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第55話 小さな世界の理を壊した後で

 ヴァルゴ(乙女座)を撃破した日。

 カインとラズロは、仕事に追われていた。

 まずは全身の負傷箇所の修理、エクスキューション・ログ(捜査・処刑報告書)の作成で1日が費やされる。

 事後処理の喧騒が続く中、カインの端末に病院からの詳細なメディカル・ログ(容体報告)が滑り込んできた。

 画面に並ぶ無機質な数値と診断名は、アンバーが置かれていた地獄を雄弁に物語っていた。


 彼女の意識は、現在も強力な鎮静剤によって深い眠りの底に沈められている。

 脳を焼いた電脳麻薬「N.O.」の残滓が、目覚めれば狂乱を招くことが火を見るより明らかだったからだ。

 

 報告書によれば、全身の表皮は著しく汚染されており、口腔内を含む粘膜組織には無数の裂傷が散見されるという。

 滅菌洗浄だけでも数時間を要する惨状だった。

 さらに、女性としての重要な部位の損傷も、無機質な報告書で淡々と記されていた。


 身体機能もまた、限界を超えていた。

 薬物による強制的なオーバークロックの結果、全身の骨格と筋肉は文字通り「使い潰されて」いる。

 筋組織の広範囲にわたる断裂と、過負荷による複数箇所の疲労骨折。

 それは、彼女の意思とは無関係に、その華奢な肢体が「戦闘機械」として酷使し尽くされた証だった。


――UPL本部への移送、およびドクターFによる電脳再構成手術。

 そのステップへ進むためのバイタル安定には、ICU(集中治療室)で少なくともあと二日間、死線との対峙が必要であった。


 硝煙と鉄の味が染み付いた夜が明け、ニューヨークの街が白々とした喧騒を取り戻し始めた頃。

 カインとラズロの足は、場違いなほど静まり返った一角にあるガンショップ『アイアン・フラワー』へと向いていた。


「……バレット、居るか」


 カインが重い鉄扉を押し開けると、カウンターの奥でうずくまっていた大男が、弾かれたように顔を上げた。

 元エクスキューショナー。

 今は非戦闘用パーツに換装しているとはいえ、その威圧感は健在だ。

 だが、今のバレット・マクレーンの瞳にあるのは、猛獣の鋭さではなく、引き裂かれた親心だけだった。


「カイン……ラズロ……!!」


 バレットは椅子を蹴立てるように立ち上がると、早朝の店内に響き渡る声で泣き叫び、二人にすがりついた。

 その大きな拳が、カインのアノラックをくしゃくしゃに掴む。

「ありがとう……! ありがとうなぁ……!!」

「……よせ、オヤジ。俺たちは、助けきれたわけじゃない。アンバーは『N.O.』に脳を焼かれ、電脳の再構成が必要になった。……それに傷だらけだ……脳は電脳パーツ……あいつの元の身体は、もう無いんだぞ……助かるかどうかもまだ分からない」

 カインの苦い言葉に、バレットは涙を拭いもせずに首を振った。


「回復する可能性があるんだろう? 電脳だ何だと言ったって、俺だって22.3世紀前後の原始人じゃねぇ。俺だってFCS (全身マシーン)だしな。娘が生きて、いつか笑って帰ってこれるなら、パーツが機械だろうが何だろうが構やしねぇよ……。そんなことより、お前らがあの子を地獄から連れ戻してくれた……感謝しかねぇんだ。いずれ、必ず礼をさせてくれ!」

「アンバーが自分の足でこの店に帰ってこないうちは、受け取れねぇな。……な、ラズロ」

「ああ。ツケにしといてくれ、オヤジ」

 ラズロが静かに頷くと、バレットは力強く鼻を鳴らした。

「当たりめぇだ! また来い、必ずだぞ! ……待て、このまま帰すかよ。俺の奢りだ、今日だ! 今夜飲みにいくぞ! お前ら、いつ帰るんだ?」

「……明日の朝の便だな」

「よし、決まりだ! 最高の店を用意してやる!」


 その夜。

 ニューヨークの片隅、ネオンサインがひしめく一角にある、地元でも指折りのコリアン・バーベキュー店『高牛閣』。

 貸し切られた円卓を囲んだのは、奇妙な顔ぶれだった。

 主役の二人、バレット、そして今回の騒動で「水道管破裂」の処理に奔走したライアンとジェシカ。

 さらには、激務の合間を縫って駆けつけたロドスチーフまでが顔を揃えている。

 

