第50話 探索
カインは注意深くキッチンを進んで行く。
キッチン内部の空気は、もはや気体というよりは、無数の羽音を孕んだ「黒い粘土」のようだった。
天井を埋め尽くすクロバエの群れは、カインが足を踏み入れた衝撃で一斉に動きを激しく変化させ、逃げ場のない雲となって視界を覆い尽くす。
だが、フルサイボーグであるカインのイメージ・センサーにとって、それは透過すべきノイズに過ぎない。
網膜に張られたナノ・フィルターと、嗅覚センサーの完全遮断プロトコルにより、鼻を突く死臭も、鼓膜を震わせる不快な共鳴も、すべては淡々と処理されるデジタル・データへと変換されていく。
中央のテーブルには、皿に盛られた「かつて食事だったもの」が放置されていた。
その全てを、這い回るウジと黒光りするゴキブリが埋め尽くしている。
彼らは貪欲に、腐敗した有機物を新たな命へと作り替える命の循環だが、ビジュアルとしては最悪の醜悪な解体工場であった。
(……四人分の食事か。あるいは、食事の途中で、この場から「消された」のか?)
カインはリヴァイアサンを構えたまま、スキャン・レイを室内に走らせる。
網膜には、肉眼では決して捉えられない「証拠」が次々と浮かび上がってきた。
壁に飛び散った複数の血痕、床に広がる乾いた失禁の跡。
遺体こそ見当たらないが、演算結果は残酷な事実を弾き出す。
ここで、少なくとも十人以上の人間が致命的な損傷を受け、のたうち回りながら血を流した。
さらに、カインのセンサーが床面に近い空気層に浮遊する微細な粒子を捉えた。
『ナマモノ専用高純度麻薬:イーヴィル・ヘヴン』
生身の神経系を強制的に多幸感の地獄へと叩き落とす禁忌の薬物。
そしてその直後、カインのコア・ジェネレーター(心臓)が鋭く脈動した。
床の隅、古びた木床の隙間に染み込んだ、ごく僅かな乾燥血痕。
『DNA照合:一致率89.98%……行方不明者:アンバー・マクレーン』
網膜に赤く点滅する「一致」の文字。
かつてカインに背伸びしたデートを迫った、あの快活な少女の生が、今はただの「汚れた染み」としてカインの眼前に転がっている。
『ねぇカイン。……次の部屋へ行く前に、抜いておきなさい』
脳内に響くアリアの声は、冷徹なまでに透き通っていた。
いつでもカインを導いてくれた、あの迷いのない声音だ。
(了解だ、アリア)
カインの右手に、吸い付くようにリヴァイアサンの重みが滑り込む。
アリアの相棒から移植したウリン材のグリップが、カインの右手に吸い付くように収まる。
――バァン!!
正面の扉が、蹴破られるようにして跳ね上がった。
現れたのは、瞳孔が完全に開ききったジャンキーだ。
顔は土気色に汚れ、右手だけが無骨な旧式のサイボーグ義手。
網膜スキャンが瞬時に前科三班のコソ泥であることを告げるが、男はすでに人間としての理性を何かに焼き尽くされていた。
何よりカインの目を引いたのは、その男が左手にぶら下げていた「モノ」だった。
それは、切り取られたばかりの、人間の生首だった。
網膜に赤い警告が滑らかに流れた。
"Target's right-arm weapon: Blood-residue confirmed. Murder in progress. Victim's retinal scan: Match confirmed. ...Execution authorized."
『対象の右手武器、付着血液反応一致。殺人準現行犯。被害者網膜情報スキャニング……照合一致。……死刑執行許可』
カインが0.0001秒の演算で射殺を決意し、指先がリヴァイアサンのトリガーを絞り込もうとした、その刹那だった。
カインの「左手」が、彼の意思を追い越して電光石火の速さで突き出された。
アリアの意志による、脳内からのオーバーライド(強制介入)。
カインの鋼鉄の五指が、ジャンキーの頚椎を正確に捉え、乾いた音と共にそれを木っ端微塵にへし折った。
男は一発の叫びも、一発の銃声も立てることなく、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
『……ごめんね、カイン。ここ、まだ「上」に仲間がいるでしょ? 音を立てちゃいけないと思って、つい手が出ちゃった……執行許可出てたしね』
(……いや、そうすべきだったな。助かった、アリア)
『まあね。忘れないで、私はあなたの脳内に棲む、一心同体の「妻」なんだから』
(……勘弁してくれ。……まだ、先がある)
カインは、自分の意志とは無関係に動いた左手を一度握りしめ、それから再び銃を構えた。
アリアの「介入」は、もはや生存本能の一部となっていた。
それはカインにとって、『自分の仕事の邪魔をする異物』ではなく、『愛する者との共闘』に他ならなかった。
カインは絶命したジャンキーを跨ぎ、さらに奥へと進む。
廊下、リビング、目に入るすべてが「不潔」という名の物理的な暴力だった。
壁の隙間からは巨大なドブネズミが顔を出し、背中で大量のノミを飛び跳ねさせながら、捕らえたゴキブリを両手で引き千切り、咀嚼している。
クチャクチャという湿った音が、静寂の中で不気味に響く。
『うへぇ……乙女にはきついわねぇ……』
リビングの真ん中には、布地が腐り落ち、剥き出しのスプリングだけになったソファーが鎮座していた。
その錆びた鉄線にこびりついているのは、干からびた肉片だ。
そこでは小型の昆虫とウジが、分け合うようにして腐肉に頭を突っ込んでいる。
蠢く白と、死を象徴する鉄錆の黒。
そのコントラストが、ただ鮮やかだった。
ふと見上げれば、この吹き溜まりには不釣り合いなほど豪華な、クリスタル製のシャンデリアが天井からぶら下がっている。
かつての栄華の残骸だろうか。
だが、そこから垂れ下がっているのは、華やかな飾りではなかった。
数本の、長く、赤黒く変色した管。
一見すれば腐ったソーセージの成れの果てに見えるが、カインのスキャナーは非情な真実を暴き出す。
(……人間の、腸か)
『推定20歳前後の女性のものだね。ジャンキーの……処刑パーティーじゃないかな……うへぇ』
DNAの照合結果は、行政登録にも、クリミナルレコードにも、失踪者リストにも該当しない。
つまりそれは、管理社会が謳う「完璧なニューヨーク」において、初めから「存在しなかった」ものとして消された、誰かの命の残骸だった。
カインは、自身のセンサーが感知する強烈な何かを建物内から感じていた。
アリアの気配が、脳内でさらに鋭く、冷たく研ぎ澄まされていく。
(アリア……あいつらは、どこだ?)
『……すぐそこよ、カイン。具体的にどこかは分からないけど……地下だね。スキャン通さないし。たぶん救いのない闇が、この奥で待っているわ。でも……アンバーを、こんな場所に置いておけるはずがないでしょう?』
カインの右眼のログに、アリアがスキャンした未踏の部屋への熱源反応が浮かび上がる。
烈火のような怒りを押し込め、カインは腐敗した闇の奥へと、一歩、深く踏み出した。




