第52話 電脳麻薬『N.o』
白亜の扉が、重厚な油圧の吐息を漏らしながら左右に滑り落ちた。
その光り輝く、防塵の行き届いた研究室の中央に、それは立っていた。
かつてカインに背伸びしたデートをねだり、アイスクリームを頬張りながら眩しいほどの笑顔を見せていた少女――アンバー・マクレーン。
だが、今の彼女にその面影を探すのは、燃え盛る廃墟の中で一片の氷を探すよりも困難だった。
彼女の背中は、老婆のように折れ曲がり、両手は力なく地面へと垂れ下がっている。
その指先からは、絶え間なくどす黒い血液が、白磁の床に不規則な文様を描きながら滴り落ちていた。
欠損こそない。
だが、その立ち姿はもはや人間のそれではない。
墓場から不完全に這い出したばかりの、飢えたゾンビーの成れの果てだ。
「……アンバー……。嘘だろ、こんなことが……」
カインの声が、喉を震わせて掠れる。
だが、アリアの声は、絶対零度の冷気となって彼の脳を打った。
『……嘆いている暇はないわよ、カイン。あれを見て。彼女の両腕に仕込まれた、あの異質なシルエットを。……油断してると、あなたの知っている「お嬢さん」に殺されるよ!』
カインの網膜スキャンが、冷徹な青白い透過光を放ち、彼女の細い腕の内部構造を無慈悲に剥き出しにする。
同時に、カインの脳内に潜むアリアの軍用プロトタイプ高規格スキャナーが、彼の所有する行政DBの深層を瞬時に泳ぎ、照合を開始した。
透過レイヤーが重なり合ったその先――。
華奢な少女の骨を無残に削り、筋繊維を強引にバイパスしてまで埋め込まれた、生体隠蔽型の戦闘用ブレード。
――通称「マンティス・ブレード」。
それはただ獲物を屠るためだけの鈍い殺意を孕み、皮膚を無造作に突き破り、静かに、そして禍々しく光を放っていた。
「バカな……。彼女はただの大学生だぞ。なぜ、こんな……こんな惨い真似を……」
『バカね、カイン。彼女はただの大学生でありながら、電脳麻薬「N.O.(ノー)」をこの街の若者たちに爆発的に流すための「女神」に祭り上げられた元締めなのよ。闇の世界が、そんな便利な道具を無防備なまま放置するはずがないでしょう? 逆らう「No」を言わせないための看板娘。……使い潰すなら、戦闘用にするのが効率的。それが、この地獄の論理よ』
アンバーが、ゆっくりと、人とは思えない不自然な動きで顔を上げた。
黒に近いブロンドの髪は、汗と返り血でべっとりと額に張り付き、幽鬼のようにその素顔を半分隠している。
足は裸足で、かつては流行の最先端だったはずの上着を着ていた少女は、返り血で無惨に汚れ果て、ボロ布を纏っているようにしか見えない。下着が覗くほど短いスカートは、同じようにボロ布と化し、オシャレを楽しんでいた女子大生の片鱗など、どこにも残っていない。
「あはは、ハハは……。もっと、もっとちょうだい……。足りないの……。きもちいの……あはぁぁッ」
ひび割れた唇から零れ落ちるのは、悦楽の深淵に叩き落とされた者の、地獄の奥底から響くような嬌声だった。
かつて青く、澄み渡っていたはずの彼女の瞳は、脳内のニューラル・リンク(電脳)が焼き切れる寸前のオーバーロード(過負荷)を示す、不自然なまでの真紅へと変貌し、焦点すら合っていない。
カインの視界に、警告を示す赤色のスキャン結果が、激しいアラート音と共に点滅を始める。
網膜上のインターフェースが、彼女の全身から漏れ出す異常な電脳パルスを捉え、冷酷な診断結果を叩き出す。
【Scan Result: Positive】
Substance: Neural Overdrive (N.O.) Detected.
Concentration: 92% (Critical Overload)
Condition: Brain Tissue Collapse / Irreversible.
