第84話 蒼い約束
静謐な空気が、無機質な清潔感とともに病室を満たしていた。
海軍シドニー南太平洋統合セクター第11病院。
その最上階に近い特別病棟の一室には、南半球の柔らかな春の陽光が差し込み、白いリネンを鮮やかに照らしている。
窓の外では、シドニー湾を往来する軍民問わない船舶のエンジン音が、まるで遠い世界の出来事のように響いていた。
一ヶ月。
マリアンヌ・ルフェーヴルが、地獄の淵から、この現実へと帰還するのに要した時間だ。
彼女の意識は、長い間、深く、深い海の底にあった。
意識が途切れる直前の記憶は、激痛と、皮肉なほどの充足感に彩られている。
――視界を埋め尽くすアラートの赤。
40mm対空レールガン6発の直撃。
機体は悲鳴を上げ、パイロット席下部の装甲は紙細工のように吹き飛ばされた。
落下。
重力に身を任せながら、彼女の脳裏にリフレインしていたのは、その時、死闘の最中にラズロが絶叫した、魂のプロポーズだった。
「私には、もう何もいらない……。大好きな人からあんな言葉を貰えたんだもの」
暗闇の中で、マリアンヌは微笑んでいた。
ずっと、自分には幸せになる資格がないと思っていた。
愛した人を三度も「スコーピオン(蠍)」に殺され、「自分が愛すれば、その人は死ぬ」という呪縛に囚われていた。
死んだ親友ジェシカの夫、ラズロ。
彼は優しく、不器用で、私にはあまりに眩しく見えた。
親友の夫に愛を求めるような不義理など、私にできるはずもなかった。
自制すればするほど想いは募り、その重圧は私の心を苛み続けていた。
けれど、人生の幕が下りるその刹那、あんなにも不器用で、過去に縛られていた男が、私に「結婚しよう」と叫んでくれた。
「よく頑張ったわね、マリアンヌ。愛する人を……ラズロを守って死ねるなんて。私はとても……満足よ」
彼女は死を、極上の救済として受け入れていた。
落下の衝撃でシートごと潜水艦『シー・ドラゴン』の潜望鏡をへし折った奇跡など、知る由もない。
それはまるで、天国にいる親友ジェシカが「まだこっちに来るのは早すぎるわよ。あの分からず屋を一人にする気?」と、強引に彼女をこの世へ押し戻したかのようだった。
深いまどろみの中、マリアンヌは眩いほどに白い野原にいた。
向こうから、見慣れた黒い髪をなびかせて、ジェシカが歩いてくる。
ジュニアハイスクール時代、チア・チームで共に汗を流したあの頃の、輝くような笑顔で。
『あら、マリアンヌ。どうしたの?』
「ごめんね、ジェシカ……。謝らなきゃいけないことがあるの」
マリアンヌは泣きながら、親友の透き通った肩に縋りつこうとした。
「ラズロを……あなたの愛した人を、私に少しだけ……分けてくれないかしら? 独り占めするつもりはないの。でも、彼を一人にしたくなくて……」
ジェシカはいつもの悪戯っぽい瞳で、くすくすと笑った。
『いいわよ、別に。どうせ私はもう天使なんだから。全部……彼の心は貴女が全部受け取って……あんなに頑固で、不器用で、めんどくさくて……寝る時までサングラスを外さないような偏屈なラズロなんだもの。あんな面倒な男、マリアンヌ、あなたにしか無理よ。……お願いね、ラズロを。ちゃんと叱ってやって……貴女も天使になったら……その時は……三人で一緒に……』
「え……? あれ? ジェシカ、行かないで! 私も……私も死んだはずなのに! 私も天使なの……!?」
ジェシカの姿が、光の中に溶けていく。
その瞬間、視界が白濁し、急激な「肉体の重さ」と「体中を刺すような痛み」が、マリアンヌを現世へと引き戻した。
瞼が重い。
