第78話 絶望のプロポーズ
23:57 シドニー沖100km地点。
空は慈悲のない暗転に包まれていた。
風速7メートル、南南西の湿った風が『ヴェノム・ワイバーン』の漆黒の機体を不規則に叩き、荒れ狂う太平洋の波濤がすぐ下まで迫っている。
視界を遮る豪雨は、機体のステルス装甲を洗う砥石のように激しく、ローターが空気を切り裂く轟音さえも、この世の終わりを告げるような雨音に飲み込まれていった。
マリアンヌは北北東からの強襲ルートを選択していた。
ランデブー地点まであと30分。
暗視ゴーグルがもたらす高度な高解像度演算処理技術は、深夜の海を昼下がり空のように再構成し、あらゆる物体を無機質に浮かび上がらせる。
……だが、その克明な光景は、地獄の入り口以外の何物でもなかった。
後部カーゴ・ハッチの内側では、カインとラズロが「暴力」の化身として沈黙していた。
二人はパラシュートも降下具も装備していない。
サイボーグとしての剛性と、着地時に義体の慣性を相殺する全身の衝撃吸収システムだけを信じ、深夜の甲板に文字通り「突き刺さる」準備を整えていた。
ラズロは愛銃の冷たい感触を確かめ、カインは電脳内のアリアとシンクロ(感覚共有)を深める。
流石のアリアもアバターなど作らず空間火器管制演算の準備に徹している。
『カイン……私があなたを死なせないわ』
(信じてるぞアリア)
ハッチが開けば、そこは戦場だ。
そのはずだった。
『11時方向! 航空機警戒! 急いで!』
150キロ後方に位置する旗艦『ヘルメス』の艦橋から、ほのかの切迫した悲鳴が通信回路を震わせる。
だが、死神の鎌はすでに彼らの喉元に届いていた。
――カキィーン。
鼓膜を揺らす、高く鋭い金属音。
それは物理的な接触音というより、運命が断絶した音だった。
「どうした? マリアンヌ、何があった!」
ラズロが電脳経由でコクピットに音声を叩きつける。
直後、機体はAI制御による猛烈な緊急回避機動に入った。
凄まじい重力加速度が二人の全身を圧迫し、機体フレームがミシミシと悲鳴を上げる。
すべては周到な囮だった。
レーダーに映っていた航空機は、単なる武装すら見せかけのおもちゃ(囮ドローン)の集団に過ぎない。
本命は、海面に潜む巨大な影――豪華客船『鳳凰Ⅸ』からの直接射撃。
『大丈夫よ……。無事に届けるわ。……私の仕事、だもの……っ』
マリアンヌの声が響く。
必死に機体を立て直そうとする彼女の声は、けれどどこか遠く、湿り気を帯びていた。
「ロックオン無し! マニュアルの光学照準で抜かれた! 艦設置型レールキャノンか!? 40mmナイトメア・キャリパーか!」
カインが網膜に投影された弾道解析ログを見て叫ぶ。
それは旧型の電磁レールキャノン。
最新のステルス塗料も、ECMも、熟練の砲手によるマニュアル射撃の前では無力に等しい。
弾丸は正確に、ワイバーンの急所を貫いていた。
「マリアンヌ? 応答しろ! 当たったのか!!」
ラズロが即座に機体スキャンを走らせる。
その結果が表示された瞬間、彼の電脳に絶望という名の衝撃が走った。
「中止だ! 作戦中止だ! マリアンヌ、今すぐ戻れ! くそ、くそっ! 今そっちにいく!」
ラズロは仕切り壁を殴りつけたが、目の前にあるのは残酷な光景だった。
ワイバーンのコクピット後部装甲板、ラズロたちの目の前にある分厚い隔壁の向こう側――そこにマリアンヌがいる事実。
わずか4センチの弾痕がキャノピーを貫通し、そのままマリアンヌの片腹を、文字通り「消失」させていた。
超音速で飛来した鉄塊は、彼女の柔らかな肉体を紙細工のように引き裂き、コクピット後部の装甲板に深く突き刺さって止まっている。
ラズロとマリアンヌの間には、気密を維持するために降りた無慈悲な隔壁が、絶望的なまでの隔たりとして横たわっていた。
『いいのよ、ラズロ……。私……そろそろ、あっちの世界に行くのも、いいかもしれないって……思ってたのよ……』
マリアンヌの声に、ゴフッという、肺に血が逆流する不吉な音が混じる。
「バカを言うな! 喋るな!オートで緊急帰還だ!! 止血剤を打て! すぐに助けに行く!」
『お嫁さ……なりたかっ……ゴフッ……』
おびただしい吐血が、精巧なフライトパネルを、そして彼女の赤い髪を濡らしていく。
AI連動で制御された機体は、システム単体では到達し得ない領域――マリアンヌの熟練の技能によって、敵艦からの狙撃を紙一重で回避し、敵の急所へと肉薄する。
それはまさに、神の操縦だった。
消失した脇腹からは、心臓の鼓動に合わせて鮮血が間欠泉のように噴き出し、機体内の生体センサーが次々とロストの警報を鳴らす。
マリアンヌの指にはぬらぬらとした何かが触る。
内臓である事は分かっていた……それがなんだと言うの?
