3.ペチュニア②
予定の時間より少し早く目的地に着いた。さすがにこんな早朝はこっちでも寒い。
電車を調べ、駅へ向かった。
最寄り駅に着き、自宅へ向かう…歩くのちょっとしんどいな。
さすがに今日仕事の康太に頼むのは気が引けるし…タクシー使っても良かったかなぁ…
とぼとぼ歩いていると、アパートに着いた。
康太を起こさないように、玄関のドアをゆっくり開け、音を立てないように閉じる。
――見慣れない女性のブーツがある。こんなにヒールの高いものは私は買わない。
誰?なんで?
心臓の音がやけにゆっくり、酷く大きく聞こえる。手の震えが止まらない…
薄暗い階段を見上げる。
靴を脱いでカバンを置き、階段を上る。
ゆっくり、1段ずつ…足が重い…ドアに手をかけ、なんとか開ける…
テーブルには食べかけのお菓子やお酒が残されている。
ソファに見慣れぬ派手な色のショルダーバッグと薄いピンクのチェックのコート…
ゆっくりと、開けっ放しの寝室へ向かう…
心臓の音がうるさい…
床に服や、下着が散らばっている…
――康太と茶髪の女性が寝ていた。
この場にいたくなくて、重い足で玄関に向かう。
手がうまく動かない。
落ちないようにゆっくり階段を下る…
心臓が痛い…怖い…
カバンをなんとか肩にかけ、外に出る…
ドアを背にもたれかかり、座り込んでしまった。
…康太が……そんな…何が起こってる?…
視界にレオくんが立っていた。目が合った途端、涙がとめどなくこぼれ落ちた。
駆け寄って話しかけてくれた。
「すみれ?大丈夫?」
声が震えて喋れない…
私の体じゃないみたいに言うことがきかなかった。
立ち上がろうとしてもなかなか力が入らず、レオくんの手を借りたが、よろけて支えてもらってしまった。自分が情けない…
「すみれ…」
ひどく優しく聞こえた声に少し震えが和らいだ。
「家に帰りたくない」
やっと絞り出せたのはこんな駄々っ子の様な言葉。
涙が止まらず流れ続け、今の私は支えられないと立てない、話せない…こんなのただレオくんを困らせるだけなのに、優しく寄り添ってくれた。
「一旦、俺の家に行こうか?外は寒いし、こんな状態を放っておけないよ」
部屋着にサンダル姿…そんな薄い格好で付き合わせてしまって申し訳なかった…
レオくんのリードのままに、ゆっくりレオくんの家へ向かった。
暗いグリーンのソファに案内してくれた。
ふと、こんなやすやすと男性の家に入ってしまった、と思ったがこの時間どこも行けないし、やむを得ない…それに私とレオくんの仲だから大丈夫だろう。
少し落ち着いてきた…涙を拭いたティッシュに黒い欠片が目立つ。
レオくんに洗面所を借りて鏡を見る。
目は腫れて、化粧も崩れてひどい有様だった。滲むアイメイクをできるだけ拭きとる。
なんて無様で情けないのだろう…
リビングへ戻るとレオくんがココアを入れてくれていた。
「ありがとう。ごめんね…びっくりしたよね…」
申し訳なさと恥ずかしさで胸が詰まる。
なんて説明をすればいいのか…
「少し落ち着いた?ゴミ出して戻ろうとしたら、座り込んで震えてるすみれ見えちゃったからさ…どうしたの?」
ぽつりぽつり、と何とか伝えていく。旅行帰りで、さっき家で見た事…
まだショックで涙が流れる。
レオくんは静かに涙を拭きながら聞いてくれた。
「……私、もう…分からない…こんな目に遭うなんて…」
まだ頭が混乱する…感情の制御が難しい。
「実は昨日の夜、女の人と家に入る旦那さんを見かけたんだ…すみれも家にいて、知ってるものだと思ってて…こんなことだったなんて…」
もしかしてずっと前から続いているのだろうか…
「最近、康太が夜に出かけることが多かったの…仕事や友人付き合いだと思ってたけど、もしかしたら…」
「よくスマホ触ってたりしてなかった?」
「…してたけど、ゲームしてばかりで…なんのゲームかは分からないけど…」
「ゲーム内でチャット機能とかフレンドと話せる機能があるんだよ」
そんな…そんなの隠し放題じゃない…
手で口を覆った。
こんなに怪しかったのに、不倫を疑いもしなかった。なんて愚かなんだろ…
「もっと疑うべきだった…なんで、こんな信じ込んでしまってたんだろう…私…ばかだ……」
「そんなこと言わないで。旦那さんを信じていただけなんだから。普通のことだよ?」
「ううん…こんなんだから浮気されるんだよ…もう…ダメだ……」
これからどうしよう…どうすればいい?
