第15話 ようやく、君が僕を選んでくれた
翌朝、クロエは少し照れた顔で僕を呼んだ。
「クロード様」
僕は、すぐには返事をしなかった。
聞こえなかったわけではない。
むしろ、聞こえすぎていた。
クロエの声で僕の名が形になる。
ユリウスではない。
クロード。
彼女の口の中で、僕がようやく僕になる。
だから、一拍だけ待った。
返事をすれば、その名は会話になってしまう。
返事をしなければ、その一拍だけ、名前は僕だけのものだった。
「……おはよう、クロエ」
そう返すと、彼女はほんの少しだけ首を傾げた。
「お疲れですか」
「いいや」
「今、少しだけ遠くを見ていらしたので」
遠く。
彼女は、鋭い。
自分の痛みには鈍いのに、人の小さな翳りにはすぐ気づく。
十年前もそうだった。
彼女は自分が泣かされていたのに、僕の左手の血を見た。
「君の声を聞いていただけだよ」
「私の声を?」
「うん」
「変ではありませんか」
「とても綺麗だ」
クロエは、困ったように目を伏せた。
「クロード様は、すぐにそういうことをおっしゃいます」
「本当のことだから」
「なおさら困ります」
その困った顔が、少しだけ赤くなる。
僕はそれを見て、胸の奥が静かに満ちるのを感じた。
かわいい、と思った。
愛しい、と思った。
そして、それを誰にも見せたくないと思った。
クロエが名前を呼ぶ時のためらい。
褒められた時の戸惑い。
困ったように目を伏せる癖。
全部、僕だけが知っていればいい。
「昨夜は眠れた?」
「はい。白百合庭園へ行ったからか、少し疲れていたようです」
「悪い夢は?」
「見ませんでした」
「よかった」
本当によかった。
彼女は、昨日、過去に別れを告げた。
ユリウスの銀栞を置き、クロードを選び、自分の続きを読みに行くと言った。
これで、悪夢を見る理由はひとつ減った。
もちろん、すべてが消えるわけではない。
クロエの中には、まだ傷が残っている。
母を失った傷。
父に守られなかった傷。
義母と義妹に虐げられた傷。
婚約者に捨てられた傷。
それらはすぐには消えない。
けれど、消えなくてもいい。
僕がいる。
傷が残るなら、そのたびに僕が薬を塗ればいい。
眠れない夜が来るなら、灯りを用意すればいい。
食べられない朝があるなら、蜂蜜を半匙だけ入れたミルクを置けばいい。
彼女が泣くなら、泣いていいと言えばいい。
もう、すべて分かっている。
クロエの傷の場所も。
触れていい順番も。
待つべき距離も。
欲しがる前に差し出してはいけないものも。
彼女が受け取れるようになるまで置いておくべきものも。
十年かけて調べた。
だから、間違えない。
「今日は、どうしたい?」
僕が尋ねると、クロエは目を瞬かせた。
「私が、決めてよいのですか」
「もちろん」
「では……」
彼女は少し考えた。
考える時間を与える。
急かさない。
選ばせる。
その行為自体が、彼女にとっては練習になる。
「母の日記を、少し読んでみたいです」
「一緒に?」
「はい。もし、ご迷惑でなければ」
「迷惑なはずがない」
答えると、クロエは小さく笑った。
「クロード様は、いつもすぐにそう言います」
「本当のことだから」
「では、少しだけ」
彼女はそう言って、母の日記を抱えた。
窓辺の椅子に座る。
僕は真正面ではなく、少し斜めに腰を下ろした。
最初の頃と同じだ。
視線を逃がせる位置。
彼女が泣いても、顔を隠せる距離。
ただし、手を伸ばせば届く場所。
クロエは日記を開いた。
母親の字が並ぶ。
王国歴五一七年。
クロエが白百合の刺繍を気に入ってくれた。