「野郎ども、構えろ! 今日はデッドマン(酒の戦死者)は無しだ!」

 バレットの号令と共に、巨大なジョッキが打ち鳴らされる。

「「「乾杯!!」」」


 琥珀色の液体が、喉を焼くような渇きを癒していく。


 誰の頭にも、一瞬、同じ疑念がよぎったはずだ。

――バレットは、集中治療室のベッドに横たわる瀕死のアンバーを置いて、自分だけ酒など飲んでいられるのか。

 だが、その答えは、ジョッキを握りしめるバレットの震える拳に、そしてカインたちを睨む充血した眼差しに、痛いほど刻まれていた。

 この鉄火気質の親父にとって、酒を酌み交わすことは単なる享楽ではない。

 死地から娘を奪い返してきた二人の男に対し、今すぐ手元にある最高のもので報い、その無事を祝わずにはいられない――――それが、彼なりの償いであり、敬意の証明なのだ。


 娘の痛みを分かち合うように、バレットはアルコールを流し込む。

 座を盛り立て、笑い、騒ぐ。

 そうしていなければ、今にも病院へ駆け戻り、変わり果てた娘の姿を見て崩れ落ちてしまう。

 そんな自分を繋ぎ止めるための、彼なりの不器用な儀式でもあった。


 運ばれてきたのは、厚さ三センチはある極厚の骨付きカルビ。

 熱せられた鉄板の上で脂が弾け、味道楽の山 (だし醤油)とニンニク、そして果実の甘みが溶け合った特製ダレが焦げる香りが、暴力的なまでの食欲を刺激する。

「うわぁ……見てよこれ、最高! 警察局(USPA)の出世頭様は、いつもこんな良いもの食べてるの?」


 ジェシカが、手際よくハサミで肉を切り分けながら、ラズロを揶揄うように笑う。

「バカ言うな、今日はバレットの奢りだから来たんだ。それに出世なんていうタマじゃない。現場が俺たちにはお似合いだ」

「いや、お前たちはそれでも英雄だよ。バレット。カインとラズロの支払いは俺にも出させてくれ」

 ライアンが早くも2杯目のビールを頼みながら言うと、ロドスチーフが「バカ言うな、部下に出させるわけないだろう。二人の分は署にツケとけ、俺が後で払うに決まってるだろ」と、三杯目の黒ビールに口をつけながら喚く。


 「おいおい……俺が男気出すための会だっての、忘れてねぇか?これじゃアンバーに怒鳴られっちまうぜ」とバレット。

「いや、みんな……嬉しいぜ、ありがとうよ」

 ラズロが短く答え、サンチュにタンとキムチ、青唐辛子を無造作に乗せてレモン汁をかけると一口で頬張る。

 滴る肉汁。

 唐辛子の鋭い刺激。

 機械化されていない生身の味覚が、肉汁の旨みと心地よい牛タンのコリコリとした食感を、これでもかと電脳へ送り届ける。


「奢りはカインとラズロだけだからな! お前ら制服組は自腹だぞ!」

 バレットが豪快に笑いながら、ライアンの背中を叩く。

「当たり前でしょう。さっきの話忘れてるわね、このヒゲオヤジ。まぁこんな特上のカルビ、自腹でも食べたいわよ!」

 ジェシカがサンチュに巻いた牛ロースをラズロに向けたが、ラズロは気まずそうに断ると、サングラスを直しながら、自分で焼いたロースを黙々と口に運んだ。


 ラズロに断られたジェシカは懲りずにカインの口元にその肉を運ぼうとするが、カインも首を振って自分のペースでレバーを焼き始める。


『あらカイン。私に気を遣ってるの?ふふふ』

 アリアもビールと肉の味覚を共有しているようで、いつものアバターアリアがもぐもぐと可愛らしく口を動かしている。


 店の片隅に設置されたホログラム・ディスプレイが、ニュースの見出しを躍らせている。

『特報:歌姫エリシウム・ヴィルゴ、当局により射殺。背後に大規模なサイボーグ犯罪組織か』


 記事には、衝撃の事実が書き連ねられていた。

 慈愛の象徴だった世界の歌姫が、実は若い女たちを拉致し、電脳麻薬「N.O.」の苗床としてサイボーグに換装させていた元締めであったこと。

 NYPDが死闘の末に彼女を制圧したこと。

 当然、本当の内容は伏せられている。

 地下施設を沈黙させた「幽霊部隊(UPL)」の名も、存在しないことになっている。

 だが、この円卓に座る者たちだけは、その裏側にある血と汗の匂いを知っていた。


「……チーフ、例の件はどうなりました」

 カインが、ビールの泡を唇につけたまま、隣のロドスに声を落とす。

「ストライカーのことか。……ああ。鑑識のデータを洗ったが、奴がヴィルゴの施設から流れた不透明な資金に深く関わっていた証拠が掴めそうだ。警察内部の『蠍』……一匹残らず炙り出してやるさ」

