10.シラー
私の性病検査の結果はどれも陰性だった。また3ヶ月後にならないと分からないけど、ひとまず安心した。
今日は久しぶりにカペラに会いに実家へ帰らなきゃ…
康太の事は言わない。あくまで夫婦間の問題だし、離婚する訳でもない。余計な心配をかけたくなかった。
康太がわざわざ車を出してくれた。犬アレルギーの康太は私の実家に入れない。
だからいつもは電車の移動でいいのだが、今日は譲らなかった。
別にそこまでしなくていいのに…車の中で待たせるのも悪いし。
実家に着き、車から降りる。
「それじゃ、いってくるね」
「うん、ゆっくりしといで」
ドアを開けると、テトテトと歩いてくるオムツをつけたカペラが見えた。昔は駆け回って跳ねたりして迎えてくれてたのに…
「ただいまぁ、カペラ元気だった?」
それでも嬉しそうにしっぽを振って歓迎してくれる。
「澄玲、おかえりなさい。早く中に入って。ここ寒いから」
「はーい」
カペラを抱えてリビングへ向かう。
「あれ、母さん、美希さんは?」
「部屋で寝てるわ。陸斗、昨日すごい夜泣きで大変だったんだから~」
「悪い時に来ちゃったかな…」
もし美希さんを起こしてたりしたらどうしよう。申し訳ないな。
「カペちゃんが心配なんでしょ?しょうがないわよ」
「あの後何ともなかったの?」
「一時的で、今ではちゃんとご飯食べてるけど、起きててもずっと横になってる事が増えたね。やっぱり」
「そっか…カペももうヨボヨボおばあちゃんになっちゃったね」
顎の下を撫でると変わらず手もペロペロ舐めてくるけど、どこか力が弱く感じた。
――エェァーエァー
オムツかな?
陸斗の泣き声が響いてきた。
「ミルクまであと少しだけど、オムツかしら?ちょっと行ってくるわね」
「はーい」
母を見送り、カペラを撫でる。
「カペラ…最近辛いことあってさ。人生ってホント試練ばかりだね…カペラも今試練中かな?痛いの嫌だね…」
欠伸をし、鼻を舐めだした。眠たくなったのかな。
カペラをベッドへそっと置く。
母さんと、陸斗を抱いた少しお疲れ気味の美希さんがこっちへ戻ってきた。
「おはようございます。美希さん、すみません。大変な時にお邪魔しちゃって」
「おはよう、気にしないで!澄玲ちゃんの家でもあるんだし」
「ありがとうございます」
「丁度いい、陸斗にミルクあげていって?少し早いけど、寝かせてるのもあれだから」
「いいんですか?」
「澄玲ちゃんなら慣れてるでしょ?それにお見舞いに来てくれた時、抱っこ出来なかったからね」
「ありがとうございます!」
陸斗を美希さんから受け取り、母さんが準備していたミルクとガーゼを貰い与えていく。
「陸斗ちゃんお元気だねぇ、良い子だねぇ」
つい癖で「ちゃん呼び」をしてしまった。
なんて温かいんだろう…
慣れてるのに改めて感じる。
「そういえば澄玲!あのお花屋さんのお兄さんの写真とか無いの?」
「あるわけないでしょー。…養護院の集合写真くらいじゃない?」
「どこにあるのさ」
「教えないよ!てか、レオくんに変なこと教えるのやめて。おばあちゃんがこんなんで大変だねぇ、陸斗」
ちゃんと陸斗の様子を見ながら、言い合う。
「でも、二十数年ぶり?なのによくお互いわかったね?」
「私もビックリで…レオくんは、特徴的だから分かりやすいけど、私なんてそんな覚えられるような顔じゃないのに、すぐ分かってくれて…あっ、もう飲み終わったの、偉いね」
ガーゼを肩にかけ、陸斗の背中をトントンする。
「ただいまぁ、あっ澄玲、康太くん待ってたぞ」
兄さんが帰ってきた。
「アンタ、康太くんと来てたの?」
「ついつい忘れてた。良いのよ、待たせとけば。車出したがったの康太だし」
「康太さん、澄玲ちゃんがお花屋さんに会うの嫌だったんじゃない?」
「まさか…ないですよ」
ただの罪悪感なんですよ、っと心でつぶやく。
陸斗からゲップを確認し、美希さんの元へ返した。
「まぁもう時間だし、カペラと陸斗にも会えたからもう行こうかな」
兄さんが洗面所から戻ってきた。
「え、俺は?」
「兄さんはお見舞いの時にも会ったじゃん、もういいよ」
「ほら、もう行きな!父さんも澄玲に会いたがったから早いうちに顔出しなさい。気を付けなさいね、康太くんにもよろしく伝えといて」
母さんが背中を押してくる。
「はーい、おじゃましました~」
寝ているカペラの頭を撫でる。
「また来るからね」
玄関へ向かい、実家を出た。
康太の待つ車へ戻る。
「…おまたせ~」
「おかえり、どうだった?」
