第98話 ジュリアン・ヴァルテール中尉
統一国家憲兵総監を父に持つジュリアン・ヴァルテールは、歩く姿そのものが軍規を体現しているかのような男だった。
彼のルーツの一つは極東の島国、日本にあるという。
厳格を絵に描いたような家庭で、彼は幼少期から中世より伝わると言われている古流剣術を叩き込まれてきた。
「剣は心なり。心が濁れば、刃は鈍る」
父の教えは絶対だった。
長男として生まれたジュリアンはその期待に応え続け、士官学校を次席という輝かしい成績で卒業する。
だが、その光の影には、常に一人の弟がいた。マルディアンである。
「ねえ、兄貴。人を殺しても、絶対に捕まらない方法があるとしたら、知りたくないか?」
幼い頃から弟の口から漏れるのは、常に血生臭い妄想だった。
マルディアンは勉強も努力も、そして父さえも嫌悪していた。
友人と呼べる存在はおらず、ただ暗い部屋で「効率的な殺害方法」を独りごちる少年。
ジュリアンはそれを、多感な時期ゆえの歪んだ反抗心だと信じ込もうとしていた。
検挙率99%を誇るこの完璧な統一国家で、殺人が許されるはずがないのだから。
しかし、ジュリアンが14歳の時、当時憲兵大隊長だった父から明かされた真実は、彼の世界を根底から覆した。
「ジュリアン、この国は病んでいる。『赤い蠍』という名の、末期の癌にな」
Death Geminiと呼ばれる正体不明の怪人に率いられたその組織は、200年前から国家の心臓部に巣食っていた。
政治、経済、軍、警察。
ゾディアック(十二宮)と称されるサイボーグ化された不老不死の幹部たちが、あらゆる権力を蝕んでいる。
彼らにとって法は玩具に過ぎず、軍物資の横流しや麻薬売買の罪で逮捕されても、最短ルートで釈放される「道」が完成していた。
横流しは軍服や弾薬など生易しいものではない。
兵器……先行試作品までもがレッド・スコルピオンに流れていると言うのだ。
「捜査すれば消される。それがこれまでの定説だった。だが、憲兵隊内部に、奴らを滅ぼすためだけの独立機関を作る動きがある。私はお前を、その刃として選んだ」
父の瞳には、狂気にも似た悲壮な覚悟が宿っていた。
ジュリアンは震える拳を握りしめ、その宿命を承諾した。
父は付け加えた。
「マルディアンには話すな。あの子の気性は、この重荷を背負うには相応しくない」と。
その後、ジュリアンは軍幼年学校へ進む。
そこで彼が学んだのは、統一国家という美名の裏で、独立の機運に燃える15の地域と絶え間なく続く局地戦の泥沼だった。
父から聞いた言葉――――「戦争が続かなければ兵器が売れん……そしてそれらの勢力の背後には必ず蠍が蠢いているのだ」
そして、弟のマルディアンも、兄を追うように入学してきた。
「無理はするな。お前にはお前の道があるはずだ」
兄としての情から出た言葉だったが、マルディアンは薄笑いを浮かべるだけだった。
「兄貴には負けたくないんだよ。それに……軍に入れば人をいくらでも殺せるだろ?最高じゃないか」
ジュリアンはその言葉を、弟なりの「正義の心と照れ隠し」だと解釈してしまった。
あろうことか、父との約束を破り、極秘である「赤い蠍」の存在を弟に打ち明けてしまったのだ。
それが地獄への招待状になるとも知らずに。
月日は流れ、ジュリアンは参謀本部直轄「対赤い蠍捜査部隊」の初代隊員の一人として配属された。
父は憲兵総監に登り詰め、ジュリアン自身も幼馴染のシンシアと結婚。
二人の歩みは、まるで静かな大河の流れのようであった。
同じ剣の道に身を置き、互いの打ち込みに汗を流したジュニアハイスクール時代。
