第14話 クロエ・レナード嬢幸福化計画
報告書は、厚さ三十センチを少し超えていた。
正確には、三十一・二センチ。
革装の表紙に、銀の留め具。
背表紙には何も刻んでいない。
正式な政務文書ではないからだ。
正式にすれば、誰かが読む。
読まれれば、誤解される。
僕がクロエを傷つけたのだと。
違う。
僕は、彼女を傷つけるものがどこにあり、誰の顔をしていて、どの順番で取り除けば、彼女が僕の手を取れるのかを調べただけだ。
表紙を開く。
最初の頁には、表題がある。
クロエ・レナード嬢幸福化計画。
よい名だと思う。
保護では足りない。
救済でも足りない。
僕が望んだのは、幸福だった。
ただし、彼女が僕の隣で笑う幸福だ。
それ以外の幸福は、記録する価値がない。
第一項。
対象C基礎観察。
年齢。
身長。
体重推移。
食事量。
睡眠時間。
読書傾向。
好きな色。
苦手な味。
恐怖反応。
嘘をつく時の視線。
我慢する時の指先。
泣きそうな時の呼吸。
どれも大切だった。
人を愛するなら、知らなければならない。
知らずに差し出す優しさは、ただの押しつけだ。
クロエは蜂蜜を半匙まで好む。
二匙以上では、喉に残る。
焼き菓子は甘いものより、木の実の入ったものを少しだけ食べる。
完全な暗闇では眠りが浅くなる。
扉に鍵がかかっていると、最初は不安が強まるが、三日目以降は睡眠時間が伸びる。
白百合を見ると視線が止まる。
銀栞に触れた夜は、悪夢が少ない。
僕は頁をめくる。
字は整っている。
報告官は優秀だった。
対象C、蜂蜜量半匙で摂食安定。
対象C、淡色衣服への反応良好。若葉色、水色、白百合刺繍に対し表情緩和。
対象C、手部の痛みを軽視。保護具贈与により受容訓練可能。
対象C、謝罪頻度高。否定ではなく再学習が必要。
再学習。
そう。
クロエは、多くのことを学び直さなければならなかった。
食べていい。
眠っていい。
怒っていい。
泣いていい。
受け取っていい。
愛されていい。
僕がひとつずつ教えた。
君は何も悪くない。
謝らなくていい。
ここにいていい。
どれも本当の言葉だ。
本当の言葉でなければ、彼女には届かない。
嘘の優しさは、弱い。
彼女を変えるには、本当の優しさが必要だった。
ただし、置く場所と順番を間違えてはいけない。
優しさは、温度と同じだ。
急に熱いものを触れさせれば、相手は手を引く。
冷たい場所に長く置きすぎれば、温かさを信じられなくなる。
少しずつ。
毎日。
同じ温度で。
彼女がそれを恐れなくなるまで。
彼女がそれを当然だと思うまで。
そして、いつかその温度がないことを寂しいと思うまで。
そうなれば、優しさは居場所になる。
僕は、その居場所になりたかった。
第二項。
喪失物返還手順。
母の髪飾り。
日記。
小箱。
信託財産証書。
銀栞。
ユリウス王子銀貨。
返すものは、すべて一度、僕の手を通さなければならない。
そうでなければ、意味がない。
クロエが失ったものを、ただ戻すだけでは足りない。
誰が返したのか。
誰が守ったのか。
誰が「君のものだ」と言ったのか。
それが重要だ。
報告書には、王宮客室での反応も記されている。
母親遺品返還時、対象C、落涙。
クロード殿下による「泣いていい」発話後、抑制低下。
対象C、殿下前での感情表出に成功。
信頼形成、進行。
僕はその行に指を置いた。
信頼形成。
美しい。
彼女が僕の前で泣いたことは、ただの涙ではない。
彼女が泣く場所を、僕のそばに移したということだ。
母の膝から。
誰もいない部屋から。
銀栞の裏の文字から。
僕の前へ。
よい進行だった。
とても、よい進行だった。
あの時のクロエは、母の髪飾りを抱いて泣いた。
僕のために泣いたわけではない。
それは分かっている。
母のために泣いた。
失った日々のために泣いた。
奪われた時間のために泣いた。
けれど、その涙を見ていたのは僕だった。
泣いていいと言ったのは僕だった。
涙を止めなかったのも、急かさなかったのも、僕だった。
だから、あの涙は少しだけ僕のものだ。
全部ではない。
