第85話 不器用な男
マリアンヌの瞳から溢れる涙は、止める術がなかった。
一ヶ月という永い空白を埋めるように、あるいは心に澱のように溜まっていた恐怖を洗い流すように、大粒の雫が白いリネンの枕を濡らし、いくつもの濃い染みを作っていく。
対してラズロは、ただ立ち往生していた。
電脳のメモリには、あの暴風雨の夜、絶望の中で全艦隊の回線に響き渡ってしまった自分の「壮大なプロポーズ」が、消去不能なログとして焼き付いている。
今さら取り消すことも、照れ隠しに冗談めかすこともできない。
マリアンヌの視線は、もはや言葉での説明を必要としていなかった。
その赤い瞳は、震える左手薬指に宿った、吸い込まれるような蒼い輝きだけに釘付けになっていた。
(形が古かったか? それとも、青は好みじゃ無いのか?)
鋼鉄の肉体を持つ男は、今、初陣の新兵よりも無様に怯えていた。
戦場では0.01ミリの狂いもなく標的の眉間を撃ち抜くその指先が、今は所在なげに空を掻き、もどかしそうに自分の長い髪をくしゃりと掻き回す。
沈黙の重圧に耐えかねて、彼はひどく場違いな、そしてあまりにも情けない言葉をひねり出した。
「……寝すぎだ、マリアンヌ。医者は、お前の体はもうパーツも含めて完全に治ったって太鼓判を押してたぜ。……ま、まぁ、無理はするな。その、なんだ……。その青いやつはな……。そう、型落ちの古いデザインだから安かったんだ。あー……気に入らないなら、まだ返品とか交換もできる。……たぶんな」
あまりにも、場違いな言葉。
そして、あまりにも下手な嘘だった。
モース硬度にして32とも言われる、極めて希少な人工生成ブルーダイヤモンド。
それは、製造プロセスが極秘とされるU-DK社の先端技術を応用してようやく結晶化される代物で、生産された先から特権階級の争奪戦が始まる、文字通りの「地上に降りた星」だ。
ラズロが知らないはずがない。
「頼む……マリアンヌと俺の思い出の石なんだ……アレじゃないと、俺はケジメがつけられねぇ」
アリアに尻を叩かれたカインが、そしてラズロの熱意に動かされた第45艦隊の将兵たちが、シドニーはおろか東オーストラリア全域のジュエラーや宝石市場を、文字通り血眼になって駆けずり回ったのだ。
すべては、この不器用な相棒の「ケジメ」のために。
マリアンヌは、涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げた。
「バカ! ……なんで、なんで覚えてるのよ……っ。五年も前よ? キャンプの帰り道の……ただのたわいもない雑談だったのに。……これ以上に嬉しい指輪なんて、この世にないの知ってるくせに! 貴方って人は、本当に……!」
マリアンヌの嗚咽が激しくなり、まだ痛むはずの細い肩が大きく揺れる。
その様子を病室の入口から静かに見守っていたAIメディカルドローンが、気を利かせたように無機質な、けれどどこか茶目っ気のあるトーンで告げた。
『バイタルサインの急上昇を確認。心理的パラメーター……恋愛的上昇を確認……こういう時は、二人きりにしてあげるのが最善のプロトコルですね』
続いて、廊下に控えていた医師とナースたちも、互いに目配せをしてクスクスと笑いながら、静かに扉を閉めていく。
「お熱いですね、曹長。もう退院手続き、勝手に進めておきますから。ごゆっくり」
密閉された病室に残されたのは、困り果てたフルサイボーグの男と、愛しさに胸を締め付けられた赤髪のパイロットだけだった。
ラズロは途方に暮れていた。
彼の鈍い電脳には、こうした状況で「スマートに抱きしめる」とか「情熱的な愛の言葉を吐く」と言う事など出来ない。
彼はただ、逃げるように視線を窓の外にやり、ポツリと呟いた。
「マリアンヌ……。……悪かったな」
「……なんでそこで謝るのよ、このバカラズロ! 指輪を渡して、相手がこんなに泣いてるのよ? ほら、なんか、あるでしょう? 他に言うべきことが!」
マリアンヌが赤い瞳を潤ませながら、精一杯の力で詰め寄る。
意識を取り戻したばかりの体は、節々が軋み、痛みが走る。
ラズロは喉の奥を鳴らし、ようやく一つの、彼らしい誠実な言葉を絞り出した。
「……ジェシカには、一緒に謝りに行ってくれるか? 俺一人じゃ、あいつに合わせる顔がない」
その言葉に、マリアンヌは胸の奥を熱い楔で打たれたような衝撃を受けた。
先ほど夢の中でジェシカが笑って言った『お願いね、ラズロを。ちゃんと叱ってやって』という言葉。
あの時、親友はすべてを赦し、この不器用な男を自分に託したのだ。
「……ああ、ジェシカ。貴女が『私じゃなきゃ無理』って言った意味、今わかったわ……。この男、本当に手がかかる……。救いようがないわね」
「ん? どうした? どこか具合が悪くなったか? また横になるか、マリアンヌ?」
どこまでも的外れな心配をするラズロ。
彼は戦闘のプロだ。
どんな角度、どんな体勢からでも敵の急所を撃ち抜き、世界最強のサイボーグ個体すら葬ってきた英雄。
だが、その代償として女心に対する大切な何かは、すべて母の胎内に置いてきてしまったのだろう。
マリアンヌは、もう待っていられなかった。
繋がれた管も、慣れない半生体パーツの違和感も構わず、ベッドから身を乗り出してラズロの首に腕を回した。
鋼鉄の肉体が、びくりと硬直するのが伝わってくる。
「バカね……。貴方が言ってくれそうにないから、私が返事を先に言うわ。――イエスよ。イエスに決まってるじゃない、ラズロ。ジェシカには、私も一緒に謝る。貴女の大事な人を奪ってごめんねって、二人で伝えに行こう。……だから、結婚してくれるんでしょう?」
鈍いラズロも、マリアンヌが何を求めていたのか、そして自分が何をすべきなのか、今この瞬間にようやく理解した。
今さら「結婚してくれ」と言い直すのは、もはや野暮だ。
ただ、この腕の中にある温もりだけは、何があっても、宇宙が滅んでも離してはいけない。
ラズロは、折れそうなほど細くなったマリアンヌの肩を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど逃がさないように力強く抱きしめ返した。
「マリアンヌ……。好きだ。もう、失いたくない。お前がいない世界なんて、二度と御免だ」
「バカね、ラズロ……。私はただ護られるだけの女じゃない。貴方と戦場で背中を預け合う女よ。……でもね、今だけは……今夜だけは、私を守って。……お願い、ラズロ」
ラズロは返事をする代わりに、静かに、吸い寄せられるように顔を寄せた。
一ヶ月の昏睡から目覚めたばかりのマリアンヌの唇は、乾いて、少しだけささくれ立っていた。
けれど、その感触はラズロにとって、かつて触れたどんな高価な生地よりも滑らかで、どんな美酒よりも甘美なものだった。
触れるだけの接吻が、やがて深い呼吸とともに、熱を帯びていく。
シドニーの港に夜の帳が降り、特別病棟の明かりがひとつ、またひとつと落とされていく。
狭い病室のベッドの上、月光に照らされたレースのカーテンが揺れるたび、重なり合う二人のシルエットが鮮やかに浮かび上がっていた。
それは、地獄の淵を潜り抜けた二人の戦士が何度もすれ違いながらも、ようやく掴んだ『愛』の、最も純粋な形だった。