まだ針を持つには早いけれど、私の横で真剣に見ている。
あの子には、淡い水色が似合う。
春の光の中にいると、花より静かで、葉よりやさしい。
クロエの指が止まった。
「お母様……」
声が震える。
僕は何も言わなかった。
彼女は泣くだろうか。
泣いていい。
ここで泣いていい。
僕の前で。
けれどクロエは、涙をこぼさなかった。
少し目を潤ませただけで、続きを読んだ。
王国歴五一八年。
春の祝宴。
クロエが庭園で迷子になった。
怖かった。あの子を見失った一瞬、息が止まるかと思った。
見つかった時、クロエは泣いていたけれど、手に銀の栞を持っていた。
王子様に助けていただいたと言う。
あの子は、宝物を見つけた顔をしていた。
クロエは、そこで日記を閉じた。
「まだ、読めません」
「うん」
「でも、読めました。少しだけ」
「十分だよ」
僕が言うと、彼女は日記を胸に抱いた。
「昨日、白百合庭園で栞を置いてきました」
「うん」
「それで、少し不安でした。ひどいことをしたのではないかと。あの栞は、私を支えてくれたのに」
「ひどいことじゃない」
「そうでしょうか」
「大切にしていたから、ちゃんと別れられたんだ」
クロエは、ゆっくり頷いた。
「そう、ですね」
「忘れる必要はないよ」
「はい」
「ただ、もう握りしめなくていい」
その言葉に、彼女は少しだけ笑った。
「クロード様は、私が言ってほしい言葉ばかりくださいますね」
「そう?」
「はい。まるで、私の中を読んでいるみたいです」
僕は笑った。
「君の続きを読ませてくれると言ったのは、クロエだよ」
彼女の頬が赤くなった。
昨日の白百合庭園。
門を出る時、僕は言った。
君の続きを、僕にも読ませてくれる?
彼女は微笑んだ。
一緒に、読んでください。
あの言葉を、僕は何度でも思い出せる。
僕は、もう彼女の読者になった。
いや、違う。
隣にいる者になった。
彼女の物語を外から眺めるのではなく、同じ頁に名を書ける場所へ来た。
クロエ。
クロード。
その並びは、もう紙の上だけではない。
昼過ぎ、僕は彼女を中庭へ連れて行った。
白百合ではない花が咲く庭。
彼女が初めて明日を楽しみにした場所。
卓には紅茶と焼き菓子。
蜂蜜は半匙。
木の実入りの小さな菓子。
淡い水色の膝掛け。
用意はいつも通りだった。
いつも通りであることが大切だ。
人は、繰り返される優しさを信じる。
一度の救済は奇跡だ。
二度目は偶然。
三度目から、日常になる。
僕は、クロエの救済を日常にしたかった。
「クロード様」
彼女が僕を呼ぶ。
また、一拍だけ待つ。
「うん」
「今、また少し遅れました」
「そう?」
「はい」
気づかれていた。
胸の奥が少し熱くなる。
気づいてくれた。
彼女は、僕が返事を遅らせていることに気づいた。
つまり、その一拍のあいだ、彼女も僕を待っていた。
「呼ばれるのが嬉しくて」
僕は正直に言った。
「すぐ返事をするのが、惜しくなる」
クロエは瞬きをした。
それから、耳まで赤くなった。
「そういうことを、あまり真顔でおっしゃらないでください」
「困る?」
「困ります」
「嫌?」
クロエは少しだけ迷った。
「嫌では、ありません」
その答えだけで、呼吸が深くなった。
嫌ではない。
今の彼女は、そう言った。
僕の名への執着を。
彼女の声を少しだけ引き留める僕を。
嫌ではない、と。
ならば、まだ大丈夫だ。
夕方、クロエを客室へ送ったあと、僕は執務室に戻った。
机の上には、厚い報告書を収めた箱がある。
鍵はかけてある。
銀箱も、栞の小箱も、いつもの場所にある。