肺に流れ込む空気は、冷たい消毒液と、微かなタバコの残り香が混じっている。
「……っ……ぁ……」
マリアンヌの指先が、僅かに動いた。
一ヶ月の昏睡。
欠損した内臓は最新の半生体パーツに換装され、馴染もうとする生体神経系が、熱を帯びた拍動を伝えてくる。
ゆっくりと、震える瞼を持ち上げると、視界の端に信じられない光景が映り込んだ。
ベッドの横。
病院の、お世辞にも座り心地が良いとは言えない狭い椅子を二つ無理やり並べ、その上に巨体を預けて腕を組み、不自然な姿勢で眠りこけている男がいた。
束ねていたはずのブロンドの髪が解け、無造作に顔にかかっている。
「ラ……ロ……?」
声は掠れて、音にならなかった。
どれほどの時間、彼はこの「座りにくい椅子」の上で夜を明かしたのだろうか。
頬は以前よりも少し痩せ、鋼鉄の義肢からはメンテナンス不足を物語る、微かなサーボモーターの軋み音が漏れている。
彼はどのくらいUPLエージェントとしての任務も、自己の修繕すらも後回しにして、マリアンヌの騎士としてこの病室に根を張っていたのだろうか。
マリアンヌは、自分の感覚を確かめるように右手を動かした。
その時、左手の薬指に、少しの違和感を感じて息を呑んだ。
「これ……は……」
視線を落とすと、そこには鮮烈な、どこまでも深い海の色を湛えた「蒼いダイヤモンド」の指輪が光り輝いていた。
人工生成ダイヤモンドの奇跡。
彼女がかつて、雑誌の表紙を飾ったその蒼さに目を奪われ「私には一生縁がないものね」と笑って閉じた、あの宝石。
そう言えば、ラズロに話してバカにされたっけ……。
「そんな青い石っころ、買ったところで何の役に立つんだ?ヘリの操縦でも上手くなるのか?」
ラズロの笑い声が記憶を過ぎる……。
五年前のたわいない雑談の記憶。
(そんな……バカにするような事言っておきながら、貴方はこれを買ったの?なんで……そんなの覚えてるの?)
指輪を震える手で抜き取ると、プラチナの裏側に、不器用なほど真っ直ぐな刻印が刻まれていた。
『From Laszlo to Marianne』
「う……うあぁ……っ……」
感情のダムが、音を立てて決壊した。
ジェシカへの裏切りになるのではないかという、彼が抱え続けていた「呪い」。
それを、彼はこの指輪を贈ることで、「一生、罪も愛も背負い続ける」という回答に変えたのだ。
マリアンヌという女の人生を、その傷跡ごと抱きしめるために、彼はこの「思い出の蒼」を選んだ。
メディカルベッドの異常な心拍信号を検知したドクタードローンが「患者の覚醒を確認。呼吸を整えてください」と無機質な合成音声を発しながら近づいてくる。
廊下からは、看護師たちの急ぎ足の靴音と、医師の呼びかけが近づいていた。
マリアンヌは溢れ出す涙を隠そうとしたが、止まらなかった。
「生きて……た……。私、生きて、この人の横にいても……いいの?……ジェシカ……ごめんなさい……」
隣で眠る「鋼鉄の置物」は、ドローンの声に眉を寄せ、ゆっくりと覚醒の兆しを見せている。
マリアンヌの嗚咽を夢の中で聞きつけたかのように、彼の強張った唇が、僅かに、本当に僅かに、安堵したように綻んだ。
シドニーの海から吹く春の風が、白いレースのカーテンを優しく押し上げて、ラズロの顔にかかる。
ラズロの覚醒を促したカーテンは、ジェシカの意思を孕んだかのようだった。
一ヶ月の永い眠りの果て。
彼女の指に宿った蒼い光は、もはや彼女を死の安らぎへと戻すことはなかった。
それは、地獄を歩み続ける男と共に、地獄を生き抜くための、何よりも重い「生」の約束だった。