「カペラもまぁ元気そうだったかな。陸斗にミルクあげさせてもらって、すごく可愛かった…」
危ない…「私も赤ちゃん欲しい」と、言いかけるところだった…
少なくとも今はそんな場合じゃない。
「良かったじゃん。俺も赤ちゃん抱っこしてみたいなぁ」
…一瞬、耳を疑った。いや、抱っこしてみたいだけ。欲しいんじゃない。
積極的に話題に出せない今が歯痒い。
「可愛いよ、小さくて、あたたかくて」
思えば仕事や康太の不倫が辛くてもやっていけたのは、あの子たちのおかげかもしれない。抱っこしたり、顔を見るだけで癒された。
信号で止まり、外を見るとレオくんの勤めるお花屋さんが見えた。土曜日だからか結構人がいた。あんなに人がいるお花屋さんって初めて見たかも。レオくんの姿もチラッと見えた。
あんなに忙しいのに、休みの日を私に使わせてしまって余計に申し訳ない。ちゃんとお礼しなくちゃ。
「…あれがあの人の花屋?」
「え?あぁ、レオくんのいるお花屋さんだよ。すごく賑わってるね」
「…顔だよ、どうせ」
呟くように吐いた言葉が引っかかる。
なんて失礼なこと言うんだろ。花びらの1つさえもくれた事ないくせに。
「そうね、買った花を見る度にレオくんのこと思い出すし、枯れた花を見てまた思い出すでしょうね。素敵じゃない」
…ダメだ、あの日からずっとこんな感じだ。
トゲをつけて返してしまう。ぎこちない。こんなんじゃやり直しなんてできない。
「どうして花なんかがいいの?枯れるし、水の入れ替えとかめんどうじゃん」
「キレイだからじゃない?特別感あるし、手入れする時だって買った場面や貰った場面思い出すし」
「ふーん…」
いつも通りに、なんてすぐにできる訳じゃないのは分かってるけど、この空気の重さに耐えられない。
それにこの後、私たちが向かうのは弁護士事務所。
余計に重くなる。
事務所へ着き、この間の録音を弁護士に渡した。
弁護士が康太に相手の事を聞き出すが、会社の部署と名字と住所しか分からないけれど、それでも内容証明は送れるらしい。
今日はざっくりとした私達の誓約書、相手への慰謝料、内容証明の筋書きを決めて終わった。
やっとここまで来れたけれど、長引かなきゃいいな…
また来週の土曜日に、今度はどちらも正式に決めることになった。
家に帰ると、少し肩の荷がおりたのか涙が流れた。
まだ大筋しかないけれど進められた気がする。
ここからもまだ険しい道のりは続くけれど、頑張らなきゃ…
「澄玲…」
康太が優しく抱きしめてくれる。
一方で前みたいに優しく出来ない自分がいる。心が開けなくなった。
康太の背中に手を回せない。
これがぎこちない原因だけど、どうしていいかも分からない。
康太も諦めたように干渉はしてこなかった。
淡々と夕食を作り、食べ、各々シャワーをして、寝る準備に入った。
それが私を不安にもして、安堵にもさせる。
もう12時…今日夜勤なのに。
出しっぱなしだった半纏を羽織り、ベランダに出た。夜風に当たりたかった。
ここから見えるのは目の前の一軒家だけ。あとは散らばったアパートやマンションの光が遠くに見える。
こうしてると少し思い出すママとの思い出…
寒い田舎の山の中。足が痛いと泣く私を夜中中、おんぶしてくれたママの匂いと木々と土の香り。泣きすぎて痛い目と足の痛み。
思い出せるように深呼吸をしたけど、あの香りもママの顔もはっきり思い出せない…
――ヴーッヴーッ
スマホの通知は電話だった。レオくんから…すぐに出た。
「レオくん?どうしたの??」
「下見て?」
少しろれつの回らない声が聞こえた。
見下ろすと、レオくんがいた。少しふらつきながら手を振っていた。
「どうしたの?」
「知り合いとの飲み会の帰りで…すみれの姿見えちゃって気になったんだ…大丈夫?」
「大丈夫だよ。早く帰りなよ?風邪ひいちゃうよ」
今日は比較的暖かいが、やはり夜は寒い。
「まだ熱くて…よく――せて?」
「え?なに?」
上手く聞こえなくて、少しだけ身を乗り出す。
レオくんはこっち見て優しく微笑むだけだった。
「…外は寒いんだから、早く帰って暖かくしてね?」
「すみれもだよ。すみれが家に入るまで、俺見てるから」
「えー、わかったよ。もうベッドに行く。だからレオくんも帰ってね?」
「わかったよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
レオくんが帰っていくのを見届けて、私も中へ戻る。
康太ともこうやって話せたらいいのに…
手足と頬が思ったよりも冷えてしまった。
寝室に戻ると康太も起きていた。