全部だと思うほど、僕は傲慢ではない。
ただ、少しだけ。
ほんの少しだけ。
彼女の泣き方の中に、僕の言葉が混じった。
それだけで十分だった。
その十分を、もっと欲しいと思った。
第三項。
旧名記憶剥離。
この項目は、特に時間をかけた。
ユリウスは、クロエの中で美しすぎた。
あの日の王子様。
白百合庭園。
銀栞。
泣き終わったら、続きを読めばいい。
その記憶を乱暴に奪ってはいけない。
汚してもいけない。
美しいものは、美しいまま終わらせる方がいい。
クロエは、ユリウスを憎んではならなかった。
憎しみは、相手を近くに置く。
感謝して、別れを告げる。
それが最も深く切れる。
だから、図書室に古い童話集を置いた。
だから、ユリウス王子銀貨を返した。
だから、白百合庭園へ行く時期を待った。
彼女が自分で言うまで。
ユリウス殿下に、ありがとうと言うために。
そして、今の私の続きを読みたいと思います。
よい言葉だった。
とてもよい。
白百合庭園で、彼女は銀栞を置いた。
自分の手で。
僕が奪ったのではない。
彼女が手放した。
報告欄には、こうある。
対象C、白百合庭園にて銀栞を設置。
旧名ユリウスに対する感謝表明。
対象C、過去依存の終了を自発的に宣言。
旧名記憶剥離、完了。
完了。
僕は、そこを何度も読んだ。
完了。
なんて美しい言葉だろう。
十年前、彼女はユリウスに救われた。
今日、彼女はユリウスに別れを告げた。
そして、クロードを選んだ。
記録は正しい。
正しいはずだ。
それでも僕は、同じ頁を何度も読んだ。
旧名記憶剥離、完了。
完了。
完了。
その文字を、目でなぞる。
指でなぞる。
声には出さない。
声に出せば、まだ不安が残っていると認めることになる。
不安などない。
クロエは言った。
私は、あなたと生きたいです。
クロード様、と呼んだ。
ユリウスではなく。
クロード。
僕のための名前。
彼女の口の中で、ようやく形になった僕の名前。
それでも、僕は思ってしまう。
その声の底に、まだユリウスが沈んでいないか。
彼女が僕を見た時、その瞳の奥で、十年前の王子様が薄く重なっていないか。
だから、剥離は必要だった。
愛は、余分な影を残してはいけない。
第四項。
クロード殿下への同伴意思形成。
ここから先は、特に慎重に扱った。
依存ではいけない。
依存は脆い。
強すぎる恐怖もいけない。
恐怖で取った手は、恐怖が消えれば離れる。
必要なのは、選択だった。
彼女が、自分でそう思える選択。
だから僕は、何度も言った。
君が決めていい。
今でなくていい。
無理なら行かなくていい。
受け取るかどうか、君が選んでいい。
すべて本心だ。
僕は本当に、彼女に選んでほしかった。
ただし、彼女が正しく選べるように、余計な道は整理しておいた。
レナード家へ戻る道。
婚約者へ縋る道。
父に認められようとする道。
義母と義妹に許されようとする道。
ユリウスの思い出だけで生きる道。
それらは、もう不要だった。
不要な道が残っていると、人は迷う。
迷いは不幸だ。
だから、僕は迷いを減らした。
選択肢を奪ったのではない。
彼女が幸せへ進むために、道を整えた。
クロエが自分で選ぶのを見たかった。
本当に、見たかった。
僕に命じられてではなく、誰かに押されてでもなく、彼女自身の声で、僕を選ぶと言ってほしかった。
だから、その声が出るまでの道を、すべて整えた。
彼女が自由に選べるように。
僕以外を選ばないように。
矛盾しているとは思わなかった。
自由とは、正しい場所に置かれて初めて美しく働くものだからだ。
最終記録。
対象C、白百合庭園にてクロード殿下を名前で呼称。
対象C、「私は、あなたと生きたいです」と発話。
発話時、恐怖反応なし。
涙あり。表情、安定。
クロード殿下への生涯同伴意思、自発的に表明。
自発的に。
僕は、その文字を指でなぞった。
自発的に。
美しい。
彼女は自分で選んだ。
僕は間違っていない。
少なくとも、記録上は。
いや、記録だけではない。
彼女の声で聞いた。
彼女の目で見た。
彼女の手が、僕の手を握り返した。