……答えがまるで出ない。
心が深く沈んでいく…
「今日は俺、休みだから、ずっといてもいいからね?」
ハッとして時計を見た。
もう8時になる。
「そんな、悪いよ!せっかくのお休みなのに…それにこんなにお世話になっちゃって…」
慌てて立ち上がろうとする私を、レオくんは座らせる。
「大丈夫だよ、ゆっくりしていって…それに、まだ旦那さんお家にいるんじゃない?」
そろそろ康太は出勤のはず……
あぁ…私はどこに帰ろうとしてたのか思い出した…
私の家だった場所…
康太がいなくなっても、あの家に戻りたくない。
でも、どうしようもない…
「車…なかったら出勤してるから…」
「ならキッチンの横の窓から、駐車場見えるよ?」
レオくんが案内してくれる。
窓を開けるとちょうど、康太の車が見えた。
「…ごめん、まだ少しここにいてもいい?」
「もちろん、いいよ。楽にして?」
「ありがとう…」
カバンからお土産を探す。自分用に買った米粉のクッキーだけど、お礼にレオくんにあげよう。
「レオくん…これお土産、このお礼も兼ねてどうぞ」
「いいの?ありがとう…へぇ珍しいね…一緒に食べよう!」
「あ…うん!」
こんなに喜んで貰えるとは…それに気になってたから、そう言ってもらえてよかった。
ソファに座り直し、冷めてしまったココアを飲む。
「ココア温め直す?」
「大丈夫、猫舌だから熱いの苦手なんだ」
「ふふ…昔から変わらないね」
「…そう?」
持ってきたお皿にクッキーを移しながら、レオくんは楽しそうに話し始める。
「甘いのが好きで、ホットミルクも砂糖をたっぷり入れて、ココアも熱いからって氷入れて冷ます…覚えてない?」
「覚えてはいないけど、今もそうだよ?舌はまだまだお子ちゃまのままね」
ココアを飲んでホッとしたのか、笑えるようになった。
あんなに震えて泣いていたのが嘘みたい。
「クッキーも美味しいよ」
「ほんと?…サクサクだね。でも米粉ってわかんないね」
「んー確かに?」
雑談をしながら、時が過ぎるのを待った。
ふと時計を見ると、もう10時を回っていた。
一気に現実が冷たく戻ってくる。帰らなきゃ……
「レオくんそろそろ時間だから…帰るね」
「念の為に、駐車場覗いてみたら?」
「え、あぁ…うん…」
さすがにもう居ないと思うけど、今、康太に会うのが1番避けたいから、念の為…
――車がまだある…
リンカルを確認する。
今日は休みでも遅出でも無いのに…
どういうこと?…急に休んだ?
それとも…予定の共有まで嘘をついてたの?
…もう何も信じれない…考えたくない、考えられない…
黒い渦に飲まれそうになる…もう涙も出ない。
――ミモアから通知が来た…康太からだ。
『帰るの夕方だよね?気を付けてね!お土産楽しみ!』
いつもと変わらないメッセージだ…
裏切られてると知った今、その普通も痛く刺さった。
どうしよう…
レオくんが私のスマホを取り、操作し始めた。
「なにするの?」
「大丈夫…見てて」
私になりすまし、康太へメッセージを打っている。
『そうだよー康太はちゃんと会社行けた?』
思わずレオくんの顔を見た。
確かにこの聞き方なら、休んだのか聞ける。
『ちゃんと寝坊せずに行けたよ笑 澄玲の朝ごはんが恋しいよー』
…あぁ…あの人は…嘘をついていたんだ…
こんなにも隠して、普通に騙して…私のそばにいたんだ…
――カシャ!
