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9.シラン

 忙しい夜勤を終えた。落ち着いて引き継ぎもままならなかった。

とても不倫の証拠を、これから受け取りに行くような状態では無い。体と頭は若干悲鳴を上げているが、心が休むことを許さなかった。

 急いで駅のロータリーへ向かうと、既にレオくんが待っていた。

「ごめんね、ちょっと長引いちゃって…」

「お疲れ様、大丈夫だよ。また着くまでゆっくり寝てな?」

「寝れたら寝とくかな」

疲れ過ぎて逆に寝れない気もする。


気付けばもう事務所の近くだった。

いつの間にか眠ってしまったらしい。

「…ごめん、寝ちゃってた」

「起きた?寝れたら寝るって言って、出発してすぐ寝ちゃったから面白かったよ」

レオくんはケラケラと笑い、私は顔が無い。

「夜勤で疲れてたんだね、しょうがないさ」

「…申し訳ない」

恥ずかしかったけど、少しスッキリできた。頭は冴えたけど、気持ちは重い…


 事務所へ入り、津上さんにいつもと違う個室に案内された。

「こちらが今回、我々が撮った証拠写真数点です。2回、相手の家への宿泊が確認されました。どうぞご確認下さい」

「…ありがとうございます」

震える手で渡された写真たちを受け取る。


 1回目の日付は、私が旅行から帰ってきた、初めて康太の裏切りを知ったのと同じ週の夜勤の日。

2回目は、ついこの間の夜勤の日だった。

どれも相手の家であろうアパート。

そして、相手は私が見た時よりも少し明るい茶髪の、私の見た事のあるピンクのチェックのコートを着ていた。


顔も嫌にハッキリ見える…

私と反対の丸い目に、少し大きめの口。ふわふわした雰囲気はとても女の子らしい。

あまりにも私とは真逆だった。


それに最後の方の写真…彼女の家を出る康太の後ろに、泣きながら抱きついている?康太の顔は眉間に皺を寄せている。

「あの…これはどういう場面なんです?」

「映像もあるので、そちらもご覧になりますか?」

「…はい」

津上さんがノートパソコンを操作し、音は無いがこの場面を見せてくれる。

まるでひどい喧嘩の後のように見えた。

泣き縋る女を、押し飛ばし振り払って去る康太。

こんな康太…見た事がない…。

「喧嘩か?」

一緒に見ていたレオくんが呟いた。

「さすがに声までは聞こえないので、見た通りとしか言えませんが…」

「案外別れ話かも?」

「…そうだといいけど」

別れ話なら万々歳だけれど、喧嘩だったら…

初めて見た康太の姿が怖かった。私との喧嘩の時にだって、あんなになった事は1度もない。

康太にあんな風にされたら…私…

「こちらの映像と写真も含め、データとそちらのお写真をお渡し致します」

津上さんからUSBを貰った。

「以上で調査は終わりになりますが、よろしかったですか?」

「…これだけあれば十分です。ありがとうございます」

それから見積書を貰い、後日振り込むことになった。

再度、津上さんにお礼を言い事務所を出ようとすると、

「すみれ、先に車に戻ってて?ちょっと亮と話すから」

「わかった…」

鍵を受け取り、1人レオくんの車へ戻る。


 1人になる時間をくれたのかな?私には兄さんとレオくん、優しい兄が2人もいるなぁ。

これから康太に相手のことを吐かせて、どうするか決めなくちゃ。その前に、弁護士さんと連絡を取らないと…やる事が今までも違って多い。


……私とした後でもその子とした…できるんだ…その子の方が良いよね…若いし、可愛いもんね。

涙が零れて止まらない。

やっぱり私がダメなんだ…どうしたらいいの?このままだと、また……もう私は手遅れ?私の願いは叶わない?……

