表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

52/96

第52話 電脳麻薬『N.o』

白亜の扉が、重厚な油圧の吐息を漏らしながら左右に滑り落ちた。

 その光り輝く、防塵の行き届いた研究室の中央に、それは立っていた。

 かつてカインに背伸びしたデートをねだり、アイスクリームを頬張りながら眩しいほどの笑顔を見せていた少女――アンバー・マクレーン。

 だが、今の彼女にその面影を探すのは、燃え盛る廃墟の中で一片の氷を探すよりも困難だった。


 彼女の背中は、老婆のように折れ曲がり、両手は力なく地面へと垂れ下がっている。

 その指先からは、絶え間なくどす黒い血液が、白磁の床に不規則な文様を描きながら滴り落ちていた。

 欠損こそない。

 だが、その立ち姿はもはや人間のそれではない。

 墓場から不完全に這い出したばかりの、飢えたゾンビーの成れの果てだ。


「……アンバー……。嘘だろ、こんなことが……」

 カインの声が、喉を震わせて掠れる。

 だが、アリアの声は、絶対零度の冷気となって彼の脳を打った。

『……嘆いている暇はないわよ、カイン。あれを見て。彼女の両腕に仕込まれた、あの異質なシルエットを。……油断してると、あなたの知っている「お嬢さん」に殺されるよ!』


 カインの網膜スキャンが、冷徹な青白い透過光を放ち、彼女の細い腕の内部構造を無慈悲に剥き出しにする。

 同時に、カインの脳内に潜むアリアの軍用プロトタイプ高規格スキャナーが、彼の所有する行政DBデータベースの深層を瞬時に泳ぎ、照合を開始した。


 透過レイヤーが重なり合ったその先――。

 華奢な少女の骨を無残に削り、筋繊維を強引にバイパスしてまで埋め込まれた、生体隠蔽型の戦闘用ブレード。

――通称「マンティス・ブレード」。

 それはただ獲物を屠るためだけの鈍い殺意を孕み、皮膚を無造作に突き破り、静かに、そして禍々しく光を放っていた。


「バカな……。彼女はただの大学生だぞ。なぜ、こんな……こんな惨い真似を……」

『バカね、カイン。彼女はただの大学生でありながら、電脳麻薬「N.O.(ノー)」をこの街の若者たちに爆発的に流すための「女神アイコン」に祭り上げられた元締めなのよ。闇の世界が、そんな便利な道具を無防備なまま放置するはずがないでしょう? 逆らう「No」を言わせないための看板娘。……使い潰すなら、戦闘用にするのが効率的。それが、この地獄の論理よ』


 アンバーが、ゆっくりと、人とは思えない不自然な動きで顔を上げた。

 黒に近いブロンドの髪は、汗と返り血でべっとりと額に張り付き、幽鬼のようにその素顔を半分隠している。

 足は裸足で、かつては流行の最先端だったはずの上着を着ていた少女は、返り血で無惨に汚れ果て、ボロ布を纏っているようにしか見えない。下着が覗くほど短いスカートは、同じようにボロ布と化し、オシャレを楽しんでいた女子大生の片鱗など、どこにも残っていない。


「あはは、ハハは……。もっと、もっとちょうだい……。足りないの……。きもちいの……あはぁぁッ」

 ひび割れた唇から零れ落ちるのは、悦楽の深淵に叩き落とされた者の、地獄の奥底から響くような嬌声だった。

 かつて青く、澄み渡っていたはずの彼女の瞳は、脳内のニューラル・リンク(電脳)が焼き切れる寸前のオーバーロード(過負荷)を示す、不自然なまでの真紅へと変貌し、焦点すら合っていない。


 カインの視界に、警告を示す赤色のスキャン結果が、激しいアラート音と共に点滅を始める。

 網膜上のインターフェースが、彼女の全身から漏れ出す異常な電脳パルスを捉え、冷酷な診断結果を叩き出す。


【Scan Result: Positive】

Substance: Neural Overdrive (N.O.) Detected.

Concentration: 92% (Critical Overload)

Condition: Brain Tissue Collapse / Irreversible.


【Execution Authorized】


『薬物使用による電脳の崩壊率、九十二パーセント。……もう、元には戻らないわ。自我が砂の城みたいに崩れていってる。……カイン……執行許可(Execution Authorized)が出ている』