二人は背負った宿命を分かち合うかのように、ゆっくりと、しかし何よりも大切に、愛という名の年輪を重ねてきたのだ。
二人が選んだ道は、東西の武術を電子の刃で統合した競技、『ヘリテージ・フェンシング(総合剣術)』であった。
四年に一度のオリンピック種目としても君臨する、プロリーグすらある人気のスポーツである。
彼らはその頂を目指し、青春のすべてを賭して戦い抜いてきたのだ。
ジュニアハイスクール時代の道場には、常に独特の緊張感が漂っていた。
『シグナル・カタナ』と『シグナル・サーベル』が触れ合うたびに響く、電子音と物理的な衝撃が混ざり合った鋭い音。
裸足で踏みしめる床の、刺すような冷たさ。
そして、体力の限界まで打ち込み、心地よい疲労感と共に眺めたあの燃えるような夕暮れ……。
そのすべてが、二人の愛を育む揺りかごであった。
彼らの技量は、同年代の中でも群を抜いていた。
本来、この競技は武器ごとに細分化されているものだが、彼らはその境界さえも容易く踏み越えてみせた。
リーチの差で圧倒的な優位を誇るはずの『ヘリテージ・フェンシング・スピア』の遣い手が振るう槍すら、二人の前では幼児のチャンバラごっこに過ぎなかった。
別競技の地区大会ランカーの猛者たちですら、「あのカップルは次元が違う、バケモノだ」と戦慄を隠せなかった。
彼らがコートに立てば、試合は一回戦ですら熱狂する。
誰もが若き達人(TATSUJIN)のすがたを見たいのだ。
周囲の視線は、いつしか二人を「最強のカップル」という言葉で縛り付けていく。
だが、当の本人たちは、剣を交えれば魂を通わせることができるものの、一歩コートを降りれば、互いの距離感に戸惑うだけの純真な少年少女に過ぎなかった。
「付き合っている」という噂だけが一人歩きをし、その言葉に自室に戻ると、ジュリアンは一人隠れて顔を赤らめるだけの日々が続いていたのである。
それはシンシアも同じだった。
その曖昧な均衡が破れたのは、ジュニアハイスクールのアメリカ地区大会を制した、あの日のことだった。
表彰台の頂で優勝の栄誉を勝ち取った熱狂の裏、興奮が冷めやらぬ夕暮れの中、二人だけの帰宅時のエア・カーの中。
二人はようやく言葉を交わした。
「これから……付き合わないか?」
「いいよ……いつもやってるじゃないの。新しい技?」
「違う……あ、えっと男女として……だな……」
「いいよ……私も好き……」
二人は手を重ねたまま自宅に戻った。
アメリカ地区大会男女優勝という大きな節目を経て彼らは慎ましい交際を静かに開始したのである。
士官学校を優秀な成績で卒業したジュリアンにとって、憲兵への道は約束された栄光のようであった。
だが、その背後にうごめく「赤い蠍を滅ぼす刃」として息子を差し出した父の意向、その凄絶な真相は、表に出ることはなかった。
彼は周囲から羨望の眼差しを向けられるエリート将校として、その光の裏に隠された孤独な戦場へと足を踏み入れたのである。
彼女、シンシアもまた、己の内なる正義を貫くべく憲兵の道を選び取った。
それはジュリアンと同じ道を歩み、同じ景色を見ることだけが彼女にとっての何よりの望みであったのだ。
二人は今、憲兵将校として並んで歩み始めたのだ。
そして、二人はすぐに結婚した。
ジュリアンは、幾度となく喉元まで出かかった「赤い蠍」という呪わしい真実を、シンシアに打ち明けようとした。
愛する妻に、自分の人生を根底から蝕み続ける暗い宿命を分かち合ってほしい、この重圧を二人で背負って欲しいと涙を流す夜も、確かにあったのだ。
しかし、そのたびに彼は、鋼の意志で言葉を飲み込み、固く口を噤んだ。