「すみれ?大丈夫?」

「…レオくん…」

戻ってきてくれたレオくんが、抱きしめてきた。

…嫌な感覚はなかった。むしろ昔の懐かしさが蘇ってきた。

そう…ママに会いたい、家に帰りたいと施設で泣く度に、レオくんがこうやって抱きしめて慰めてくれたのを思い出す…

体の大きさが変わっても、この感覚は変わらない。懐かしいこの温かさに縋ってしまう。

「私……耐えれないよ…いつまで続くの?…もぅ…嫌だ……」

子供のように大泣きしてしまった。

「すみれ…我慢しないで?……大丈夫だよ、すみれ…俺がついてるから…」

あの頃と変わらない…あの声と温もりに安心した。

涙も自然と途切れてきた。気持ちも落ち着いた…

「レオくん…ごめん……甘えちゃって…もう大丈夫」

優しくレオくんを押し退ける…

涙の跡を優しく指で拭ってくれた。

「今日はもう帰ろう…ゆっくり休んだ方がいい」

「…うん」

「あとこれ、さっき買ったんだ。飲みなよ」

缶のあたたかいミルクティーをくれた。

「ありがとう」

缶を開け、口に含む…

久しぶりに味を感じた。

甘くて、クリーミーで、鼻から抜ける茶葉の香りが心地よい。

「美味しい…」

「よかった」

ちょっとだけ世界が色づいた感じがした。

シートベルトをしめて、車が動き出す。


 家に着く…レオくんに改めてお礼を言わなくちゃ。探偵事務所に行くことはもう無いし、散々頼ってしまった。

「レオくん、本当に今まで助かったよ。ありがとう…落ち着いたら何かお礼させて?」

「…これからも頼っていいんだよ?全然、遠慮なく言って?お礼、楽しみにしてるよ」

「ありがとう…何かあったら連絡するかも。じゃあね」

「ゆっくり休んでね」

手を振り別れた。

覚悟を決めて、家へ入る…


 証拠たちをデスクにしまい込み、洗面所へ向かう。

とにかくシャワーをして、早く寝てしまいたかった。弁護士への電話はその後でもいい。

…ここからは1人で立ち向かわなくちゃ。


 目が覚めると、もう16時になっていた。慌てて目星をつけていた弁護士事務所へ電話をかける。

寝起きのぼやけた頭で何とか相談の約束が出来た。

明日の夕方と案外早くに動けそう…早く決着つけたい…


私のあの記憶に、女の顔が足される…

きっとこの先康太を見る度に、会った事も話したことも無い女の顔を思い出すんだろう。

劣等感に苛まれ、憎しみと悲しみがぐるぐると渦巻く。

もう何もやる気が起きなかった…

気付けばもう夕飯を作る時間だった。分かっているのに、動きたくない。康太のために作るなんて…

 ……まだ一緒にいたいって思ったのは誰?耐えるって、康太を信じるって決めたんでしょ?

飾ってある結婚写真と、食器棚から見えるポットを交互に眺めた。

頑張って耐えよう…また心配させるような事したら離れちゃうかもしれない。

キッチンへ向かい、夕飯の支度をした。


 玄関から音がする。康太が帰ってきた…

深呼吸をし、大丈夫、と言い聞かせる。

大丈夫、この間までちゃんとやれてた…今日も出来る。

「ただいま~、疲れた~」

「…おかえり、もう出来てるから早く手洗っちゃって」

「はーい」

大丈夫な気がする。

問題なのは今まで以上に食欲がない。どう回避しよう…

テーブルへ運びながら考える。

「あれ?また食べないの?」

「…うん、ちょっとおやつ食べちゃって…夜は良いかなぁって」

…さすがに厳しかったか?

「…そう?まぁ、ちゃんと食べてるならいいか」

危なかった。

それからものらりくらり嘘で誤魔化し続けた。


…康太はどんな気持ちで嘘をついてきたんだろ?

