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第59話 祝杯

 激闘の余韻は、甘美な達成感などではなかった。

 それは、行き場を失ったまま暴走を続ける「警戒心と殺意」を、無理やり抑え込まねばならない精神の摩耗。

 そして、網膜の隅でいつまでも明滅し続ける、警告ノイズの残滓……。

 それらが血糊のように、二人の電脳へとべったりと張り付いていた。

 極限の戦いがもたらした、逃れられぬ戦闘緊張状態。

 カインとラズロ。

 束の間の休暇を与えられた二人だったが、視界を横切る通行人のシルエットさえ、一瞬、殺戮のために最適化された「ゾディアック (十二宮 )」の異形に見えてしまう。

 純白のTシャツについた黒い油汚れのような悪意が、神経系の奥深くまで侵食し続けていた。


 陽光の差し込む午後の街角。

 場違いなほど平和な空気の中で、二人は立ち尽くしていた。

「……ピザか、中華か。いい加減に決めてくれ、ラズロ。俺の空腹センサーが警告ログを出している」

 カインが苛立たしげにサングラスのブリッジを押し上げた。

「急かすな。ラーメンの気分だが、ダブルチーズの暴力的な脂で脳を焼きたい気もする。……おい、待て。割り込みだ。プライオリティ・ワン人物だ」


 議論を断ち切るように、二人の電脳へ通信が入る。

 発信源は、自分たち「欠損」を束ねる男、ジュリアン・ヴァルテール中尉だ。

『――休暇中にすまないな。本題だけ話そう。今日、基地内のシーフードダイナーで飲まないか?』

 その声は、硝煙漂う戦場でのそれよりは幾分か棘が抜けていたが、特有の威圧感は健在だった。

『五月蝿い三人娘も、マリアンヌも、ジジイも一緒だ。……来られるか?』


 二人は無言で顔を見合わせた。

 中華かピザかという低次元な争いは、その一言で霧散した。

「「――光栄です、中尉。二時間後、現地にて」」


 基地の一角、波音の環境音が微かに流れるシーフードダイナー。

 カウンターの壁面に隠匿されていたラジオが、拡声器のように興奮した声を喚き立てていた。

 軍関係者専用チャンネル。


『――速報です! ニューヨーク市警による電撃的な特殊作戦が敢行されました! 潜伏中だった国際犯罪組織「赤い蠍」の最高幹部、通称ヴァルゴを激しい銃撃戦の末に射殺。警官側に死傷者はなく、市民の誇りは守られました。なお、現場で救出された大学生四名は……』


 中尉は、運ばれてきたばかりのラガービールのジョッキを、無造作に、しかし重々しくテーブルに置いた。

 黄金色の液体が波打ち、白い泡が零れ落ちる。

「……これで良いんだ」

 中尉は、ラジオから流れる「英雄的な嘘」を聴きながら、吐き捨てるように呟いた。

 全員が静かに頷いた。

 真実は、地下の暗闇でラズロの鉤爪がその美しき首を原子レベルで粉砕したのだ。

 だが、この世界には「正義の警察が勝利した」という「平穏のための嘘」が必要だった。

 救えなかった二十七名の学生たちの命に、彼らは心の中で、誰にも聞こえない黙祷を捧げる。


「さて……仕事の話はここまでだ。今日はただの飲み会だ。……飲め」

 中尉の号令で、重苦しい空気がわずかに霧散した。

 会話は、今まで聞いたこともないような個人的な話題へと移っていった。


 中尉は、自分の娘の話をポツポツと語り始めた。

「……双子だった。七歳でな。もうすぐ誕生日だったんだが、結局、プレゼントは……俺の腕でこうなった」

 中尉が捲り上げた左腕の袖口。

 そこには、無骨な中年軍人の腕には不釣り合いな、薄いブルーとピンクのメタリックに輝くブレスレットが二つ、大切そうに巻き付いていた。


 ああ……、とカインは記憶の端を掠める。

 確か、伸縮してどんな手首にも馴染むという、安価なアクセサリーがあったはずだ。

 少し前にティーンの間で爆発的に流行し、流行に疎いカインですら、街の至る所で目にした覚えがある。

 それは、どこにでもある、ありふれた十代の子供の宝物だった。

 背伸びしたい八歳になる娘には、さぞ眩しく感じる宝物になったに違いない。


 「死因や何が起きたのか」については語られなかった。

 だが、サングラスの奥で凪いでいるはずの義眼が、一瞬だけ鋭く、悲しげに光った。

「部屋は、あの日からそのままにしてある。……捨てられんのだ。あの子たちが、いつかひょっこり戻ってきても、自分の居場所が分からないと困るだろうと……ムダな事をしている」