マリアンヌの意識は、執念でこの世に留まり続けていた。
『ラズ……ロ……私……あなた……。……好き……た……ゴホッ……ゲハっ……』
溢れ出る血を吐き出しながら、彼女は生まれて初めて、その「呪い」を口にした。
三度の婚約者を失い、愛することを諦めていた彼女の、最期の剥き出しの真実。
親友へ対する裏切りは『自らの死』と引き換えならば赦されると思った。
『わた……ゴホッ……本当は……結婚したかった……。ラズ……好き……大好きよ……』
その消え入りそうな告白を聞き、ラズロの胸に張り裂けんばかりの慟哭が突き上げた。
「マリアンヌ! 生きろ! 死ぬんじゃない! この任務が終わったら結婚しよう! 約束だ! 俺が、俺が絶対にお前を幸せにする! だから!」
ラズロの絶叫が届いたのか、彼女の最期の執念がヴェノム・ワイバーンの直下カーゴハッチを開かせた。
絶対に撃墜不可能な一瞬の船の死角。
二人の死神は、ガクンという衝撃と共に強制解放された。
直下に解放されるサイボーグ降下用ハッチ。
高度700。
豪雨のカーテンが機内に吹き込み、二人の体を瞬時に夜の闇へと吸い出した。
(……嬉しい……。ラ……大好き……。……ありがとう……私……お嫁さんになれるの……)
「マリアンヌ――!」
二人が船に向けて自由降下を開始した、その刹那。
対空ミサイル二発が、無情にもワイバーンの機体に突き刺さった。
夜空が白銀の光に染まり、鋼鉄の怪鳥が爆砕する。
爆砕の寸前、ラズロの電脳に確かに聞こえた、囁くような言葉。
それはログが残る実在する通信。
それはミサイルが刺さる寸前に漏らした、マリアンヌの心からの歓喜。
「マリアンヌ! ああああああああああ!!」
落下するラズロは、電脳が血の涙を撒き散らすほどの絶叫を放った。
ECM(電子戦装置)――。
彼女が「あなたたちを守るため」と頑なに積み込んだ装備。
レールガンの初撃でそれが沈黙していなければ、ミサイルは外れていたかもしれない。
いや、そもそもあの重いミサイルとECMを積まず、あと60キロ速ければ、初撃そのものを回避できていたはずなのだ。
最高速度で疾走する『AH-99J "ヴェノム・ワイバーン・ストライカー"をマニュアルで撃墜する事など、不可能だ。
彼女が愛する人を守るために施した「優しさ」が、彼女の命を奪う決定打となった。
その残酷な因果に、ラズロの心は粉々に砕け散る。
カインは何も言わなかった。
言えるはずがなかった。
人生で二度まで、愛した女性を理不尽に奪われた相棒。
その背中にかけられる言葉など、この世のどこを探しても見つからない。
カインはただ、暴風の中でラズロの絶叫を聞きながら、コンマ0.02秒後に突き刺さるはずの、眼下に迫る『鳳凰Ⅸ』を死神の目で見据えていた。
『マリアンヌさん? え? マリアンヌさん!! 嘘でしょ!?』
旗艦『ヘルメス』の艦橋で、ほのかの叫びが無線を切り裂く。
『旗艦ヘルメスから全艦!! 助けて! ヘリが撃墜されました! 乗員の生体反応ロスト! 救助を願います!』
ほのかの指示は、軍事的には完璧だった。
作戦中の指揮権はUPLにある。
彼女の悲痛な命令は、艦隊司令官の頭越しに全軍を動かす。
だが、その命令が届くより早く、艦隊の乗員たちは動いていた。
UPLは極秘事項であり、正体不明の組織。
だが、末端の兵たちまでが知っているのだ。
彼らは、世界を蝕む『蠍』を殺すためにすべてを捨てた、唯一の英雄たちであることを。
しかし、爆散したヘリからパラシュートが開く気配など、微塵もなかった。
脱出したのは、黒い流星となって墜ちていく二人の処刑人だけ。
その事実を、誰よりもラズロ自身が、冷え切った意識の底で理解していた。
「……皆殺しだ」
ラズロの呟きは、豪雨に消えた。
マリアンヌの命を、その恋心を、未来を、一瞬で鉄屑に変えた豪華客船へと、ラズロは弾丸となって墜ちていく。
その瞳の奥にあるのは、もはや任務ではない。
愛を殺された男の、この世のすべてを焼き尽くさんばかりの、底なしの怨念だけだった。




