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虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた  作者: 堀吉 蔵人


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14/15

第14話 クロエ・レナード嬢幸福化計画

報告書は、厚さ三十センチを少し超えていた。


正確には、三十一・二センチ。


革装の表紙に、銀の留め具。


背表紙には何も刻んでいない。


正式な政務文書ではないからだ。


正式にすれば、誰かが読む。


読まれれば、誤解される。


僕がクロエを傷つけたのだと。


違う。


僕は、彼女を傷つけるものがどこにあり、誰の顔をしていて、どの順番で取り除けば、彼女が僕の手を取れるのかを調べただけだ。


表紙を開く。


最初の頁には、表題がある。


クロエ・レナード嬢幸福化計画。


よい名だと思う。


保護では足りない。


救済でも足りない。


僕が望んだのは、幸福だった。


ただし、彼女が僕の隣で笑う幸福だ。


それ以外の幸福は、記録する価値がない。


第一項。


対象C基礎観察。


年齢。


身長。


体重推移。


食事量。


睡眠時間。


読書傾向。


好きな色。


苦手な味。


恐怖反応。


嘘をつく時の視線。


我慢する時の指先。


泣きそうな時の呼吸。


どれも大切だった。


人を愛するなら、知らなければならない。


知らずに差し出す優しさは、ただの押しつけだ。


クロエは蜂蜜を半匙まで好む。


二匙以上では、喉に残る。


焼き菓子は甘いものより、木の実の入ったものを少しだけ食べる。


完全な暗闇では眠りが浅くなる。


扉に鍵がかかっていると、最初は不安が強まるが、三日目以降は睡眠時間が伸びる。


白百合を見ると視線が止まる。


銀栞に触れた夜は、悪夢が少ない。


僕は頁をめくる。


字は整っている。


報告官は優秀だった。


対象C、蜂蜜量半匙で摂食安定。

対象C、淡色衣服への反応良好。若葉色、水色、白百合刺繍に対し表情緩和。

対象C、手部の痛みを軽視。保護具贈与により受容訓練可能。

対象C、謝罪頻度高。否定ではなく再学習が必要。


再学習。


そう。


クロエは、多くのことを学び直さなければならなかった。


食べていい。


眠っていい。


怒っていい。


泣いていい。


受け取っていい。


愛されていい。


僕がひとつずつ教えた。


君は何も悪くない。


謝らなくていい。


ここにいていい。


どれも本当の言葉だ。


本当の言葉でなければ、彼女には届かない。


嘘の優しさは、弱い。


彼女を変えるには、本当の優しさが必要だった。


ただし、置く場所と順番を間違えてはいけない。


優しさは、温度と同じだ。


急に熱いものを触れさせれば、相手は手を引く。


冷たい場所に長く置きすぎれば、温かさを信じられなくなる。


少しずつ。


毎日。


同じ温度で。


彼女がそれを恐れなくなるまで。


彼女がそれを当然だと思うまで。


そして、いつかその温度がないことを寂しいと思うまで。


そうなれば、優しさは居場所になる。


僕は、その居場所になりたかった。


第二項。


喪失物返還手順。


母の髪飾り。


日記。


小箱。


信託財産証書。


銀栞。


ユリウス王子銀貨。


返すものは、すべて一度、僕の手を通さなければならない。


そうでなければ、意味がない。


クロエが失ったものを、ただ戻すだけでは足りない。


誰が返したのか。


誰が守ったのか。


誰が「君のものだ」と言ったのか。


それが重要だ。


報告書には、王宮客室での反応も記されている。


母親遺品返還時、対象C、落涙。

クロード殿下による「泣いていい」発話後、抑制低下。

対象C、殿下前での感情表出に成功。

信頼形成、進行。


僕はその行に指を置いた。


信頼形成。


美しい。


彼女が僕の前で泣いたことは、ただの涙ではない。


彼女が泣く場所を、僕のそばに移したということだ。


母の膝から。


誰もいない部屋から。


銀栞の裏の文字から。


僕の前へ。


よい進行だった。


とても、よい進行だった。


あの時のクロエは、母の髪飾りを抱いて泣いた。


僕のために泣いたわけではない。


それは分かっている。


母のために泣いた。


失った日々のために泣いた。


奪われた時間のために泣いた。


けれど、その涙を見ていたのは僕だった。