 

 鉄の規律を体現する指揮官の、あまりにも人間臭い、脆い一面。

 その独白に、誰も言葉を継げなかった。


 その空気を強引に塗り替えたのは、メイシーだった。

 彼女はカラフルなグミを口に放り込みながら、ケラケラと笑う。

 「ちょっと中尉、湿気た顔しないでくださいよ! ほら、ほのかの古武術の話!このおっとりした顔で、訓練用のサンドバッグを音速で引き裂くんですから。私なんて、初めて見た時、怖くて一週間は近寄れませんでしたよ!」と、ほのかのほっぺたをむにゅむにゅと引っ張りながら笑う。


「も、もう! やめてくださいメイシーさん! あれは、その、護身用ですからっ!」

 ほのかが顔を真っ赤にして抗議する。

 その仕草は普通の二十代の女性そのものだが、彼女の拳には、あの日失った家族の無念が詰まっていることを全員が知っている。


 話題は次々と部隊の日常へと移っていった。

 メイシーが新作のゲームに熱中するあまり、徹夜して連日居眠りをしてノエルに本気で叱られた話。

 ノエルの料理が実はプロ級で、マリアンヌやほのかが頻繁に彼女の部屋へ手土産を持って「戦術会議」によく行く事。

「……中尉だけですよ、全然誘いに乗ってくれないのは。今度こそ来てくださいね?中尉が来てくれるなら、私、自慢のビーフシチューと手作りのバゲットを用意しておきますから」

 ノエルの真剣な誘いに、中尉は珍しく苦笑いして視線を逸らした。


 マリアンヌは、ポーチから小さな木彫りの動物を二つ取り出し、テーブルに並べた。

 生身の人間が生み出したとは思えないほど、それは繊細で、どこか寂しげな温もりを湛えていた。

「……実は、UPLのみんな、一つずつ持ってるんじゃ。ワシもな」

 ドクターがポケットから、少し角の取れた木彫りの猫を取り出して見せる。

 それは彼らの、言葉にできない連帯の証だった。

 そして今回、カインとラズロにキリンと、カバが渡された。


 カインも、自分の断片を話し始めた。

「……カプセルで眠っているアンバーという子なんだがな。大学生だ。彼氏がいないからって、俺によくまとわりついてきた。迷惑だと思ってた。あんな大学生がエクスキュショナーに興味など持つはずはない……今思えば、あれは兄のようなものを求めて居たのかもしれない」

 カインの独白が途切れた、その刹那だった。


「カインさん!」

 ほのかが、勢いよく身を乗り出した。

「私と今度、お、お、お、お、お買い物、しませんか!?」

 あまりの唐突さと必死さに、ダイナーの空気が一瞬で凍りつき、直後に熱狂へと変わった。

 ノエルがニヤニヤと、獲物を追い詰める猟師のような目で笑う。

「ほのかったら。カインに惚れてるのよね? 今の誘い、デートの申し込みってことで良いのよね?」

「えええっ!? や、やめてください、ノエルさん……っ! 違います。お買い物です!カインさん、まだこっちに来たばっかりだから、いろいろ足りないと思って……」

 ほのかの顔は、飲んでいるビールの赤みとは比較にならないほど、鮮烈な緋色に染まった。


 カイン以外の全員が気づいていた。

 ほのかの今の誘いが、仲間全員に背中を押され、勇気を振り絞って繰り出した「命懸けの一撃」であることを。


 ラズロがクスクスと笑い、ジョッキを傾ける。

「ほのかちゃん、あいにくだが、カインの中からはアリアが消えてねぇんだ。……だがな、こいつは無愛想なだけで、アンタを嫌ってるわけじゃない。むしろ、アンタの明るさに救われてるぜ」

