第86話 情報の連鎖
勝利の美酒がもたらした心地よい弛緩は、時にどんな鉄壁の守りよりも脆い隙を作る。
シドニーの喧騒、その中心に位置する24時間営業のダイナー『ブルー・パシフィック』。
店内は戦勝に沸く第45艦隊の兵士たちで溢れ、安物のアルコールの匂いと脂ぎった合成ステーキの煙が、熱気となって渦巻いている。
「……いいか、よく聞けよ。俺があの宝飾店で『蒼いダイヤ』を見つけた瞬間だ!」
そう言って、いくつかの凹みのあるステンレスのテーブルをジョッキで叩きつけたのは、北欧をルーツにする巨漢、オルラ・ハラルドスン一等兵だ。
彼の隣では、中東系の女性兵士ネフェルティ・アミンが、呆れたように冷めたフライドポテトをつまんでいる。
「オルラ、その話はもう百回は聞いたわ。あんたが宝石店で警備員に不審者扱いされた話でしょ?」
「バカ言え、ネフェルティ! 警備ドローンをけしかけられただけだ! ドーベルマン型を前に、俺は微塵も怯まなかった。すぐさまその場で土下座したんだぜ! 『この石がなきゃ、俺たちの英雄のケジメがつかねぇんだ! 頼む、売ってくれ!』ってな!」
その向かいで、中南米出身の整備兵イタロ・フェレイラが爆笑しながら、痩せ型の通信兵、チャイ・シワラットの肩を叩く。
「ハッハッハ! オルラ、お前、あの後アンダーソン少将が直々にヘリで乗り込んで来なかったら、今頃シドニーの留置所でケツを掘られてたぞ。軍事権限を個人的な買い物に使うなんて、後にも先に行儀の悪い兵士だ」
「笑うなよイタロ! チャイ、お前だって、あの『少将署名入り』の緊急メッセージを受けた時、真っ先に飛び出してたじゃねえか」
「当たり前だろ……」
チャイが声を潜め、周囲を警戒するようにウィスキーを煽る。
「送り主が『第45艦隊司令官』で、『英雄のために指輪を探せ』だぜ?こんな命令、必死になるだろう?UPLだぜ……」
酒が進むにつれ、彼らの口は際限なく軽くなっていく。
オルラがふと、寂しげに、そして不用意に呟いた。
「……しかし、あのUPLの連中ともお別れだなぁ。5日後の輸送機に乗るんだろ? 時間もわからねぇ、奴らの基地がどこにあるのかも誰も知らねぇ……。なあ、お前ら、あいつらがどこに帰るのか心当たりはねーのか?」
イタロが慌ててオルラの口を塞いだ。
「バカ! オルラ、お前、死にたいのか? 冗談でもそれを口に出すな。UPLの情報を探ろうとした奴が、翌日に『不思議な軍務手続き』で一瞬にして謎の除隊になるって噂しらねぇのか?奴らは幽霊なんだよ。英雄の家を探るな!」
「……まさか、そんなもんか? 共に戦った仲間じゃねぇか……」
彼らの会話は、賑やかな店内のノイズに消えたはずだった。
だが、その隣のボックス席。
家族と静かに夕食を摂っていたオーストラリア財務局の中間管理職の男、エイダン・マクシミリアンは、その会話を漏らさず電脳のバックグラウンドで記録していた。
数分後。
その音声ログは、『蠍』のネットワークを介してシドニー第697憲兵大隊の指揮所へと転送される。
暗い部屋で、冷え切ったディスプレイを見つめるのは、ユリアン・フォン・ケッセル中尉。
細やかな気配りに定評がある、憲兵隊の中でも優秀な男だ。
誰も『蠍』の構成員だなどと思いもしない。
「なるほど……。確かに、たかだか輸送機の所属確認にセキュリティLevel 9を要求するか。輸送機の行き先にも将官権限を求めるのは異常だな。行き先は……同じセキュリティだろうな。Level 9の機体が、ただの民間空港に降りるわけがない」
ケッセル中尉は、自身の権限を駆使して、この輸送機を徹底的に洗ってみた。
「行き先不明、追尾不可……。ここまで徹底しているとはどんな機密だ?一体何を運んでいる?次に送るか……」
その視線の先、グアム島。
太平洋の航空網を一手に統括する、空軍・民間統合ハブステーション『アマテラス』。
そこを統括する統一国家空軍第33航空団、ヴァレリア・カストロ大佐は、四十代という年齢に似つかわしくない、匂い立つような美貌をディスプレイの青い光に晒していた。
彼女は軍の表ネットワークではなく、深淵に沈む『レッド・スコルピオン・ネットワーク』へと手を伸ばす。
それは世界最大の通信管理会社リヴァイアサン・ネットワークスの公式サイトに巧妙に隠されている、「飲食店移転のお問い合わせ」という、誰もが見向きもしない退屈なバナー。
しかし、そこに自身の生体IDを流し込めば、『蠍の巣窟』へと扉が開く。
メディアの帝王である女、ベルサリア・ルーフベートが経営している世界最大のネットワーク管理会社、リヴァイアサン・ネットワークスは世界中に広がる『蠍』のネットワークである。
ヴァレリア大佐は、『機密情報共有掲示板』で興味深い書き込みを見つける。
(『シドニー発セキュリティLevel 9の機体』ですって?……何かしら?UPLの可能性すらあるわね……)
彼女はすぐにこの機体の追尾を試みる。
だが、機密保持の壁は厚い。
(……くそ、情報の遮断が完璧すぎる。だが、これはチャンスではないのかしら?)
