第一話 この人は強いと思います
冒険者ギルドの扉を開けた瞬間、ミハルは入る場所を間違えたのではないかと思った。
酒と焼いた肉の匂いが、昼間とは思えない熱気に混じって押し寄せてくる。
広い一階の手前側は、ほとんどが酒場になっていた。
丸い卓を囲み、剣を腰に差した男たちが食事をしている。背中に斧を負った者や、革鎧から太い腕をのぞかせた者もいた。
教会では、まず目にしないような者ばかりだ。
奥には長い受付台があり、その近くの壁には、冒険者向けの依頼掲示板が設けられていた。
ミハルが入口で立ち止まっていると、近くの席にいた赤ら顔の男が顔を上げた。
「お、見ない顔だな」
その声に、何人かがこちらを振り返る。
「旅人か?」
「いえ」
ミハルは背筋を伸ばした。
「冒険者の登録に来ました」
「登録?」
赤ら顔の男は、ミハルを上から下まで眺めた。
旅立ちの際、師から渡された灰色の僧衣。その胸元には、小さな聖印が縫い込まれている。
「お前、僧侶だろ?」
「はい」
すると、少し離れた卓に座っていた僧衣の男も顔を上げた。
ミハルより十歳ほど年上に見える。杖を壁に立てかけ、首には神印を下げていた。
「冒険僧侶になるのか?」
「そのつもりです」
「いくつだ?」
「十八歳です」
「十八?」
男が眉を寄せる。
周囲の冒険者たちも、笑うのではなく、どこか不思議そうにミハルを見た。
「……教会を出てきた口か。」
誰かが独り言のようにつぶやいた。
「いえ、その……」
どう説明すればよいのか迷っていると、酒場の奥から落ち着いた声が届いた。
「冒険者登録でしたら、こちらのカウンターへどうぞ」
長い受付台の向こうに、一人の女性が立っている。
褐色の肌に、艶のある黒髪。高い位置で束ねた髪が、背中へ長く流れていた。
柔らかく微笑んでいるだけなのに、彼女が声をかけると、周囲の視線が自然とミハルから離れていった。
ミハルは小さく頭を下げ、受付へ向かった。
「初めまして。受付を担当しているツキヤミです」
「ツキヤミさん?」
「少し変わった名前でしょう?」
「きれいな名前だと思います」
ツキヤミは、わずかに目を見開いた。
それから、少し楽しそうに笑う。
「ありがとうございます。あなたのお名前は?」
「ミハルです」
「家名は?」
「ありません。農村の出身なので」
ツキヤミはうなずき、登録用紙と羽根ペンを差し出した。
名前、年齢、出身地。
扱える武器や術。
そして最後に、職業を書く欄があった。
ミハルは、その欄で少しだけ手を止めた。
「僧侶でよろしいですか?」
「はい」
そう答えて、紙に書く。
僧侶。
「治癒術は使えますか?」
「軽い傷なら」
「解毒は?」
「まだ使えません」
「浄化や魔除けは?」
「基礎的な祈りだけです」
ツキヤミは聞き取った内容を、登録用紙へ書き加えていく。
「教会での修行を終えて、冒険者へ?」
「師に、旅の中で学ぶように言われました」
「なるほど」
ツキヤミは、それ以上の事情を尋ねなかった。
ミハルは少しだけ肩の力を抜いた。
「冒険者に同行する僧侶には、治療以外の役割もあります。魔物討伐後の浄化、亡くなった方への祈り、辺境の村への巡回。必要とされる場面は多いでしょう」
「はい」
「ただし、教会の中よりも危険です」
「覚悟しています」
ツキヤミは、ミハルの顔をしばらく見つめた。
それから受付の下へ手を伸ばし、硬質なカードを取り出した。
手のひらほどの大きさで、ミハルの名前と所属支部、そしてEの文字が刻まれている。
「こちらが、身分証となる冒険者証です」
続いて、細い帯状の認証具を受付台へ置く。
中央にはこの支部の紋章が刻まれ、帯は薄い灰色をしていた。
