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第60話 ほのかの想い

 ピーターソン基地の朝を支配していたのは、夏とは思えない刺すような冷気と、視界のすべてを不自然なまでに塗り潰した「赤」の世界だった。

 

 百年前の大規模な気候変動以来、この季節になると空から呪いのように鉄分の砂塵が舞い降りる。

 太陽を完全に遮断するそれは気温を下げ、秋か……冬の入り口のような気温をもたらしていた。


 かつての基地が崩壊し、地表に剥き出しとなった鉄鋼の残骸が風化し、細かな粒子となって大気を彷徨っている。


 そのため、今、世界各地にある旧世代と同じ名前の基地や大規模建造物は、ここ二百年以内に建てられたものが多い。

 世界を錆色に染め上げるその酸化鉄の塵は、低空に垂れ込めた雲から滴る酸性雨と混じり合い、粘り気のある赤い雫となって降り注ぐ。

 それは人間が作り上げた「文明」という名のくだらない金属片を、音もなく、しかし確実に侵食し続けていた。

 装甲板の継ぎ目、電子機器の精密な端子、そしてサイボーグたちの人工皮膚の微細な隙間にまで、その赤い牙は容赦なく食い込んでいく。


 いかに鋼の肉体を持つサイボーグといえど、この『赤い雨』の前では、無力な獣のように逃げ惑う他なかった。

 それは、『神が与えた命』を冒涜してまで機械の身体サイボーグを造りだした人類に対する、逃れられぬ『神罰』のようにも思えた。

 

 カインはヴィラのバルコニーに立ち、その忌々しい赤を凝視した。

 網膜に投影される環境データには、大気中の酸化鉄濃度が「ワーニング (警告 )」の域に達していることが示されている。

 肺のフィルターが微かな軋みを上げ、電脳が錆の匂いをシミュレートして鼻腔を突く。

 

 この赤い世界では、あらゆるものが等しく朽ちていく。

 中尉のメッセージにあった「記録の抹消」も、あるいはこの砂塵と同じなのかもしれない。

 不都合な真実を酸化させ、風化させ、最初から無かったことにして土に還す。

 

 カインは、自身の義体の中にまで入り込もうとするその微細な「死の粒子」を振り払うように、手を上げると、静かに空を見上げた。

「まいったな……今日はほのかと『買い物』の約束があったんだがな……」


 『デートでしょう?カイン』とアリアが、相変わらず可愛らしいデフォルメされたアバターで登場した。

 今日は「カエルデザインの雨具」姿で、ピンクの傘をさしている。

(俺の電脳の中にレッド・クライ (赤い雨)は降らせるなよ、アリア )

『あら、天候も自由に出来るのかな?試したいわねカイン』

(勘弁してくれ…… )

 カインとラズロ。

 それぞれ基地内のヴィラでそれぞれの時間を過ごしていた二人の電脳に、ジュリアン・ヴァルテール中尉からのメッセージが、赤く明滅しながら滑り込んできた。


「――休み中悪いな」

 中尉の声は、言葉とは裏腹に電脳越しでも伝わるほどに冷たく、そして研ぎ澄まされた刃のように鋭い。


「昨日までネットの海を埋め尽くしていた『ゾディアック (十二宮 )』に関する記事が、今朝方、殆ど消失した。SNSのトレンド、大手ニュースサイトのアーカイブ、個人ブログのキャッシュに至るまで、文字通り欠片も残っていない。これは単なる検閲じゃない。国家とメディア、軍や警察の内部情報まで及ぶ 『記録の抹消 』だ」


 カインはヴィラのテラスで顔を顰める。

 網膜に投影される中尉のテキストログが、網膜をチリチリと焼く。


「あらゆる巨大機構がすでに『もみ消し』に掛かっている。いいか、軍も警察も味方だと思うな。憲兵や警察に下っていた『赤い蠍の対策通達』も、取り消しではなく『最初から無かったこと』に書き換えられている。……奴らは、ヴァルゴを殺した『ベヒーモス』の正体を探し始めた。あの現場で一番特徴的なのはカイン……貴様のその弾頭だ……あの現場は全てNYPD……つまり、我々の味方である組織が押さえたはずだが、世界に何挺も無い『ベヒーモスの持ち主』を政界や軍、警察で探している動きがある。NYPDに『蠍』がまだ潜んでいたとは思いたく無いがな。もちろん、探している者は今のところ誰だか分からない。ただ、確実に言えることは、国家の深部に巣食う本物の『蠍』が、牙を剥いたということだ。貴様らなら、よほどの事が無ければ大丈夫だと思うが気をつけろ……通信を終了する』