【Execution Authorized】
『薬物使用による電脳の崩壊率、九十二パーセント。……もう、元には戻らないわ。自我が砂の城みたいに崩れていってる。……カイン……執行許可(Execution Authorized)が出ている』
アリアの声が、警告から断罪へと変わる。
同時に、カインの網膜システムが、0.02秒という驚異的な速度で警察当局の認証局とリンクし、法的な手続きを完結させた。
視界に焼き付く、「EXECUTION AUTHORIZED」の赤い刻印。
それは、法執行官であるカインが、その場で彼女を「処分」し、ゴミのように片付けることを国家が認めたことを意味していた。
裁判も、弁護も、慈悲も必要ない。
ただ引き金を引くだけだ。
「アハハハハッ!! 殺してあげる!!」
アンバーが、突如として獣のような咆哮を上げた。
次の瞬間、彼女の両腕からのびたブレードから「ヴゥゥゥゥゥ」と重厚な振動音が響き、ブレードが微細な振動を始めたのがわかる。
彼女はそのまま、物理法則を嘲笑うかのような跳躍で、カインの喉元へと肉薄した。
『カイン! 殺さないよね!? 撃っちゃダメよ!』
破壊された床面が瓦礫と化し、飛び散る中、カインが咄嗟に後ろに飛び退く。
脳内でのアリアの叫びに、カインは奥歯を噛み締め、(当たり前だ! 彼女は唯一の証人だ! 彼女をこんな目にした連中の名前を、まだ一文字も聞いていない!)と叫ぶ。
アンバーの挙動は、薬物によって限界まで加速された神経系により、猫科の猛獣のような挙動を見せている。
少しでも目を離したら、すぐさまマンティス・ブレードがカインの首を掻き切るはずだった。
もし、今のカインの肉体がアリアのパーツを移植した軍用仕様でなければ、最初の薙ぎ払いで首を撥ねられていたかもしれない。
カインはコンマ数ミリの差で喉元をそらし、身を引きながら床を滑るように避ける。
アンバーが振り下ろした鎌が、白亜の壁を紙のように切り裂き、コンクリートの火花を散らした。
カインは一瞬の隙を突き、壁を駆け上がり、さらに跳躍する。
それに釣られて跳躍するアンバー。
天井の構造材を支えにし、そのまま鮮やかなサマーソルトで、彼女の側頭部を狙う。
だが、アンバーは不気味に関節を逆方向に捻り、それを紙一重で受け流すと、すぐさま追撃の刃を突き出してきた。
「くっ……! 動きが読めん!」
カインは空中でアンバーが切断して、崩れ落ちる柱を軽やかに蹴り、三角跳びの要領で軌道を修正する。
『カイン、もう少し! 薬物による加速は心臓への負担が大きすぎるはず。隙ができる瞬間を待って。無理して攻撃しないで』
(分かった!)
その時、背後の通路から、鼓膜を震わせる雷鳴のような轟音が二発、空間を爆ぜさせた。
ドゴォォォォン! ドゴォォォォォォン!!
遅れて地下へ滑り込んできたラズロのヴォルカヌス・アームズ VA-92 "ケルベロス・ゲートキーパー"が、寸分の狂いもなくアンバーのマンティス・ブレードだけを捉えた。
強烈なACHS弾(対サイボーグスラッグ弾)の衝撃が、鋼鉄の刃を根元から粉々に砕き散らす。
「おいおいカイン!!共有データは見てたが……おい、冗談だろ!? これが、あのアンバーお嬢様だってのかよ!」
「ああ、殺したくない! 頼むぞ、ラズロ! 急所は狙うな!本体は無傷で抑える!」
「当たり前だ! こんなところで彼女に死なれてみろ、あの過保護な親父の事だ!とんでも無い口径を俺たちの口に突っ込むぜ!」
カインは着地の衝撃をそのまま前進のエネルギーに変換し、アンバーの懐へと飛び込んだ。
彼女の腹部へ、ジャッジメント・リヴァイアサン・リボルバーのグリップ(銃把)で打撃を叩き込む。
脳を揺らさず、横隔膜を麻痺させる一撃。
アンバーの体が「く」の字に折れ曲がった、そのわずかなコンマ数秒の間隙。
ラズロが流麗な、まるで水が流れるような動きで彼女の背後に回り込んだ。
「……悪いな、お嬢ちゃん。……少し、静かに寝てろ」
それは殺しの絞めではない。
東洋の古武術に基づく、神経系を一時的にシャットダウンさせる高度な締め技。
アンバーは激しく身悶えし、涎を垂らすと喉の奥でヒュッという音を立てた。
やがて彼女は白目を剥き、口端から泡を吐き出しながら、糸の切れた人形のようにラズロの腕の中で崩れ落ちた。
「……助かった、ラズロ。……死なせなくて済んだ」
カインは荒い息を吐きながら、リヴァイアサンをホルスターに収めた。
ラズロは苦渋に満ちた表情で、アンバーの両手に二の腕用の対サイボーグ武器腕用強化手錠を後ろ手にかけ、手際よく固定していく。
「ああ……。だが、カイン。網膜のスキャン結果、見たか?」
ラズロの視線の先。気絶したアンバーの瞳からは、意識がないにもかかわらず、「N.O.」がもたらす地獄の残光――真紅のパルスが、回路を焼き切りながら消えることなく明滅し続けていた。
「……電脳の方は、もう、手遅れだ。……彼女の精神は、もう帰ってこねえかもしれねえぞ」