私は色々辛いよ…好きな人も自分も騙すことが。――


  弁護士と話して決めたことは、相手からは慰謝料請求。私の気持ちの整理として、金額はどうでもいい。康太を問い詰めて、また考える。

今日、できるかな…やらなくちゃ…


 康太の帰りを待つ。

不安でずっと涙が止まらない…

出て行かれるかもしれない…あの映像みたいな剣幕で拒絶されたらどうしよう…

よく逆ギレされて捲し立てられるとも聞く。

逆に縋られたら?離婚しないでくれ、と懇願されても疑ってしまう。その場しのぎの嘘なんて散々ついてきた人だ…私もだけど…。

もう全部がぐちゃぐちゃだ…怖くて怖くて堪らない…

出来れば逃げ出したい。


 康太が帰ってきた…階段を上る足音が響く…

涙を止めなきゃ。

デスクへ写真を撮りに行き、リビングのダイニングテーブルのイスで座って待つ。スマホの録音を起動した。

「ただいまぁ…澄玲?!どうしたの?」

涙は止められなかった…

康太が寄り添い、肩を抱きさすってきた。

絞り出すように、やっとの思いで声を発した。


「……どうして、浮気したの?」

康太の動きが止まった。

「…澄玲?…どうしたんだよ?俺が――」

「先週の私が夜勤の時、どこにいた?」

誤魔化そうとする言葉を遮って言い放った。

言い訳しようとする姿が可笑しくて、思わず笑ってしまう。

「浮気してないんだよね?どこにいたの?」

自分でも怖いくらい冷静になれた。心拍の速さは凄まじい。

康太の背中を押し、向かいの椅子へ座らせる。

「長くなりそうだから、お茶入れるね」

湯を沸かし、あのパステルブルーのポットでお茶を入れる。

落ち着かなきゃ…


康太にお揃いのティーカップでお茶を入れ、差し出す。

「いつからしてたの?教えてよ」

自分でもゾッとする程冷たい声になった。

康太は俯いたまま何も言わない。

この無駄な時間になんの意味があるの?

苛立ちが抑えられない…1秒も待たず怒りに達してしまった。

写真を1枚取り出し、康太の目の前に晒した。

「もう分かってるよ…その子とこの家でもしたよね。先週も会ったよね。まだしてないと言うの?」


長い沈黙だった…

お茶の湯気も消えてゆく。

「…澄玲!ごめん!俺…魔が差して…その子と関係を持った……本当にごめん」

テーブルに、額をつける康太を呆然と見下ろした…

あぁ…本当なんだ…そうか…


「いつから?」

呟くように尋ねた。

「…えっと…半年前くらい、だったと思う…」

半年?そんなに騙してたの……

仲良かった、と思ってたの私だけだったんだ。

「他には?その子以外にもいるの?」

「その子だけだよ…本当に出来心で続けてしまったんだ…澄玲…本当にごめん…」

「どこで会ったの?どこで知り合ったの?」

「……同じ会社の子で1年前に入社してきて。部署も階も違う…飲み会や会社でよく顔を見る程度で…」

「そう……」

「その子の名前と電話番号は?」

「…えぇっと、佐野さんで…下の名前分かんない……番号もミモアも知らない…ゲームのチャットでやり取りしてた。本当に!…本当に魔が差した…遊びで……それに!もうアイツと縁は切ってる!…本当に大切なのは澄玲だって気が付いて、止めたんだ…本当に!」

「私に嘘ついてまでその人と会いたかったのね」

「……!違う!…嘘はついたけどそこまでじゃ…あっ、澄玲…違うんだ…」

詰め寄ってきた康太を冷たく見てしまう。

期間と人数、今の気持ちは聞けた…

「私が旅行から帰ってきた日と、その週に会ってるよね?」

「…会ったよ」

「この間の私の夜勤も会ったよね?」

「えっ…会ったよ…」

この間の写真も康太の前に出した。

「なんで撮ってんだよ…」

「撮られるようなことしてるんだよ!」

言葉が強まってしまった…


言葉と涙が出てしまう。

「営業職だから付き合いや接待で帰りが遅かったり、マメに連絡が多かったりを理解して…何より康太を信頼していた。それを壊したのはアンタ…康太自身だよ…私の事バカにしてたの…!家にまで連れ込みやがって!どういうつもり!?」

