第51話 ゴーストとして
「ラズロ……どうだ。そっちの状況を教えろ」
カインはリヴァイアサンを胸元で低く構え、タクティカル・ライトの光輪で汚濁に満ちた廊下を切り裂きながら、電脳通信で相棒に問いかける。
『やっほー、ラズロ! アリアちゃんだよー! 聞こえる? おーい、無視しちゃやだよー!』
脳内では、アリアの陽気な声が、あたかも鼓膜を直接指先で弾くかのように響き続けていた。
その声が、ラズロの電脳デバイスには一欠片も届かないことを知りながら、彼女は楽しげに、そして残酷なほど無邪気に呼びかけ続けていた。
カインの視界の端で、彼女のアバターがくるりと軽やかに一回転する。
着替えのバリエーションが色々とあるようで、今はネコの着ぐるみだ。
(カイン、ここはやばい。……文字通り、死体の山だ。それもすべて、人為的に並べられた他殺体だ。検視機にかけるまでもなく、俺の網膜に映る薬理スキャンが、空間全体の汚染を真っ赤に染め抜いてやがる。死んでいる連中のほとんどに、致死量を超える高純度の麻薬反応が出ている。……救いようのない、薬に脳を焼かれたチンピラの中に、明らかに巻き込まれただけの一般人も混ざっているようだ。……今のところアンバーの姿は見当たらないが、急がないと、彼女もこの『狂乱』の一部にされるぞ)
通信越しに聞こえるラズロの声は、かつての妻ジェシカを、あのニューヨークの路地裏で失った時のような、痛切な焦燥を孕んでいた。
彼の手の中で、銃のグリップがみしりと軋む音までが伝わってくる。
「ああ。慎重に、かつ素早く探索する。……ラズロ、現在地は?」
(四階の掃討を終えた。一匹、生首を抱えた狂犬を処理したところだ。今、三階へ降りる階段の踊り場にいる)
『おーい! ラズロってばぁ、アリア様の可愛らしい声を無視するなんて、相変わらず無粋な男ねぇ。……ねえカイン、ラズロの共有データ見た?ラズロの心拍数、上がってるわよ。彼、怖がってるのかしら。それとも、私の声にときめいたとか?』
アリアはケタケタと笑いながら、カインの意識の海で踊るように不思議な動きのステップを踏んでいる。
(ラズロが怖がるか……まあ、そんな心配は無さそうだ。俺は少なくともオマエのおかげで「寂しく」は無いがな)
『ほらー、私のおかげで助かってるんじゃないの?』
彼女の声が届かないもどかしさを、わざとカインへの「甘え」と「揶揄」に変換しているアリア。
カインに構ってほしい、自分という存在だけを感じてほしいという、剥き出しの独占欲。
(……二階で一度合流しよう。そこを拠点に地下への入り口を叩き出す)
(了解だ。……慎重にな、相棒。妙な胸騒ぎが消えねえ)
カインは再び、剥がれかけた壁紙が染み付いた血液で垂れ下がっている廊下の隅に、アンバーの血痕を捉えた。
DNA一致率99.76%。
イメージ・センサーが弾き出したヘモグロビンの酸化状態による鮮度は、先ほどキッチンで見つけたものよりも遥かに「新しい」。
廊下の中心付近、まるで内部から爆発した吐血でも浴びせたかのような、無惨な赤い水たまりが広がっている。
そこには白の中にも透明な幼体を含むウジが、生命の営みをはじめていた。
だが、そのおぞましい血の跡は、薄汚れた壁の直前で、定規で引いたかのように不自然に断ち切られていた。
「ラズロ、訂正だ。予定を変更して地下へ直行する。……確かな『道』を見つけた。座標を共有しておくぞ」
(……! アンバーの血痕か。しかも、その出血量は尋常じゃない。……カイン、オレもすぐに向かう。無理はするな、一人で突っ込むんじゃないぞ!)