泣いていいと言ったのは僕だった。


涙を止めなかったのも、急かさなかったのも、僕だった。


だから、あの涙は少しだけ僕のものだ。


全部ではない。


全部だと思うほど、僕は傲慢ではない。


ただ、少しだけ。


ほんの少しだけ。


彼女の泣き方の中に、僕の言葉が混じった。


それだけで十分だった。


その十分を、もっと欲しいと思った。


第三項。


旧名記憶剥離。


この項目は、特に時間をかけた。


ユリウスは、クロエの中で美しすぎた。


あの日の王子様。


白百合庭園。


銀栞。


泣き終わったら、続きを読めばいい。


その記憶を乱暴に奪ってはいけない。


汚してもいけない。


美しいものは、美しいまま終わらせる方がいい。


クロエは、ユリウスを憎んではならなかった。


憎しみは、相手を近くに置く。


感謝して、別れを告げる。


それが最も深く切れる。


だから、図書室に古い童話集を置いた。


だから、ユリウス王子銀貨を返した。


だから、白百合庭園へ行く時期を待った。


彼女が自分で言うまで。


ユリウス殿下に、ありがとうと言うために。


そして、今の私の続きを読みたいと思います。


よい言葉だった。


とてもよい。


白百合庭園で、彼女は銀栞を置いた。


自分の手で。


僕が奪ったのではない。


彼女が手放した。


報告欄には、こうある。


対象C、白百合庭園にて銀栞を設置。

旧名ユリウスに対する感謝表明。

対象C、過去依存の終了を自発的に宣言。

旧名記憶剥離、完了。


完了。


僕は、そこを何度も読んだ。


完了。


なんて美しい言葉だろう。


十年前、彼女はユリウスに救われた。


今日、彼女はユリウスに別れを告げた。


そして、クロードを選んだ。


記録は正しい。


正しいはずだ。


それでも僕は、同じ頁を何度も読んだ。


旧名記憶剥離、完了。


完了。


完了。


その文字を、目でなぞる。


指でなぞる。


声には出さない。


声に出せば、まだ不安が残っていると認めることになる。


不安などない。


クロエは言った。


私は、あなたと生きたいです。


クロード様、と呼んだ。


ユリウスではなく。


クロード。


僕のための名前。


彼女の口の中で、ようやく形になった僕の名前。


それでも、僕は思ってしまう。


その声の底に、まだユリウスが沈んでいないか。


彼女が僕を見た時、その瞳の奥で、十年前の王子様が薄く重なっていないか。


だから、剥離は必要だった。


愛は、余分な影を残してはいけない。


第四項。


クロード殿下への同伴意思形成。


ここから先は、特に慎重に扱った。


依存ではいけない。


依存は脆い。


強すぎる恐怖もいけない。


恐怖で取った手は、恐怖が消えれば離れる。


必要なのは、選択だった。


彼女が、自分でそう思える選択。


だから僕は、何度も言った。


君が決めていい。


今でなくていい。


無理なら行かなくていい。


受け取るかどうか、君が選んでいい。


すべて本心だ。


僕は本当に、彼女に選んでほしかった。


ただし、彼女が正しく選べるように、余計な道は整理しておいた。


レナード家へ戻る道。


婚約者へ縋る道。


父に認められようとする道。


義母と義妹に許されようとする道。


ユリウスの思い出だけで生きる道。


それらは、もう不要だった。


不要な道が残っていると、人は迷う。


迷いは不幸だ。


だから、僕は迷いを減らした。


選択肢を奪ったのではない。


彼女が幸せへ進むために、道を整えた。


クロエが自分で選ぶのを見たかった。


本当に、見たかった。


僕に命じられてではなく、誰かに押されてでもなく、彼女自身の声で、僕を選ぶと言ってほしかった。


だから、その声が出るまでの道を、すべて整えた。


彼女が自由に選べるように。


僕以外を選ばないように。


矛盾しているとは思わなかった。


自由とは、正しい場所に置かれて初めて美しく働くものだからだ。


最終記録。


対象C、白百合庭園にてクロード殿下を名前で呼称。

対象C、「私は、あなたと生きたいです」と発話。

発話時、恐怖反応なし。

涙あり。表情、安定。

クロード殿下への生涯同伴意思、自発的に表明。


自発的に。


僕は、その文字を指でなぞった。


自発的に。


美しい。


彼女は自分で選んだ。


僕は間違っていない。


少なくとも、記録上は。


いや、記録だけではない。


彼女の声で聞いた。


彼女の目で見た。


彼女の手が、僕の手を握り返した。


あれは本物だ。