すべて整っていた。
僕は報告書をもう一度取り出した。
特に理由はない。
ただ、確認したかった。
最終成果確認。
対象C、クロード殿下への生涯同伴意思、自発的に表明。
何度読んでも、美しい。
僕は、その頁に触れた。
これで、クロエは僕の隣に来た。
母の腕から。
レナード家から。
婚約者から。
ユリウスの記憶から。
すべてを抜けて、僕のところへ。
僕は間違っていない。
彼女は今日、穏やかに笑っていた。
母の日記を少し読めた。
中庭へ行きたいと言えた。
名前を呼ぶ時に、少し照れた。
それは幸福だ。
僕が作った幸福。
僕が整えた明日。
僕が十年かけて、彼女のために用意した日常。
罪であるはずがない。
もしこれを罪だと言うなら、世界の方が間違っている。
僕は報告書を閉じた。
革表紙を撫でる。
三十一・二センチ。
十年分にしては、やはり少し薄い。
もっと書けた。
もっと記録できた。
クロエが初めて王宮の寝台で眠った夜の呼吸。
母の髪飾りを抱いた時の指の震え。
蜂蜜を半匙にしたミルクを飲み終えたあとの小さな安堵。
名前を呼ぶ時のためらい。
白百合庭園で銀栞を置いた時の涙。
どれも、もっと細かく残せた。
言葉で残せば、失わない。
記録すれば、誰にも奪われない。
これからはいくらでも記録できる。
明日からの彼女は、僕の隣にいる。
僕が直接見られる。
報告官の文字ではなく、僕の目で。
そう思うと、胸の奥が静かに満ちた。
僕は報告書を箱へ戻した。
銀の留め具を閉じる。
鍵をかける。
その音が、ひとつの終わりのように聞こえた。
ようやく、終わった。
ユリウスという名を殺し。
銀貨を溶かし。
母という避難所を消し。
義母と義妹を入れ。
婚約者を与え。
婚約破棄を起こし。
救い。
返し。
泣かせ。
待ち。
白百合庭園へ連れていき。
過去に別れを告げさせ。
そして、選ばれた。
ようやく。
ようやく、君が僕を選んでくれた。
僕は目を閉じる。
白百合庭園での彼女の声が、今も耳に残っている。
私は、あなたと生きたいです。
あれは、僕のための言葉だった。
クロードのための言葉だった。
ユリウスではなく。
クロードのための。
そう思った時、机の端で小さな音がした。
箱へ戻したはずの報告書の角が、わずかにずれている。
留め具をかける時、厚い紙束の端が引っかかったらしい。
僕は箱を開け直した。
報告書を少し持ち上げる。
その下から、銀色のものが滑り落ちた。
薄い音がした。
金属が木の床を打つ音。
僕は動きを止めた。
銀の栞だった。
白百合の細工はない。
装飾もない。
ただ薄く、冷たい銀板。
僕の小箱に保管した白百合の銀栞ではない。
見覚えのない栞だった。
拾い上げる。
指先が冷えた。
裏面に、文字が刻まれている。
まず目に入ったのは、年号だった。
王国歴五一八年。
その下に、短い一文。
白百合庭園にて。
僕は、息を止めた。
王国歴五一八年。
白百合庭園。
クロエが、僕にハンカチを差し出した年。
クロエが、幼い王子から銀栞を受け取った年。
僕が、彼女を見つけた年。
その筆跡を、僕は知っているはずがなかった。
知っていては、いけなかった。
なのに、知っていた。
クロエが白百合庭園に置いていった、あの銀栞。
幼い王子が、彼女に渡したという、あの栞。
そこに刻まれていた言葉と、同じ癖のある字だった。
僕は、続きを読んだ。
最終工程。
クロード殿下とクロエ・レナード嬢の婚約破棄をもって、本計画は完了。
クロード殿下には最後まで、自身をユリウスと認識させること。
早く見たい。
ユリウス