あれは本物だ。
本物でなければならない。
僕は椅子の背にもたれた。
執務室は静かだった。
時計の針の音だけがする。
銀箱の中には、白百合のハンカチがある。
別の小箱には、回収した銀栞がある。
机には、三十センチを超える報告書。
十年分の手順。
十年分の観察。
十年分の愛。
この厚みは、僕がどれほど彼女を丁寧に愛したかの証明だった。
薄い愛ではない。
一時の感情ではない。
偶然の救済ではない。
僕は、彼女が僕を選ぶまでのすべてを見た。
すべてを整えた。
すべてを記録した。
それを、罪だと言う者もいるだろう。
ならば、そいつは愛を知らない。
愛は、相手を幸福にするための技術だ。
技術には記録がいる。
手順がいる。
検証がいる。
失敗した時の代替案がいる。
僕は、失敗を許したくなかった。
クロエの幸福に、偶然を混ぜたくなかった。
だから、三十一・二センチになった。
足りないくらいだ。
王宮に来た最初の夜の記録もある。
対象C、入眠まで四十二分。
扉への視線、十三回。
銀栞への接触、三回。
呼吸安定、第三鐘前。
夜間覚醒、二回。
翌朝、蜂蜜半匙にて摂食改善。
僕はその数字を、何度も読んだ。
クロエが眠っている。
僕の用意した部屋で。
僕の選んだ灯りの中で。
僕の知らない誰の名前も呼ばずに。
その夜、僕は初めて、彼女の眠りに嫉妬した。
眠っている間のクロエは、僕を必要としない。
だから僕は、眠る前の世界を整えた。
灯り。
香草。
枕元の本。
湯の温度。
夜着の肌触り。
扉の鍵。
侍女の足音の遠さ。
彼女が眠りへ落ちる直前、最後に触れるものが、僕の選んだ優しさであるように。
夢までは選べない。
だから、夢の入口を僕で満たす。
それは愛だった。
少なくとも、僕にとっては。
僕は報告書の最後の頁を開いた。
最終成果確認。
対象C、レナード家より完全離脱。
旧婚約、破棄済。
母親遺品、返還済。
義母、義妹、旧婚約者、父親、処分工程へ移行。
旧名ユリウスへの依存、剥離完了。
クロード殿下への同伴意思、自発的に表明。
下に、空欄がある。
承認署名。
僕はペンを取った。
クロード。
そう署名する。
ユリウスではない。
クロード。
クロエが選んだ名。
クロエが呼んだ名。
クロエの隣に並ぶための名。
インクが乾くのを待つ間、僕は目を閉じた。
長かった。
本当に、長かった。
白百合庭園で彼女に会ってから、十年。
ようやく、彼女は僕を選んだ。
僕は報告書を閉じた。
重い音がした。
三十一・二センチの幸福が、机の上で沈黙する。
これで終わりではない。
これから、クロエとの日々が始まる。
朝の紅茶。
半匙の蜂蜜。
白百合ではない庭。
時々、母の日記を読む時間。
怖い夢を見た夜の灯り。
名前を呼ぶ声。
クロエ。
クロード様。
その響きを、これから何度でも聞ける。
僕は、報告書を箱へ戻そうとした。
その時、紙束の端から、一枚の薄い栞が落ちた。
銀ではない。
ただの紙の栞だった。
古い紙。
端が少し焼けたように茶色くなっている。
僕はそれを拾い上げた。
そこには、短い文字があった。
王国歴五二八年、白百合夜会後。
対象C、クロード殿下への信頼形成開始。
経過、良好。
僕は小さく笑った。
何でも記録するものだ。
十年分もあれば、栞まで報告になる。
紙の栞を報告書に挟み直し、今度こそ箱へ収める。
鍵をかける。
これでいい。
すべて、順調だ。
僕は窓の外を見た。
夜の向こうに、白百合庭園がある。
クロエは、あの日の王子様に別れを告げた。
僕は、彼女を迎えた。
救済は完了した。
あとは、彼女がこの幸福に慣れていくだけだ。
僕のそばで。
僕の名前を呼びながら。
僕が作った、彼女のための穏やかな明日の中で。
虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた
【Merry Bad End.】
メリバ派の皆様へ。
ここで本を閉じることを、強くおすすめします。
ここまでは、間違いなく歪で幸福な物語です。
どうか、クロードの愛を信じてあげてください。