「認証帯は、手首に巻いてください。紋章が所属支部、帯の色が階級を示します」
ミハルが左手首に認証帯を巻く。
「Eランクは、冒険者としての見習い期間です」
ツキヤミは灰色の縁を指した。
「受けられるのは、採取や運搬、危険度の低い魔物の討伐が中心になります。真面目に実績を積めば、半年から一年ほどでDランクに上がれますよ」
「Dランクになれば?」
「受けられる依頼が増えます。冒険者として一人前と見なされるのも、だいたいその頃からですね」
ミハルは手首の灰色を見つめた。
「では、まずDランクを目指します」
赤ら顔の男が、酒場の方から声を飛ばした。
「ずいぶん素直な新人だな!」
「十八で登録するくらいだから、何か事情があるのかと思ったが」
「案外、図太そうじゃないか」
笑いというより、面白がるような声だった。
ツキヤミも、わずかに口元を緩めている。
「最初のうちは、誰かと共同で依頼を受けることをおすすめします」
「僕と組んでくれる人はいるでしょうか」
「条件次第でしょうね」
ツキヤミが答えた直後、入口の方で扉が開いた。
金属同士が擦れる、重い音が響く。
ツキヤミがミハルの肩越しにそちらを見た。
「ああ。ちょうど帰ってきたようですね」
ミハルも振り返る。
全身を金属鎧で覆った戦士が、ギルドへ入ってきた。
屈強な男たちと比べれば、やや細身に見える。
ただし、全身鎧のせいで、本当の体格はよく分からない。
顔も兜に隠れている。
左の腰には、大きな剣が鞘に収められていた。
右腕には丸めた毛皮を抱え、その手からは、血の跡が残る二本の牙が下げられている。
その姿を見た途端、酒場のあちこちから声が上がった。
「おお、灰色様のお帰りだ!」
「今日はずいぶん立派な獲物じゃないか!」
「おい、今年で何年目だった?」
「三年目だろ」
「まだ灰色かよ!」
今度の声には、明らかなからかいが混じっていた。
だが、本人を追い出そうとするような険しさはない。
長く顔を合わせてきた者への、無遠慮な軽口のようだった。
全身鎧の戦士は何も言い返さず、受付へ向かって歩いてくる。
重い鎧をまとっているはずなのに、歩みに乱れがない。
一歩ごとの足音が、同じ間隔で床へ落ちる。
戦士はツキヤミの前へ来ると、牙と毛皮を受付台へ置いた。
「バルダ村の畑荒らしです」
兜越しの声は低く、少しくぐもっている。
「大猪を一頭。村長の確認印もある」
「お疲れさまでした、リシェルさん」
ツキヤミは依頼書を受け取り、確認印を照らし合わせた。
「本体は村へ?」
「肉は村に置いてきた。皆で分けてもらうことにした。毛皮も置いてくるつもりだったが、村人が持って帰ってくれと言って聞かなかった」
「やはり」
「依頼料が安いことは知っているから、せめて毛皮くらいは受け取ってくれと。礼だそうだ」
ツキヤミは毛皮を広げ、傷や汚れを確かめた。
「肉も毛皮も、討伐したあなたが受け取る権利はあったんですよ」
「村の畑が荒らされたんだ。肉は村にあった方がいい。冬支度には、毛皮も必要だ」
「それでも、村の方々が断ったのですね」
「ああ」
ツキヤミは、小さく息を吐いた。
呆れているようにも、笑っているようにも見える。
「では、ありがたく買い取らせてもらいます。牙と毛皮を合わせて二百四十リル。依頼料が三百リルです」
「合計五百四十か」
「装備の修繕や宿代を考えれば、決して余裕のある額ではありません」
ミハルは思わず口を挟んだ。
「大猪を一人で倒して、それだけなんですか?」
兜が、わずかにこちらを向いた。
「受けた依頼が、それだった」
「でも、大猪を倒せるなら、もっと難しい依頼も――」
「灰色じゃ受けられねえんだよ」
赤ら顔の男が、酒場から口を挟んだ。
