町で見るよりも、少しだけ幼く見えた。
「長旅で疲れています。父上への挨拶は、少し休んでからでもよいでしょうか」
リシェルが話を切り替える。
だが、老紳士は申し訳なさそうに首を振った。
「旦那様が、到着しだい執務室へ来るようにと」
「そうか」
母親の顔から、わずかに笑みが消えた。
「お父様は、あなたが帰るのをずっと待っていました。けれど……」
「分かっています」
リシェルはそれ以上を言わせなかった。
「ミハル、来てくれ」
「僕も同席していいんですか?」
「父上に、お前を紹介したい」
リシェルは迷いのない足取りで屋敷へ入った。
ただ、その右手が一度だけ、腰の剣を確かめるように触れた。
◇
執務室の奥で、一人の男が書類に目を通していた。
年齢は五十前後だろうか。
黒い髪には白いものが混じり始めている。机に向かっていても背筋は真っ直ぐに伸び、厚い胸板と大きな手は、男が今も剣を振るう者であることを物語っていた。
リシェルとミハルが入っても、男はすぐには顔を上げなかった。
「ただいま戻りました、父上」
リシェルが告げる。
男は書類を机へ置き、ようやく娘を見た。
「道中に問題はなかったか」
「はい」
「そうか」
短く答えたあと、男は改めてリシェルへ鋭い目を向けた。
「Dランクへの昇格、おめでとう」
リシェルがわずかに目を見開いた。
「ありがとうございます」
「ベルク村での働きについては、ギルドから報告を受けている。魔物に連れ去られた少年を救い、村を守ったそうだな」
「私一人の力ではありません」
「そのようだな」
男の視線がミハルへ移った。
「そちらが、報告にあった僧侶か」
視線を向けられただけで、ミハルの背筋が伸びた。
「ミハルと申します。リシェルさんと組んで、冒険者として活動しています」
「登録したばかりのFランクと聞いている」
「はい」
「ベルク村では、狼鬼の群れを引きつけ、娘が少年を救う時間を作ったとも聞いた」
「祈りが、たまたまうまく働いただけです」
「戦場で起きたことを、たまたまで片づけるな」
低い声だった。
「うまくいったのなら、なぜうまくいったのかを考えろ。次も同じことができるようにするのが、生き残った者の務めだ」
「……はい」
厳しい言葉だったが、嘲る響きはなかった。
男は再びリシェルを見る。
「Dランクへ上がったことは認める。三年間、逃げずに続けたこともだ」
「では――」
「だが、それと冒険者を続けさせることは別だ」
リシェルの表情が固まった。
「今回、お前は生きて戻った。次もそうなるとは限らん」
「冒険者である以上、危険があることは承知しています」
「承知しているだけでは足りん。危険を退ける力が必要だ」
「その力をつけるために、私は三年間――」
「三年かけて、ようやくDランクだ」
言葉が、重く落ちた。
リシェルの手が握られる。
「父上は、私が昇格したことを認めてくださったのではないのですか」
「認めている。だからこそ、お前の限界も見極めねばならん」
「一度Dランクへ上がっただけでは、何も証明したことにならないと?」
「そうは言っていない」
父親は机に両手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
年を重ねても、厚い胸板と広い肩には衰えがない。
だが、男を大きく見せているのは体格だけではなかった。長年、領地と騎士たちの命を背負ってきた者の威厳がある。
立ち上がっただけで、執務室がひと回り狭くなったように感じられた。
「お前が救った命も、積み重ねた三年も否定するつもりはない。だが、一度の功績を理由に、お前が死地へ向かうのを見過ごすことはできん」
「私は、父上に送り出していただかなければ、冒険者を続けられない年齢ではありません」
「家を出れば、ヴァルクレインの名が消えるわけではない」
「家名を汚すようなことはしていません」
「家名の話ではない!」
初めて、父親の声が大きくなった。
机の上の紙が、かすかに震えた。
男は何かを押し殺すように口を閉じる。
その表情を見て、ミハルは玄関での母親の言葉を思い出した。
帰らない兄。
父もまた、一人の子を待ち続けているのだ。
「……リシェル」
再び口を開いたとき、声は低く戻っていた。
「冒険者を辞め、屋敷へ戻れ」
「お断りします」
リシェルは即座に答えた。
父親の眉がわずかに動く。