彼が配属された「対赤い蠍捜査部隊」は、一歩足を踏み外せば、あるいはわずかな綻びを見せれば、即座に組織の手によって存在ごと抹消される死の淵にある部署だった。
汚れなき正義を信じ、憲兵としての道を歩み始めた最愛の妻。
そんな彼女を、底なしの謀略が渦巻く「赤い蠍」との泥沼の戦いへ引き摺り込むわけにはいかなかった。
彼女を憲兵としてではなく、愛する妻として守り抜くこと。
それが、暗闇に身を投じたジュリアン唯一の誓いだったのである。
ジュリアンが「赤い蠍」を根絶やしにするために憲兵になったのだというその凄惨な誓いは、ついにシンシアがその命を散らすその瞬間まで、彼女の耳に届くことは一度もなかった。
「シンシアに真相を話していれば悲劇は起きなかったかもしれない」
この考えは永遠にジュリアンの心を、灼熱の刃で切り刻む事になる。
二人が、結婚三ヶ月という早さで新しい命を授かったのは、天からの祝福に他ならなかった。
「早すぎるのではないか」と笑う父、驚きつつも産着の準備を始める母。
職場でも、そして両家族の間でも、その報せは春の嵐のように、優しく、そして賑やかな大波乱を巻き起こしたものである。
やがて産声と共に授かったのは、宝石のような双子の女児、ユイとユキであった。
日本にルーツを持つと父から聞いていたジュリアンは娘の名前に、伝統を重んじ高潔さを意味した「由比」、森羅万象あらゆる時を真っ直ぐに貫く強さを意味する「弓季」と名付けた。
武門の家系に生まれながら、二人の娘が興味を持ったのは、無骨な剣術ではなく、優雅な演劇やバレエの世界だった。
舞台の上で蝶のように舞う娘たち。
それを見つめるジュリアンの眼差しには、戦場で見せる鋭利な光など微塵もなかった。
彼は、自分の命よりも重いその存在を、周囲が呆れるほどに、暑苦しいまでの純粋な愛情で包み続けていた。
この時、彼は信じて疑わなかった。
この平和は永遠に続くのだと。
双子の娘、ユイとユキが生まれて七年。
その誕生日の三日前、ヴァルテール邸では華やかな宴が開かれていた。
出席者は豪華だった。
両家の両親、弟マルディアン、そして父の盟友であるセロン・E・ハルフォード(軍務大臣筆頭秘書官)と、クルト・ハヤテ・ブラックウッド軍務大臣。
護衛を遠ざけた、信頼できる者たちだけの内密なパーティ。
「パパ、見て! おじいちゃんから大きなクマさんもらったの!」
「ユキも、大臣おじちゃんから綺麗なドレスもらったよ!」
「それ、ユイも貰ったけどね」
「「ぜんぶおそろいだよね」」
はしゃぎ回る娘たち。
だが、ジュリアンとシンシアだけは、まだプレゼントを渡していなかった。
家族だけの時間になったら渡そうと決めていたのだ。
火星産の合金で作られた、薄いブルーとピンクのブレスレット。
腕に合わせて伸縮するそのブレスレットは、ティーンの間で世界的な人気を誇っていた。
七歳の少女たちが何よりも欲しがる、ホログラム・フリルを任意に出せる魔法のような輝きを放つ品だ。
宴も中盤、ふと気づくと、ブラックウッド大臣とマルディアン、そして二人の娘の姿が見当たらない。
「トイレのついでに探してくるよ」
ジュリアンは酔った足取りで二階、三階へと上がった。だが、どの部屋も静まり返っている。
(どこにも……いない?……そんなはずは……)
その時、奥の部屋から「クチャ、クチャ」という、濡れた肉を弄ぶような音が聞こえてきた。
心臓が跳ね上がる。
急激に冷たい汗が背筋を伝った。
明かりの消えた部屋に踏み込んだジュリアンが見たのは、月光に照らされた地獄だった。
入り口付近には、頸動脈を深く断たれたブラックウッド大臣が転がっていた。