 ロドスチーフの目は、正義感に燃えていた。


「おい、湿っぽい話は抜きだ! 焼け、食え! アンバーがな、『私を助けたんだから、ちゃんと肉食わせなさい』って言うんだよ!カイン!ラズロ!食え!」

 バレットが、真っ赤に熟した特上ロースを鉄板に広げる。

 カインの脳内で、アリアが可笑しそうに笑った。

『ねぇカイン。バレット、アンバーが帰って来れたらまた泣くわよ? 今度は嬉しくて、もっと派手に』

(……ああ、そうだな。思う存分泣かせてやろうじゃないか。この親父の泣き顔を見ながら飲む酒が楽しみだ)


『ところでカイン!私、タン飽きた。次はハラミね、ネギは大盛り。飲み物は赤ワインよ』


(なんだと……俺は次は黒ビールにするつもりだったんだが……)

『アンタねぇ……私が電磁……』

(オーケー、分かってるさアリア。俺の負けだ)

 アリアのアバターは、いつの間にか着替えて牛のカチューシャと牛柄のシャツ、牛柄のミニスカートを穿いてニンマリと笑っている。

 

 しっとりとした脂を纏った極上ランクの牛ハラミ肉が舌の上で溶け、濃厚なタレの旨味が脳を震わせる。

 その肉は少し重めのタンニンをしっかりと感じる赤ワインで流し込まれた。

『くぅぅぅ、これよこれ。分かってるなぁカイン』

(まあ……赤ワインも悪くない……)


 カインとラズロを待つのは、夜が明ければまた始まる、賞賛なき「ゴースト(幽霊)」としての過酷な任務だ。

 彼らがどれほど命を削り、人知れず巨大な功績を積み上げようとも、その名が歴史の表舞台に刻まれることは万に一つもない。


 もし、彼らが『蠍を討った英雄』として受勲の壇上に上がるようなことがあれば、その瞬間に死が振り下ろされるだろう。

 それが、彼らが敵に回している『レッドスコルピオン』という底知れぬ巨悪の正体だ。

 

 警察も、軍も、そして真実を語るべきメディアですら――。

 国家という巨大な機構そのものが『レッドスコルピオン』の毒針を恐れ、卑屈な沈黙を選んでいる。


 しかし、カインとラズロは知っている。

 その分厚い沈黙の氷層の下で、微かではあるが、確実に「叛逆の鼓動」が鳴り響き始めていることを。


 メディアに踊る『十二宮ヴァルゴ射殺』の不自然なほど大きな見出し。

 そして、保身を捨てて執念の捜査を続行するロドスチーフの眼光。

 それこそが、蠍の絶対支配という壁に穿たれた小さな亀裂の証左だった。

 今はまだ小さな亀裂に過ぎない反旗。

 だが、世界中に目を向ければ、自分たちと同じように闇の中で牙を研ぐ「同志」は、もっと数多く存在するはずだ。


 キャンサー、レオ、そして今回のヴァルゴ。

 黄道十二宮のうち三名が撃破されたという事実は、もはや隠しきれない巨大な「反旗の狼煙のろし」となりつつあった。

 自分たちが放った火が、闇を焼き払い、世界を動かし始めている。

 カインとラズロは、ジョッキ越しに見える仲間の笑顔の中に、その確信という名の熱を感じ始めていた。


 万人に知られる英雄である必要などない。

 こうして自分たちの正体を、その痛みを、そして生き様を理解してくれる者たちが囲む円卓。

 その熱こそが、凍てついたカインとラズロの心を、静かに、そして確かに繋ぎ止めていた。


――俺たちは、まだ生きている。

 サングラスの奥に広がる仲間達の喧騒の向こう側に、彼らは失ったはずの明日を、微かに見ていた。


 ニューヨークの夜を焦がす、コリアン・バーベキューの煙。

 赤と青の回転灯を少しだけ忘れ、戦士たちは一人の少女の救出を心から祝っていた。

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