ゾディアック(十二宮)のうち、アリエスとスコーピオンが消え、レオとバルゴ、キャンサーが既に死んでいる。
数百年生き続けるゾディアックの空席なぞ、あるはずが無かった。
彼女が蠍になってから初めて起きた『ゾディアック』の空席。
もし、これが忌々しいUPLの輸送機であったら?
さらに目的地……つまり、奴らの本拠地を突き止めることができれば?
(私は、永遠の若さと快楽、そして絶大な権力を握り続けることができる十二宮の座に手が届く。この退屈な大佐の椅子などもう、何の未練もないわ)
しかし、焦りは禁物だ。
軍のドローンを使えば探知され、自身の立場が危うくなる。
ヴァレリアは、自身の「武器」を確認するように、タイトな制服のスカートをなぞった。
「……男というのは、いつの時代も単純な生き物よね……」
彼女は世界最大のネットワーク管理会社リヴァイアサン・ネットワークスを閉じると席を立ち、直属の上司であるハブステーション副司令、キリアン・オーガスト少将のオフィスへと向かった。
彼女のログは何も無かったかのように消え去っていた。
「少将……少し、お願いがありまして」
副司令室の扉を開け、ヴァレリアは潤んだ瞳で少将を見上げた。
オーガスト少将は、書類から顔を上げ、すぐにその視線を彼女の膝上に這わせた。
彼の後ろに掲げられている裸婦画が、彼の性格を表しているようでヴァレリアは心の中でクスリと笑う。
「どうした、カストロ大佐。メッセージではなく、直接来るとは……」
少将の鼻腔を、ヴァレリアが長い銀髪に忍ばせた挑発的な香水の匂いが突く。
(相変わらずチラチラと私の足を見ているわね……わざと短く穿いているのよ。バカな男)
「少将……実は、この時間に我が隊の哨戒任務があるのですが、シドニーから飛び立つ機体が、我が隊とぶつかってしまうのではないかと、心配で……」
「なるほど……。シドニーの機体か」
オーガスト少将はホログラムディスプレイを展開した。そこには軍機密の最深部、Level 9の不可視コードが並ぶ。
少将の目が途端に険しくなった。
「これは……重いな。大佐、これは君が見るべきものではない。私のアクセスログも残る。……だが、信頼する君になら言っておこう。これは国家機密レベルの何かだ。触れるな」
「お願いします……閣下……。部下たちが心配で……せめて……ルートだけでも……」
ヴァレリアは歩み寄り、少将の肩にその豊かな胸を押し当てた。
ブラジャーは外してある。
薄い夏の制服越しに、彼女の柔らかな熱が少将の腕に伝わる。
「い、いや……しかしだな……。これはルール違反だ……」
少将の声が、明らかに上ずった。
ヴァレリアは毛深い少将のその手を優しく、自身の黒いストッキングを履いた太腿へと導く。
そこから先は、上擦った呼吸の混じるような、熱を帯びた沈黙が支配した。
少将は抗うことを止め、彼女を自身の椅子へと引き寄せた。
ヴァレリアは、控えめに少将の片足の上に立ち、わざとらしくスカートを揺らした。
そのスカートの中央は、今にも少将の膝に触れそうだ。
「あ……閣下、そんな……。ダメですわ……」
彼女は大げさに喘ぎ、少将の手を少し指で押してみると、少将の手はスルリとスカートの奥深くへと招き入れられる。
欲望に目が眩んだ少将の反対側の手が、コンソールの指掌血脈DNA認証を解除する。
「ヴァレリア大佐……ハワイだ。ハワイ、パールハーバー・ヒッカム海軍基地第34滑走路。明日午前3時着予定。……ルートまでは分からんが、我が隊とは被らん……。これでいいな?」