カインは足元の床を凝視した。
肉眼で見れば、そこには継ぎ目も、隠し通路を想起させる違和感も一切存在しない。
長年の湿気で反り返った古い木材が、何十年もの間そこにあったかのような顔をして沈黙している。
『ねぇカイン。私、あなたの電脳の中でなら何でもできそうなんだけど。他人への通信だけは、どうやってもこの殻(あなたの電脳)から外へ出られないのよね……。これってまさか、あなたの「愛の檻」かしら? あなたが私のことを誰にも渡したくなくて、こうして独り占めしたかったりするの?』
「……おい。いい加減にしろ。今は冗談を言っている余裕はないと言ったはずだ」
苛立ちを隠せないカインの拒絶。
だが、その脳波の微かな揺らぎすら、アリアにとっては甘美な蜜でしかない。
『はぁーい。もう、そんなに怖い顔しちゃって! 汚い言葉で突き放したって、あなたの電脳の深層領域、私には丸見えなのよ? 「好きだ」なんてステキな本音がチラチラ見えてる。……ふふ、怖い言葉も台無しね、処刑人さん?』
電脳空間に投影されたデフォルメされたアリアのアバターが、いつの間にか作り出した「くたびれたカインのアバター」のほっぺたをツンツンと突っつき、悪戯っぽく笑う。
その指先が触れるたび、カインの論理回路には、甘い痺れのような電気信号が走る。
(やれやれ……いや、もういい。言うだけ無駄だったな。……せっかくの、ロドスチーフがお膳立てしてくれた特上の『ホラー・ハウス』の探索だったんだがな。オマエのおかげで全く『恐怖』と言うものを楽しめんよ)
アリアがケタケタ笑いながら、ふと真面目になったように『さて、これは私の出番ね』と告げると、静かに左手を床に導いた。
カインの左目が、意志を宿したように鮮やかなエメラルドグリーンに発光した。
彼が膝をつき、床に置いた左手の指先が、洗練された精密機械の動きで特定のスロットをスキャンする。
次の瞬間、重厚な血液の臭いを振り撒いていた汚れた木床が、物理法則を無視したかのような滑らかさで左右にスライドした。
足元に展開されたのは、厚さ数ミリの、だがダイヤモンドよりも強固な透明のエネルギー・プレートだ。
カインがその上に立つと、物理的な汚れを一切寄せ付けないプレートは、グラビティ・コントロール(重力制御)によって静かに、しかし内臓が浮き上がるような加速で、深淵へと降下を開始した。
降り立った先には、地上の腐敗と不潔が、まるで質の悪い悪夢だったかのように思えるほどの、純白の空間が広がっていた。
「……この雰囲気は……ただの隠れ家じゃない。研究室か。それも、軍の直轄クラスの……」
天井高は優に四十メートルを超え、舞踏会でも開けそうな巨大なホールが、カインの全天周センサーを圧倒する。
空気は完全に濾過され、チリ一つ落ちていない。
左右には、中世の砦の入り口かと見紛うほどの、厚さ一メートルはあろうかという巨大な白亜の扉が四枚ずつ、計八枚。
すべてが完璧な幾何学的な対称性を持って、万人を拒絶するように配置されている。
壁面と扉の全体に、時折、呼吸するようにうっすらと緑色のハニカム紋様が明滅していた。
「電磁シールドか。しかも、物理干渉を遮断するアクティブ・タイプ……。こんなスラムの地下に、どれほどの予算をつぎ込めばこれが構築できる?」
『カイン。私の体、全部移植したんだよね?』
アリアの声が、不意に冗談を剥ぎ取った、軍人としての冷徹な色を帯びた。
(ああ。ドクターがな……。あの日、あの森で倒れていたお前の部品を、すべて回収した。壊れていた頭蓋パーツも、俺の義体と馴染むように修復してくれたんだ。……使っていないのは、お前の人格チップだけだ。……今の俺の肉体は、お前そのものなんだ)
『あらあら、カイン……。そう、あなたは本当に「私」なのね。……なら、これくらい、造作もないわよね?』
直後、カインの意識に軽い衝撃が走った。
アリアが断りもなく、カインのモーター・コントロール(全身運動制御系)を強引に奪い取ったのだ。
カインの左手が、彼の意思とは無関係に、まるで意志を持つ独立した生物のように跳ね上がる。
そして、中央右側の、最も強固なシールドが張られた扉へと、吸い付くように押し当てられた。
カインの左手から広がる濃緑色の光が、壁面のハニカム紋様と同調し……そして壁面全体のハニカム紋様は異空間の入り口のように歪む。
――パキィンッ……!
薄氷が割れるような、鋭く乾いた電子音が静寂を切り裂いた。
周辺のハニカム紋様が、過負荷に耐えきれなくなったかのように、ガラスの破片となって空間に霧散する。
続いて、物理的な重厚さを感じさせるロックが、幾重にも連動して解除されていく重低音が響いた。
『よし! どんどんいこー! 立ち止まってる暇なんてないわよ、カイン!』
アリアの声は、地上の不潔なキッチンで見せた不機嫌さが嘘のように、獲物を見つけた狩人のように弾んでいる。
カインは、自分の内側から溢れ出すアリアの「力」に、呆気にとられていた。
彼女が、自分の制御をいとも簡単に、そして完璧に奪い去ったこと。
軍用の最高機密、電磁バリアを、まるで親しい友人の肩を叩くかのような軽やかさで無力化した、その異常なハッキング能力。
そのエメラルドグリーンに煌めくハニカム紋様はカイン自らの体を包んでいる事に、カイン自身はまだ気がついていない。