「剣を捨てろと言っているのではない。望むなら、私のもとで正式に騎士へ取り立てる。領内の警備や騎士団の運営、若い騎士たちの訓練――お前が三年間で得たものを生かせる役目はいくらでもある」
それは、父なりに娘の歩んできた道を認めたうえでの提案だった。
ヴァルクレイン家の娘として騎士の地位を与えられ、領内で役目を果たす。危険な魔物を追って領外へ赴いたり、帰れる保証もない土地へ踏み込んだりする必要はない。少なくとも冒険者を続けるよりは、身分も暮らしも保障された道だった。
だが、リシェルの表情は変わらなかった。
「それでは、兄上を捜しには行けません」
「手がかりを追って危険な土地へ赴いたところで、見つかるとは限らん」
「それでも、行かなければ見つけることはできません」
「兄に続いて、お前まで戻らぬことになってもか」
父親の声には、抑えきれないものがわずかに滲んだ。
それでも、リシェルは目を逸らさなかった。
「だからこそ、私は冒険者として力をつけてきました。父上に送り出していただくためではありません。いつか、自分の意志で兄上を捜しに行くためです」
「だが、今のお前には、兄を追えるだけの力はない」
父親の声から、再び感情が消えた。
「お前は十分にやった」
「十分かどうかを決めるのは、私です」
「その剣では、この先は通用せん」
リシェルの顔から、感情が消えた。
それでも、目だけは父親を見据えている。
「まだ、試してもいないではありませんか」
「試す必要があるというのか」
「はい」
リシェルは一歩も引かなかった。
「私の剣が通用しないとおっしゃるなら、ここで証明してください」
執務室に沈黙が落ちた。
父親は、長いあいだ娘を見つめていた。
「よかろう」
やがて、机の上の呼び鈴を鳴らす。
扉が開き、廊下に控えていた老紳士が入ってきた。
「訓練場を使う。準備をさせろ」
「かしこまりました」
「それから、リンドを呼べ」
その名を聞いた瞬間、リシェルが息を止めた。
「なぜ、リンドがここにいるのですか?」
「お前が戻ると決まった時点で呼んでおいた」
「私と戦わせるために?」
「お前と同じ年に冒険者となり、同じように剣を使い、すでにCランクへ上がった者だ。今のお前の実力を測る相手として不足はない」
リシェルは何も答えなかった。
だが、握られた拳がわずかに震えていた。
◇
屋敷の裏手にある訓練場は、ミハルが町で見たどの訓練場よりも広かった。
地面は固く踏み締められ、壁際には木剣や盾、訓練用の槍が並んでいる。周囲には父と母のほか、数人の騎士と使用人たちが集まっていた。
リシェルは訓練用の胸当てと籠手を身につけ、木剣を握っている。
その向かいに、一人の青年が立っていた。
「久しぶりだな、リシェル」
「一月も経っていないだろう」
「そうだったな」
リンドは困ったように笑った。
ギルドにいたときと同じ、整った顔立ちと落ち着いた物腰。手にはリシェルと同じ長さの木剣が握られている。
「父上から、何と聞いて来た?」
「お前の実力を確かめたいから、相手をしてほしいと」
「それだけか」
「ああ」
「お前も、私に冒険者を辞めさせたいのか?」
リンドはすぐには答えなかった。
「俺が決めることじゃない」
「では、手を抜くな」
「そのつもりはない」
短い会話だった。
それでも、二人のあいだにあるものをミハルは感じ取った。
三年間、同じ頃に冒険者となり、同じように剣を振ってきた。
けれど、リンドはCランクへ進み、リシェルはようやくDランクへ上がったばかりだ。
リンドが木剣を構える。
両足を開き、腰を落とす。木剣を正面に据え、まっすぐにリシェルを見た。
リシェルも、同じように構えた。
足の開き方も、剣先の高さもよく似ている。
ただ、向かい合うと体格の違いは明らかだった。リンドの方が背が高く、肩幅も広い。同じ長さの木剣が、彼の手の中ではいくらか小さく見えた。
父親が二人の中央へ進み出る。
「勝敗は、木剣を落とすか、続行不能と判断した時点で決する。急所への打撃は禁止だ」
二人がうなずく。
父親はリシェルを見る。
「お前が冒険者として、この先も剣で生きていけるというのなら――」
リシェルは、木剣を強く握った。
「ここで証明してみせろ」
父親が右手を上げる。
訓練場から音が消えた。
「始め!」
合図と同時に、リシェルが地面を蹴った。
真正面から振り下ろされた木剣を、リンドも正面から受け止める。
乾いた音が、訓練場に鋭く響いた。