 無機質な電子音とともに、回線が切れる。

 カインは、昨夜渡されたキリンの木彫りを指先で転がした。

 昨夜の酒の味さえ、中尉との通信の後では鉄の味に変わっていた。


 午前八時三十分。

 カインは赤い雨を理由に、今日の買い物は中止にしようとほのかに連絡をしようとしていた。


 その時、カインの住むヴィラの門前に、一台のコンパクトな乗用車が滑り込むように停まった。

 その瞬間、ほのかの乙女心か執念なのか、赤い雨が無かったかのように晴れ渡り、夏の刺すような陽光が地上を蹂躙し始めた。

 

 白いコンパクトバンの運転席から降りてきたのは、昨夜の酔いを感じさせない、しかしどこか落ち着きのない仕草のほのかだった。

 清潔なイメージの白地に、鮮烈な青のラインが入った上着。

 その色彩の調和は、鉄臭い赤い雨上がりの空気さえも一瞬で浄化するかのような錯覚を抱かせる。

『うーん、可愛いわね……うちのカインをあげるには服のセンスだけじゃ納得できないわ……でも、とりあえず、第一項目は合格にしてあげるわ』

 ほのかの服と全く同じ装いのアリアのアバターは、カインの電脳の隅で腰掛けながら、足をパタパタと揺らしている。

(なんだ、第一項目?何の採点だ?……勘弁してくれ…… )

 

 風に揺れる上着の裾、そして陽光を乱反射させる白い生地の輝きが、彼女の艶やかな黒髪をいっそう鮮明に、そして神秘的なまでに美しく際立たせている。

 

 それは、雨上がりの朝に舞い降りた、一輪の青い花のような光景だった。

 カインは思わず、ほのかの私服に目を奪われ、一瞬だけ目を細めた。

 

 彼女はカインの姿を認めると、頬を林檎のように赤らめて、深々と頭を下げた。

「お、おはようございます! カインさん。……あ、あの、今日、お邪魔しても良かったでしょうか?」


 その瞬間、カインの電脳の隅に居たアリアのアバターが、待ってましたと言わんばかりにピョコンと跳ねた。

 その服装は、ほのかと同じ服のままである。

『――おはよう、ほのかちゃん! あら、そのコーディネート100点満点じゃない! あなた、本当に可愛いわね。ねえカイン、この子にいろんな服試してみたーい。協力してよ』


(アリア……頼むから勘弁してくれ……。これはデートじゃないんだ。それに大事な仲間の彼女を不快にさせたくない。そもそも、俺と彼女じゃ年齢も離れすぎている。七歳も違う…………。俺のような無骨なMFCS (完全機械化人間 )と歩くより、本来なら同年代の生身の男と遊びたい盛りだろうに。なんか……悪いことをしている気分だ)


 カインは内心でため息をつきながら、努めて平然とした、温度の低い声を絞り出した。

『バカねぇカイン……貴方ほどの美形ならこの世代の女の子なら誰だって喜ぶのよ……』

 アリアはカインに聞こえない、心の中で呟く。

「おはよう、ほのか。……準備はできている。買い物だったな。どこへ向かう予定だ?」


 カインは気づいていない。

 無意識に整えたシャツの襟元や、わずかに指先でといた髪が、朝の逆光を受けて彫刻のような深い陰影をその横顔に作り出していることに。

 

 眩いほどの白シャツに、上品なラインを描くカーキのトラウザーズ。

 そして、深い森の緑が静かに染み込んだような色調の革靴。

 その装いは、血と硝煙に塗れた普段の捜査員としての冷徹な印象が微塵も感じられず、一人の洗練された男としての魅力を健康的な色気として引き立てていた。

 

 ほのかは、目の前に立つカインのあまりに清潔で、完成された佇まいに、言葉を失い、林檎のように顔を赤らめている。

 

『あらあら……ほのかちゃん、すっかり恋する乙女じゃない。ねえカイン、あんたは本当に自覚のない犯罪者ね。自覚がない分、本当にタチが悪いわ。鏡を見たことがないの? あんたのその顔、そこらの俳優が束になって土下座するレベルの美形なのよ』