 カインは少し戸惑ったように眉を寄せたが、ほのかの、捨てられた子犬のような、しかし熱い期待に満ちた視線に負けた。


「……いや、買い物はしたいんだ。ちょうど、家の調理器具を買い足す必要があったし、家電も必要だ。それに、私服を新調したかったところだ。休みが合うなら、付き合ってくれると助かる。俺一人では、選ぶ基準が分からんからな」


 その瞬間、ほのかの表情がパッと、暗闇に灯火が点ったように明るくなった。

「はいっ! 喜んで!」

「いつでも良いわよ、休みなんて。シフトなんて無いようなものだし」

 ノエルが頼もしく、かつ強引に助け舟を出す。


 カインは困惑し、電脳の深淵で眠る「彼女」に密かに問いかけた。

(……アリア。デートじゃない。あくまで買い物だ。……だが、これは、お前に対して誠実じゃ無いのか? お前が不快に思うなら、今すぐ取り消すが)


 すると、脳内に涼やかで、どこか悪戯っぽい、愛おしい声が響いた。

『――バカね、カイン。誠実って……クスクス。何度も言うけど、私はもうデータの残滓のこりかすなのよ。……生身の女の子とのデート、存分に楽しみなさい』


「……すまないが、買い物に行くだけだ。ラズロの言う通り、俺の頭の中にはアリアが住んでいる。彼女がいる限り、それを『デート』と呼ぶわけにはいかない」

 カインのあまりの朴念仁ぶりに、ダイナー中にクスクスと笑い声が漏れる。

 

「中尉……買い物とデートは違うらしいわい。近頃の若者は、どうしてこうも面倒なんですかな」

 ドクターFがモノクルを光らせて茶化す。

「全くだ。とんだ朴念仁だな、カイン。ほのかのような娘に誘われるなど、男としては光栄だと思うぞ」

 中尉も呆れたように肩をすくめた。


「もう!……みんな、余計なこと言わないで!私も、カインさんもデートじゃなくてお買い物なの!一人じゃ寂しくて。カインさんと一緒なら、寂しく無いから……その……」

 ほのかは俯きながら言葉を紡げずに、はにかんでいる。


 メイシーとノエルが、グラスを片手にヒソヒソと囁き合った。

「ねえ、私たち三人の買い物は何なの? 先週も一緒に行ったじゃない」

「寂しいんだってさ。誰よりも騒がしく話してるのにね、あの子ったら。ワタシのグミだって『汚い色』とか小うるさいんだよ。あんなにお淑やかなほのか、偽物だよ。愛の力って怖いね」


『……カイン。私に気を使わなくてもいいのに。でも、ダメよ。あの子の目は、もう完璧に恋をしている女の子の目よ。ちゃんとエスコートしてあげなさい。……まあ、あなたは自覚がないみたいだけど、とびきりの美形なんだから。……私も、実体の身体が欲しいなぁ。ステキなデートしたーい!』

 アリアの声が、少しだけ寂しそうに、けれど明るさに満ちて震える。

 虚勢であるが、カインが気付くはずもない。


『――すまないな、アリア。もし今、許されるなら……お前を強く抱きしめたかった。この賑やかな席で、お前の笑い声が直接聞きたかった』

『あらカイン、これだけ仲間がいる飲み会でなんてこと言ってるの? プロポーズレベルよ、そのセリフ……恥ずかしいわね。……ほら、そろそろビールのお代わりを頼んで。二人分飲まなきゃいけないからね』


(おいおい……勘弁してくれ。精神は二人でも肝臓は一人分だ……しかも、俺の肝臓はナマモノだ……肝臓は戦闘に関係無いし、換装したくはないぞ )

 まだまだ酒のおかわりが運ばれてきている。


 それは、十二宮の一柱、ヴァルゴを撃破したという、血に塗れた勝利の祝いでもあった。

 だが、彼らは誰もその事実を口には出さない。

 ただ、この温かな灯火の下で、生きていること、そして「同じ地獄を歩む仲間」と共に酒を酌み交わせる幸運を、心の中で静かに分かち合っていた。


 硝子越しの祝杯。

 ほのかは隣でどこか深い影があるように笑い、メニューを指差すカインの横顔を、どこか眩しそうに見つめていた。

 そのカインは電脳の奥で、アリアが優しく微笑んでいるのを感じていた。

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