そして部屋の奥、血溜まりの中でマルディアンが馬乗りになっていたのは、すでに事切れたユイの遺体だった。
その隣には、ユキが仰向けに倒れている。
二人の小さな腹部は、原型を留めぬほどに滅多刺しにされていた。
「あ……あぁ……」
声にならない悲鳴が漏れた瞬間、喉元に冷たい感触が走った。
「兄貴か。遅かったなぁ」
マルディアンのナイフがジュリアンの喉を裂いた。
崩れ落ちる視界の中で、ジュリアンはユキの死体と目が合った。
その瞳からは溢れるほどの涙がこぼれ落ちている。
どれほどの苦痛と恐怖の中で、彼女たちは事きれたのか。
「兄貴、これでおれは『蠍』の幹部に手が届く。大臣を殺りたかったんだ……。兄貴……知らなかっただろ?おれ、快楽殺人者なんだよ。これで45人目。組織が全部隠してくれてたんだ。でも、一番殺したかったのは……あんただよ、兄貴」
マルディアンは瀕死のジュリアンに、ガラスプレート状のスマートフォンを突きつけた。
そこには、双子が口を布で塞がれたまま服を剥ぎ取られ、じわじわと切り刻まれていく動画が再生されていた。
「いい声だったぜ。始まったぞ? 下にいる護衛は全員『蠍』の構成員だ。父さんも、ハルフォードも、今頃肉塊になってるはずだ」
マルディアンは狂った笑みを浮かべ、ジュリアンの左眼にナイフを深く突き立てた。
頭蓋の奥で脳が焼けるような痛みが走り、視界が黒く染まっていく。
「良かったなぁ。このナイフ……お前の娘を裂いたのと同じやつだ。安心しろよ、シンシアだけはおれが可愛がって殺してやる。明日からおれはフルサイボーグになって、違う人生を歩むんだ……ククク……もうすぐ不老不死に手が届く……あばよ、クソ兄貴」
続いて胸の中央にナイフが突き立てられた。
大切な娘の命を奪ったナイフ。
暗黒の淵からジュリアンを引き戻したのは、燃え盛るような復讐心だった。
奇跡的に生き延びたのは、ジュリアンとハルフォードの二人だけだった。
目覚めた時、ジュリアンの肉体は全てが機械に置き換わっていた。
全身が切り刻まれていたのだ。
二人は、退院すると、瓦礫と化した邸宅の跡地で血の誓いを交わした。
「ハルフォード、お前は政治の世界で上を目指せ。私は軍の暗部で蠍を斬る」
「約束しよう、ジュリアン。この統一国家から『赤い蠍』という膿を、一滴残らず絞り出してやる」
ハルフォードも酷い拷問でフルサイボーグになっていたのだ。
別部隊の護衛は蠍の襲撃に間に合わなかった。
四年後。
ジュリアンが結成した対『赤い蠍』特別捜査本部。
通称、UE-0 "PHANTOM-LIMB"(ファントム・リム)。
参謀本部直轄で『蠍』の暗殺工作により半壊していた旧部隊とは違う。
大統領直轄として発足したこの部隊の長であるジュリアンの階級は、依然として「中尉」のままだった。
それは、かつての自分と愛する家族が惨殺されたあの日、あの時の階級から一歩も動いていない。
ジュリアンは昇進を固辞し続けていた。
大統領と統一国家参謀本部は、彼の階級を据え置く一方で、その権限だけを際限なく膨張させた。
今や彼の行使できる力は、参謀本部長の権限すら超越している。
世界中に蔓延する「赤い蠍に対する憎しみ」が、ジュリアンという男に権限という名の暴力を再現なく与えていた。
"PHANTOM-LIMB"――統一国家唯一の『赤い蠍』を滅ぼす聖剣。
それは、愛する者を失い、肉体さえも失った「亡霊の痛み」をその名に冠する。
公記録には一切存在せず、ただ「痛み」だけを刻み続ける、亡霊たちの部隊である。
ジュリアンが集めた絶望を背負う聖剣達は、『赤い蠍』を追い詰めていく事になる。