「澄玲……落ち着いて…」

「…なんで好きな人に嘘つかれて、騙されてるのに落ち着けるの?信じてたのに!」

バンッ!――

テーブルを叩いてしまった。

自分でも冷静じゃないのは分かってる。こんなに人に対して声を張り上げ、感情を出せるなんて思わなかった。

限界だ…。

康太もこの姿に驚いている様だった。

乱れた呼吸を整える。


「…本当にごめん。もう二度としない…だから離婚はしないでほしい……身勝手なのはわかってる!でも、俺…俺には澄玲しかいないんだ…」

「もっと早くにわかってたら良かったのにね…どうして浮気なんかしたの?」

康太は頭を抱え、バツの悪そうな顔をした。

「……本当に魔が差したんだ。いつも言い寄ってきて断ってた…でも酷く酔った時に…その…その1回で終わろうともしたんだけど、止められなくなって…」

心がじわじわとなじられてゆく…

「そんなにその子が良かった?」

「違う!本当にアイツに対しての感情は無くて…ただスリルが癖になって…」

私を騙すのがスリルだなんて、笑っちゃう。

「やり取り見せてよ。ゲームの」

「ごめん、もうアプリ自体消しちゃって無いんだ…」

「…本当?」

「本当だよ。見てもらって構わない」

スマホを差し出してきた。


ゲームアプリは片っ端から中を確認し、カメラロールもミモアも確認したが本当に何も無かった。

「もう本当に関係を止めるって決めたんだよ」

「どうして急に?」

「最近の澄玲のやつれていく姿をみて、心配になってさ…俺何してんだろって…ずっと寄り添っていきたい人を裏切ってる自分を情けなく思ったんだ…」

冷めたお茶を1口飲んだ。

きっと本当なんだろう。その場しのぎでもなく反省してる様子が見てわかった。

「私、見たんだ…旅行の時、本当は夜行バスで帰ってきてたの。朝の6時くらいだったかな…家に入ったらアンタと女が寝てた…なんでこの家に連れ込んだの?」

「やっぱりその時から…あ、いや…向こうにせがまれて…うるさかったから軽い気持ちで上げちゃった…本当にすまない…」

呆れた…そんな無頓着だったなんて。言葉も出ない。

写真を回収し、録音を止めた。

「明日でも休みの日でもいいから、性病検査しといてね」

「え…あぁ、わかった…」

キョトンとした顔であまり納得して無さそう…

睨み付け、念を押す。

「ちゃんと喉も検査してね。移るから」

「わかった…明日しに行くよ…」

写真とスマホを持ち、クローゼット部屋へ向かった。


 デスクに写真をしまい、さっきの録音を確認する。

音声もしっかり撮れてる。ちゃんと保存しておかなきゃ。

…これを他人に聞かせなきゃいけないと思うと恥ずかしい。内容も私の取り乱したところも。


 なんとか第1段階は終わった。本当に疲れた…。

大きく深呼吸をする。

『ずっと寄り添っていきたい人』ねぇ…

リビングの方へ目線を向けた。

すんなり認めるとは思ってなかったな。相手に感情が無いことも。それはそれで最低だけど。

あの様子ならまた2人でやっていけるかな…


――コンコン

ドア越しに康太が尋ねてくる。

「…いいかな?」

「どうぞ」

部屋に入ってきた康太は、髪は乱れ、目元や鼻も赤くなっていた。

「澄玲…本当にごめん。俺、本当に浅はかで身勝手な事をしてしまった。そのせいで澄玲を苦しめて辛い思いさせて、離れてくのも…無理はないと――」

「離婚しないよ」

涙を溜めて喋る康太の言葉を遮った。

「え…?」

「でも許せない。それにまたするかもしれないし、不安しかない。どう責任取ってくれるの?」

不思議なほど冷静になれた。私じゃないみたい。

しばらく沈黙が続く。

「……もう大きな飲み会や接待以外は行かないようにするし、小遣い制にしてもらってもいい。位置情報の分かるアプリだって入れたって構わない」

「そう…」

私は縛るのも縛られるのも嫌だった…だけれどこうするしかない。


「…澄玲、大好きだよ…ずっと愛して――」

イスから立ち上がり、康太の胸ぐらを掴んだ。

「だったらあんなことしないでよ!嘘つき!」

「ごめん…もう二度としない…澄玲を傷付けないよ」

康太の手が頭を包み肩に引き寄せ、背中に腕が回る。

シャツが私の涙で濡れていった。――


シランの花言葉

『変わらぬ愛』『あなたを忘れたい』


次回、6月9日20:30予定。


お読み頂きありがとうございます!

評価等いただけると嬉しいです。

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