 アリアは再び電脳の深淵で、決してカインには届くことのない毒づきを漏らした。

 

『……ああ、もし私が生身の身体を持っていたら。今すぐその腕にベッタリとくっついて、世界中に自慢して歩くのにな……きっと振り返る女が沢山いるのよ……気持ちいいだろうな』

 それは、独占欲と、彼を誰よりも誇らしく思う情熱、決して叶わない些細な、そして邪な願望が切なく語られていた。


「わ、私の車で行きましょう! 今日は『HAYタウン』へご案内します。総面積二万五千エーカーを誇る、とても大きいショッピングモールなんですよ!」

「……なんだと? 二万五千エーカーだと?」

 カインの脳内で、オンライン上から瞬時にダウンロードされたHAYタウン戦術マップが自動的に展開される。

 あまりの広大さに、カインの戦術索敵範囲に入り切らず狼狽する。

「それは……まさか、全部回ったりはしないだろうな?」


「もちろんです! そんなことしたら、一週間は泊まり込みになっちゃいますし……。あっ、お泊まりは、その、まだ、早いですけど……っ! 私、何を……!」

 ほのかの顔が、今度は耳の根元まで、いや、うなじまで真っ赤に染まった。

 もはや幼女ですら、彼女がカインにどんな気持ちを抱いているか、その熱量を感知できるだろう。

 だが、カインという男は、戦場でのわずかな殺気には敏感でも、恋の気配には一ミリも反応する事は無い。


「当たり前だ。君は年頃の女の子だろう? 俺のような男と外泊するなど、倫理的にも大問題だ。そんなことになれば、ノエルに何を言われるか分かったもんじゃないし、君の将来に傷がつく。……心配しないでくれ」


『……安定のストイックね、カイン。こわいこわい。この子、完全にあなたに惚れてるわよ。このデート……最高に滑稽だわ』

(バカなことを言うな。ほのかも『デートじゃ無い』と言っていたぞ……これは、あくまで「買い物」だ)


 カインが車の助手席に手をかけ、ドアを開けようとした、その刹那だった。


――ビ、ビ、ビ、ビ……ッ!


 突如として、カインの網膜に真紅のアラートが突き刺さった。

 電脳が感知したのは、司令部からの「コンディション・レッド」。

 それは、日常が剥がれ落ち、戦場の皮が剥き出しになる音だった。


「……敵襲だと?」

 カインの瞳から、つい先ほどまであった戸惑いや困惑の温度が、一瞬にして消え失せた。

 平和なショッピング・モールデートは、血生臭い戦場へと変貌しようとしていた。

「ほのか、伏せろ!!」


 カインの声が響くと同時に、彼はほのかの華奢な体を抱き込み、地面へと押し倒した。

 ほのかが二時間をかけて迷い、選び抜いた渾身の「勝負服」。

 その清潔な白と青の生地は、容赦なくアスファルトに擦れ、世界を蝕む赤い雨の泥がみるみると染み込んでいく。


 直後、空気を切り裂く風切音が鼓膜を突き刺し、背後で凄まじい着弾音が炸裂した。

 放たれたのは榴弾だ。

 凄まじい衝撃波が吹き荒れ、ほのかの愛車は玩具のように遠くへ吹き飛んだ。

 カインの背には無数の榴弾破片が直撃し、火花を散らす。

 だが、フルサイボーグであるカインの重装甲にとって、その程度の鉄片は牙を剥くことさえ叶わない。

 カインの体を直撃した榴弾の破片は、生体皮膚装甲すら貫通する前に、緑色にうっすら光るハニカム紋様の電磁バリアに阻まれて霧散する。

「ほのか! 大丈夫か!?」

「は、はいっ……!」


 着弾時の衝撃音で朦朧とするほのかを抱え上げ、カインは自邸ヴィラへと滑り込んだ。

 平和な朝の装いは一瞬で脱ぎ捨てられる。カインはホルスターに入っていた愛銃『ジャッジメント・リヴァイアサン』と『ベヒーモス・バスター』を手に取った。

 二人はガレージに鎮座する大型SUVへ飛び乗り、エンジンを咆哮させると、黒煙を上げて司令部へと急行する。

 一般人には与えられない権限、『マニュアル運転』で司令部を目指す。


 その背後では、さらに鋭い高周波の弾丸が朝の静寂を切り裂き、数秒前まで二人がいたヴィラの中央を、無慈悲な瓦礫の山へと変えていた。

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