「Eランクが受けられる依頼なんざ、たかが知れてる」
「それに、こいつは誰もやりたがらねえ依頼ばっかり選ぶ」
「畑荒らしに、家畜探し、村の柵直し……放っときゃ村が困る仕事ばっかりだ」
「だったら、誰かがやらないといけない」
リシェルは静かに答えた。
赤ら顔の男は苦笑する。
「そういうところが、お前なんだよ。」
「でもな。怪我して帰ってこられなくなったら、迎えに行くのは俺たちなんだ。」
「少しくらい、自分のことも考えろ。」
リシェルは何も言い返さず、硬貨の袋を腰へしまった。
酒場の何人かが、小さくうなずく。
ミハルはもう一度、リシェルを見た。
「リシェル」
酒場の奥から、若い男が立ち上がった。
整えられた革鎧を身につけ、腰には剣を差している。
左手首に巻かれた認証帯の縁は、青かった。
それを見た酒場の仲間たちが、声を上げる。
「ほら、リンド。本人に見せてやれよ!」
「今日からCランク様だぞ!」
「三年でCなら上出来だ!」
リンドと呼ばれた青年は、困ったように笑った。
「騒ぐほどのことじゃない」
「同じ日に登録した奴の前で、何を謙遜してるんだ」
その言葉に、酒場の空気が少しだけ変わった。
リンドはリシェルの前まで歩いてくる。
「今日、Cに上がった」
「そうか」
「……それだけか?」
「おめでとう、リンド」
短い言葉だった。
けれど、祝う気持ちに嘘はないように聞こえた。
「ありがとう」
リンドは嬉しそうに笑った。
だが、すぐにリシェルの左手首へ目を落とす。
灰色の認証帯。
「なあ、リシェル」
「なんだ」
「もう、十分じゃないか」
リシェルは答えなかった。
「お前が頑張ってきたのは知ってる。だからこそ、無理を続けなくてもいいと思う」
「私は戦士だ」
「でも――」
「お前がそう思わないなら、それでいい」
リシェルの声は平静だった。
怒鳴りもしない。
言い返しもしない。
ただ、右手がわずかに握られた。
「リンドは優しいな」
酒場の誰かが言った。
「俺なら、もっと早く諦めろと言うぜ」
「三年も灰色なら、答えは出てるだろ」
「努力だけで強くなれるなら、俺たち全員英雄だ」
数人が笑った。
リンドは止めようとしたが、言葉が見つからないようだった。
リシェルは何も言わず、その場に立っていた。
ミハルは、その姿を見つめていた。
三年間、Eランク。
皆の言うことは分かる。
けれど。
目の前に立つ人物が、どうしても弱い人には見えなかった。
「これ以上続けても、傷つくだけだ」
リンドが静かに言った。
リシェルは答えず、受付を離れようとする。
「あの」
気づけば、ミハルは声を出していた。
リシェルが足を止める。
酒場の視線が、再びミハルへ集まった。
「なんだ、坊主」
赤ら顔の男が笑う。
「お前も何か言ってやるのか?」
ミハルは、もう一度リシェルを見た。
戦う姿を見たわけではない。
剣のことも、冒険者のことも知らない。
理由を説明することもできなかった。
それでも、なぜか分かった。
「僕は」
一度、言葉が止まる。
今日、登録したばかりの自分が言うことではないのかもしれない。
それでも、黙ってはいられなかった。
「この人は、強いと思います」
一瞬、酒場から音が消えた。
それから、何人かが吹き出した。
「見る目まで初心者かよ!」
「三年Eのどこが強いんだ!」
「坊主、まずは人を見る練習からだな!」
笑い声が広がっていく。
リンドは困惑した顔で、ミハルを見つめていた。
リシェルも、兜の奥から何も言わずにこちらを見ている。
ただ一人。
受付台の向こうで、ツキヤミだけが笑っていなかった。
金色の瞳が、わずかに細められる。
「……へぇ」
誰にも聞こえないほど小さくつぶやいて、ツキヤミは静かに微笑んだ。