 アリアの声が、警告から断罪へと変わる。

 同時に、カインの網膜システムが、0.02秒という驚異的な速度で警察当局の認証局とリンクし、法的な手続きを完結させた。


 視界に焼き付く、「EXECUTION AUTHORIZED」の赤い刻印。

 それは、法執行官であるカインが、その場で彼女を「処分」し、ゴミのように片付けることを国家が認めたことを意味していた。

 裁判も、弁護も、慈悲も必要ない。

 ただ引き金を引くだけだ。


「アハハハハッ!! 殺してあげる!!」

 アンバーが、突如として獣のような咆哮を上げた。

 次の瞬間、彼女の両腕からのびたブレードから「ヴゥゥゥゥゥ」と重厚な振動音が響き、ブレードが微細な振動を始めたのがわかる。

 彼女はそのまま、物理法則を嘲笑うかのような跳躍で、カインの喉元へと肉薄した。

『カイン! 殺さないよね!? 撃っちゃダメよ!』

 破壊された床面が瓦礫と化し、飛び散る中、カインが咄嗟に後ろに飛び退く。

 脳内でのアリアの叫びに、カインは奥歯を噛み締め、(当たり前だ! 彼女は唯一の証人だ! 彼女をこんな目にした連中の名前を、まだ一文字も聞いていない!)と叫ぶ。


 アンバーの挙動は、薬物によって限界まで加速された神経系により、猫科の猛獣のような挙動を見せている。

 少しでも目を離したら、すぐさまマンティス・ブレードがカインの首を掻き切るはずだった。

 もし、今のカインの肉体がアリアのパーツを移植した軍用仕様でなければ、最初の薙ぎ払いで首を撥ねられていたかもしれない。

 カインはコンマ数ミリの差で喉元をそらし、身を引きながら床を滑るように避ける。

 アンバーが振り下ろした鎌が、白亜の壁を紙のように切り裂き、コンクリートの火花を散らした。


 カインは一瞬の隙を突き、壁を駆け上がり、さらに跳躍する。

 それに釣られて跳躍するアンバー。

 天井の構造材を支えにし、そのまま鮮やかなサマーソルトで、彼女の側頭部を狙う。

 だが、アンバーは不気味に関節を逆方向に捻り、それを紙一重で受け流すと、すぐさま追撃の刃を突き出してきた。

「くっ……! 動きが読めん!」

 カインは空中でアンバーが切断して、崩れ落ちる柱を軽やかに蹴り、三角跳びの要領で軌道を修正する。


『カイン、もう少し! 薬物による加速は心臓への負担が大きすぎるはず。隙ができる瞬間を待って。無理して攻撃しないで』


(分かった!)


 その時、背後の通路から、鼓膜を震わせる雷鳴のような轟音が二発、空間を爆ぜさせた。

 ドゴォォォォン! ドゴォォォォォォン!!

 遅れて地下へ滑り込んできたラズロのヴォルカヌス・アームズ VA-92 "ケルベロス・ゲートキーパー"が、寸分の狂いもなくアンバーのマンティス・ブレードだけを捉えた。

 強烈なACHS弾(対サイボーグスラッグ弾)の衝撃が、鋼鉄の刃を根元から粉々に砕き散らす。


「おいおいカイン!!共有データは見てたが……おい、冗談だろ!? これが、あのアンバーお嬢様だってのかよ!」

「ああ、殺したくない! 頼むぞ、ラズロ! 急所は狙うな!本体は無傷で抑える!」

「当たり前だ! こんなところで彼女に死なれてみろ、あの過保護な親父の事だ!とんでも無い口径を俺たちの口に突っ込むぜ!」


 カインは着地の衝撃をそのまま前進のエネルギーに変換し、アンバーの懐へと飛び込んだ。

 彼女の腹部へ、ジャッジメント・リヴァイアサン・リボルバーのグリップ(銃把)で打撃を叩き込む。

 脳を揺らさず、横隔膜を麻痺させる一撃。

 アンバーの体が「く」の字に折れ曲がった、そのわずかなコンマ数秒の間隙。


 ラズロが流麗な、まるで水が流れるような動きで彼女の背後に回り込んだ。

「……悪いな、お嬢ちゃん。……少し、静かに寝てろ」

 それは殺しの絞めではない。

 東洋の古武術に基づく、神経系を一時的にシャットダウンさせる高度な締め技。

 アンバーは激しく身悶えし、涎を垂らすと喉の奥でヒュッという音を立てた。

 やがて彼女は白目を剥き、口端から泡を吐き出しながら、糸の切れた人形のようにラズロの腕の中で崩れ落ちた。


「……助かった、ラズロ。……死なせなくて済んだ」

 カインは荒い息を吐きながら、リヴァイアサンをホルスターに収めた。

 ラズロは苦渋に満ちた表情で、アンバーの両手に二の腕用の対サイボーグ武器腕用強化手錠を後ろ手にかけ、手際よく固定していく。


「ああ……。だが、カイン。網膜のスキャン結果、見たか?」

 ラズロの視線の先。気絶したアンバーの瞳からは、意識がないにもかかわらず、「N.O.」がもたらす地獄の残光――真紅のパルスが、回路を焼き切りながら消えることなく明滅し続けていた。

「……電脳の方は、もう、手遅れだ。……彼女の精神は、もう帰ってこねえかもしれねえぞ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