本物でなければならない。


僕は椅子の背にもたれた。


執務室は静かだった。


時計の針の音だけがする。


銀箱の中には、白百合のハンカチがある。


別の小箱には、回収した銀栞がある。


机には、三十センチを超える報告書。


十年分の手順。


十年分の観察。


十年分の愛。


この厚みは、僕がどれほど彼女を丁寧に愛したかの証明だった。


薄い愛ではない。


一時の感情ではない。


偶然の救済ではない。


僕は、彼女が僕を選ぶまでのすべてを見た。


すべてを整えた。


すべてを記録した。


それを、罪だと言う者もいるだろう。


ならば、そいつは愛を知らない。


愛は、相手を幸福にするための技術だ。


技術には記録がいる。


手順がいる。


検証がいる。


失敗した時の代替案がいる。


僕は、失敗を許したくなかった。


クロエの幸福に、偶然を混ぜたくなかった。


だから、三十一・二センチになった。


足りないくらいだ。


王宮に来た最初の夜の記録もある。


対象C、入眠まで四十二分。

扉への視線、十三回。

銀栞への接触、三回。

呼吸安定、第三鐘前。

夜間覚醒、二回。

翌朝、蜂蜜半匙にて摂食改善。


僕はその数字を、何度も読んだ。


クロエが眠っている。


僕の用意した部屋で。


僕の選んだ灯りの中で。


僕の知らない誰の名前も呼ばずに。


その夜、僕は初めて、彼女の眠りに嫉妬した。


眠っている間のクロエは、僕を必要としない。


だから僕は、眠る前の世界を整えた。


灯り。


香草。


枕元の本。


湯の温度。


夜着の肌触り。


扉の鍵。


侍女の足音の遠さ。


彼女が眠りへ落ちる直前、最後に触れるものが、僕の選んだ優しさであるように。


夢までは選べない。


だから、夢の入口を僕で満たす。


それは愛だった。


少なくとも、僕にとっては。


僕は報告書の最後の頁を開いた。


最終成果確認。


対象C、レナード家より完全離脱。

旧婚約、破棄済。

母親遺品、返還済。

義母、義妹、旧婚約者、父親、処分工程へ移行。

旧名ユリウスへの依存、剥離完了。

クロード殿下への同伴意思、自発的に表明。


下に、空欄がある。


承認署名。


僕はペンを取った。


クロード。


そう署名する。


ユリウスではない。


クロード。


クロエが選んだ名。


クロエが呼んだ名。


クロエの隣に並ぶための名。


インクが乾くのを待つ間、僕は目を閉じた。


長かった。


本当に、長かった。


白百合庭園で彼女に会ってから、十年。


ようやく、彼女は僕を選んだ。


僕は報告書を閉じた。


重い音がした。


三十一・二センチの幸福が、机の上で沈黙する。


これで終わりではない。


これから、クロエとの日々が始まる。


朝の紅茶。


半匙の蜂蜜。


白百合ではない庭。


時々、母の日記を読む時間。


怖い夢を見た夜の灯り。


名前を呼ぶ声。


クロエ。


クロード様。


その響きを、これから何度でも聞ける。


僕は、報告書を箱へ戻そうとした。


その時、紙束の端から、一枚の薄い栞が落ちた。


銀ではない。


ただの紙の栞だった。


古い紙。


端が少し焼けたように茶色くなっている。


僕はそれを拾い上げた。


そこには、短い文字があった。


王国歴五二八年、白百合夜会後。

対象C、クロード殿下への信頼形成開始。

経過、良好。


僕は小さく笑った。


何でも記録するものだ。


十年分もあれば、栞まで報告になる。


紙の栞を報告書に挟み直し、今度こそ箱へ収める。


鍵をかける。


これでいい。


すべて、順調だ。


僕は窓の外を見た。


夜の向こうに、白百合庭園がある。


クロエは、あの日の王子様に別れを告げた。


僕は、彼女を迎えた。


救済は完了した。


あとは、彼女がこの幸福に慣れていくだけだ。


僕のそばで。


僕の名前を呼びながら。


僕が作った、彼女のための穏やかな明日の中で。



虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた

【Merry Bad End.】

メリバ派の皆様へ。

ここで本を閉じることを、強くおすすめします。

ここまでは、間違いなく歪で幸福な物語です。

どうか、クロードの愛を信じてあげてください。

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ホラーやんけ!!!
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