レオくんがスマホで康太の車の写真を撮った。
「写真、日付と時間が分かるようにして、ミモアに送っておくね…ちょっとした証拠だけど、少しでも多い方がいいでしょ?」
そうだ…何がともあれ、とにかく証拠を集めないと進めない…
周りの看護師や助産師仲間が言っていたのを思い出す。
「旦那さん…康太さんを許すか、離婚するか、どっちにしても証拠を取っておいて損は無いよ」
「じゃあ、今、家に行けば撮れるんじゃ…」
「すみれが見た時のままなら良い証拠になるけど、今行っても服着てたり、家に入った時間も証拠ないから厳しいと思うよ」
あぁ…私は肝心なところで失敗してしまった…
「そっか…はぁ、あの時逃げなきゃよかったな…」
「しょうがないよ…突然見たのに、行動できることなんて少ないよ」
「ごめん…レオくんは冷静だね。そうやってすぐ出来たらいいんだけど…」
「謝らないの。自分の事じゃ無いから、冷静になれるのかもしれないよ?」
「そうだね…レオくんがいてくれて良かったよ、メンタル的にもさ」
もし逃げ場がなかったら、落ち着かせてくれる人がいなかったら、冷静な人がいなかったら…
私はきっと今まだ震えて泣いていただろう。
「すみれにそう言われると、昔に戻った気分になれるよ」
「昔は頼りっぱなしだったもんね。ずっとくっついて、レオくんの後を追っていたの覚えてる」
とりあえず夕方になるまで居させてもらうことになった。
「探偵をしてる奴がいるんだけど、相談してみる?」
「え?」
「すみれが養護院を去った後に来た、俺と同い歳のやつでさ。信頼できるよ」
「…紹介してもらおうかな」
木曜日にレオくんと一緒に会うことになった。
お昼は食欲が無かったが、レオくんの和風パスタを1口貰った。あまり味がわからなかった。
もしかしたらクッキーも今じゃなかったら、味がわかったのかも……
夕方になり、開けてくれていたキッチンの窓から声がした。
立ち上がろうとしたが、
「すみれは座ってて…」
レオくんがスマホを構えて見に行ってくれる…
何を話しているかまでは分からない。
レオくんが戻ってきた。
「動画撮れたけど、相手の顔までは入らなかった…送っておくね」
「…ありがと」
今はこの動画を確認出来そうにない。
もう戻らなきゃ……
「私、もう戻るね…遅くまでごめんね。」
気持ちが重たい。怖い。
「すみれ…いつでもうちに来ていいし、何かあったらなんだって連絡して?」
「ありがとう…それじゃ行くね…」
レオくんの部屋を出た瞬間、見る景色がモノクロになった気がした。
恐る恐る部屋に入っていく…家に帰るのがこんなにも苦痛なことはなかった。
リビングも寝室もキレイに片付けてある。
荷解きもせず、すぐに全ての寝具のカバーを剥ぎ取りゴミ袋に詰め込んだ。
全ての窓を開け換気する。
汚い…汚い…自分の家がおぞましく感じる…
とりあえずシャワーを浴びる。
全部洗い流されて欲しい…何かしてないとおかしくなりそうだ…
シャワーから上がり、そのまま洗濯をしようとカゴの中のものを洗濯機へ入れる…
濡れたタオルが入っている…もちろん今使ったやつじゃない。
濡れたタオルをすぐに洗濯しない時は、干すように言ってるのに……
それに誰が使ったタオル?
このタオルもカバーを詰めたゴミ袋へねじ込み、洗濯を始めた。
寝具に新しいカバーをし、荷解きをし、ブーケの水を替え、終わった洗濯物を干す。
食欲は無いけれど、夕飯の支度をする…
なるべく普段通りにしないと……
いつもの私はどうだったっけ?
戻らなきゃ…戻らなきゃ…戻らなきゃ…
ペチュニアの花言葉
『あなたと一緒なら心が安らぐ』『変化に富む』
次回、6月4日20:30予定。
お読み頂き、ありがとうございました!
評価して下さると嬉しいです。