少将の指はストッキングを破り、彼女の下着の中まで潜り込む。
「あん……嬉しいですわ……閣下……っ」
ヴァレリアは激しく喘ぎ、礼を言う代わりに少将の唇を深く塞ぐと、流れるような手で優しく少将の頭を自身の足の間に導いた。
少将はヴァレリアの中を執拗にまさぐりながら、餌に群がる犬のように彼女に夢中になっている。
彼女は、薄いガラスプレートのスマートフォンを制服の胸ポケットから取り出すと、『ハワイ、パールハーバー・ヒッカム海軍基地、第34滑走路。セキュリティLevel9輸送機、明日午前3時着予定』と素早く書き込んだ。
そのデータは、リヴァイアサン・ネットワークスの深淵へと吸い込まれ、いかなる監視網にも痕跡を残さず消えた。
送信完了のシグナルがガラスプレートの隅で静かに明滅する。
ヴァレリア大佐は、エサを求めるブタのようにスカートの中で蠢いている少将の首に指を這わすと、その裏側で音もなくほくそ笑んだ。
(……ブタのくせに役に立ったじゃない)
この座標の先に、忌々しいUPLの巣箱が転がっているとしたら……。
これを組織に献上すれば、空席となった十二宮の座すら手が届くかもしれないのだ。
蠍の中での栄達、永遠の若さを維持できる体、尽きることのない富、そして世界を裏側から操る真の力。
その頂に手をかける自分を想像するだけで、背筋に熱い震えが走る。
「……大佐、どうした? 震えているぞ……。コレがいいのか?」
オーガスト少将が、汚らしく口からヨダレを垂らしながらスカートから顔を上げると、満足げな吐息を漏らし、ヴァレリアの腰を引き寄せる。
毛深く脂ぎった手が、ヴァレリアの制服の生地越しに、彼女の尻を汚す虫のように這い回る。
ヴァレリアは心の底からの吐き気を抑え込み、急に真顔に戻ると、「ええ……閣下。申し訳ありません。急に体調がすぐれなくなりましたので失礼致します」
素早く身なりを整えた彼女の瞳からは、一切の光が消えていた。
今、目の前で悦に浸っていたこの男は、国家機密を女の肌の温もりと引き換えに売った裏切り者だ。
ヴァレリアにとって、この「汚いブタ」はもはや、用済みのゴミに過ぎない。
(汚らわしい……力が手に入ったら、真っ先に処分してあげる……)
彼女は踵を返すと、少将を視界に入れることもなく部屋を出る。
十二宮に昇り詰め、絶対的な権力を手にしたその暁には、まず最初に行うべき儀式が決まっていた。
まず穢らわしいこの男を、跡形もなく消し去ることだ。
ハワイ、パールハーバー・ヒッカム駐屯地。
海兵隊中佐、ディートリヒ・ザイフェルトは、夜の風に吹かれながら滑走路を凝視していた。
彼はすでに「急な休暇」を申請し、軍関係者向けの滑走路見学エリアに居座り続けている。
『蠍』での出世。
その絶好のチャンスが、今まさに目の前に降り立とうとしていた。
(軍のネットワークには絶対に出ない情報が、まさかこんな形で降りてくるとは……)
夕刻、燃えるような夕日に背を向けて、その漆黒の輸送機は静かに滑走路へと滑り込んだ。
それがUPLの英雄、カイン、ラズロ、ほのか、マリアンヌを運んでいる機体だとは、まだ確信はない。
ましてや、その後部ハッチに積み込まれた強固なコンテナの中に、かつての十二宮の二柱、アリエスとスコーピオンの「生きた首」が、冷たい廃油の中で眠っていることなど、知る由もなかった。
ザイフェルトは双眼鏡のピントを合わせ、冷酷な笑みを浮かべた。
「……さあ、私の栄達への序曲を始めるとしようか」