「ごめんなさい。起こしちゃったね」
「大丈夫…俺は明日も休みだし。それ、珍しいね」
「学生の頃よく着てたけど、初めて見るっけ?」
「たぶん?」
確かに康太の前で着たこと無いな…あ、あの時…
「国試直前のさ、私ずっと勉強で、康太も仕事で会えなかった時あったじゃん?」
「あぁ、俺も1年目で忙しくてあまり会えなかったね、懐かしいなぁ」
「でも、夜にさ、突然家の前に来たの覚えてない?」
「…あぁ!チャリで1時間かけて行った時!」
ちょうどさっきのような出来事だった。
休憩中、急に康太から電話がきて「窓を見て!」と言われ、見に行くと自転車に跨った康太が大きく手を振っていた。
「その時これ着てたけど、少し遠くて分からなかったか」
「あ~そんな様な気がしなくもない」
半纏を脱ぎ、ベッドへ潜る。
「あの時、休憩中で良かったね。勉強中だったらブチ切れてた」
「危ね、1時間チャリ漕いだんだぜ?しかも冬の夜に」
「しかもそこで少し話して、会わずにそのまま帰ったもんね」
「そーだよ、また寒い中1時間…」
「あれ?電車も無い夜中だったっけ?」
「いや、雪で止まってた」
「わざわざそんな日に来なくて良かったのに」
「仕事帰りに降ってきた雪見てさ、無性に澄玲に会いたくなって…衝動的に行っちゃった」
「ふふ、若かったねぇ」
あの頃を思い出し、頬が少し熱くなる。
若い時は衝動的に会いに来てくれたのに、それが数年経つと浮気しちゃうなんて。
「…本当にあの時と気持ちは変わってないんだ」
「それってどういう意味?」
顔を康太の方へ向けた。
変わってないならあんな事しないのに…
「澄玲がいるのが当たり前で、失いたくないって…大学の時だってちゃんと断る事できてたのに…」
コンパやなにかのイベントの度に「言い寄られたけど、ちゃんと断った!」や「告白されたけど、ちゃんと断った!」と嬉々として報告してきたことを思い出す。
「どうして今になって断ることも出来なくなるの?」
「当たり前だと思い過ぎちゃったんだ…ずっといてくれるって…それに…」
康太の目から涙が流れた。
「…しっかりしてる澄玲が俺の嘘を純粋に信じてくれる度に、器用になった気になって、そんな自分に酔ってて…まだ女にモテるんだって自惚れたけど、罪悪感も感じて……そんな小さい事で澄玲を傷付けて…本当にごめん…」
「半年も続けたの酷いよ…」
声が震える…
「…向こうが情緒不安定で断ると怖くて……適当にあしらっておこうとしたけど、段々付け上がってきて手にも負えなくなったんだ」
「よくそこから縁切れたね」
逆に冷静に聞いてしまう。事の真相を知りたかった。
「アイツが死ぬより澄玲を失う方が怖かったんだ…この間も言ったけど、やつれた澄玲を見て大切な人が大変な時に、俺は何してんだろって恥ずかしくなって…」
「…死ぬ?」
「すぐ言うんだよ、それが怖くて…」
脅しの様に使ってたのか…
確かに康太はそんなこと言われたら、飲み込んでしまうだろうな…
ならあの時の康太は…
「あの最後に会った時の映像…あの時も言われてたの?」
「あぁ、もちろん…」
少し背筋が凍った。
康太がそんな言葉を泣きながら言われたのに、あんな顔、あんな行動が出来るなんて…信じられない…
「…あの時の康太の顔、怖かったし、あんな康太見たことなかった」
「流石にうんざりしてたし、何がなんでも終わりたかったからさ…突き飛ばさないと離れなかったし」
「…本当になんとも思ってないんだね」
少し考えて、目を伏せがちにして答えた。
「……うん、思い返してもあの人に何か思ったことはないな」
いつからそんな人になっちゃったの?
私の知ってる康太よりはるか遠くに感じる。
このままこんな無責任な人を信じていいのかな…
「本当に身勝手だったんだ…澄玲にも生活にも満足してたのに、俺のした事は…バカだった…本当にごめん」
康太の手が私の頬に触れた。
いつの間にか泣いていた…
「…わかんないな、康太のこと。わかんなくなっちゃった…いっその事、私のせいでこうなってしまったなら何か出来るのに…どうすればいいか、何信じていいか分からないよ…」
康太の自惚れと自己満足、身勝手さ。
これに私はどうしたらいいの?どうしたらよかった?
「…ごめん」
私の手を握り、私も康太も涙を流しながら眠りについた。――
シラーの花言葉
『寂しさ』『我慢強さ』『変わらない愛』
次回、6月10日20:30予定。
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