第49話 不審なビル
ニューヨーク
政府の広報資料によれば、この街から単純犯罪は「過去の遺物」として消え去ったことになっている。
事実、アッパー・マンハッタンのような「一等地」に足を踏み入れれば、そこには完璧な静謐が保たれている。
誤認率0.00001%を誇る最新鋭の「ショックガンカメラ」が路地裏までを監視し、強盗や強姦の兆候を検知した瞬間にAIが電子の制裁を下す。
空を舞うエア・カーは交通局の完全制御下にあり、渋滞も事故も存在しない。
政府がAI管理する空には「駐車場所」など考える必要もない。
必要な時に招べばいいのだ。
そこは、市民が自由を差し出す代わりに手に入れた、高純度の安息地だ。
だが、その恩恵が「一等地の外」へ広がる様子は、もう何年も前から途絶えている。
カインたちが歩く下町や雑居ビル街において、管理社会の理想は絵空事に過ぎない。
予算不足を理由にレンズの割れたまま放置された旧式カメラ、賄賂一つで「正規の手続き」としてスリープさせられる監視AI、そして、銃器認証を物理的にバイパスする闇チップ。
通常、普通の警察署の警察官が監視AIや銃器認証に干渉できるはずはない。
そこには『蠍』と言う底知れぬ闇が広がっているのだ。
システムが「健全」を謳えば謳うほど、その網の目から零れ落ちた悪意は、より深く、より見えにくい場所へと濃縮されていく。
ジャンキーが安物の合成薬に溺れ、『N.o』欲しさに違法サイボーグが闊歩する。
それこそが、一等地の住人が目を背け、政府が統計から切り捨てたニューヨークの「真実」だった。
カインは、アノラックの襟を立て、雨に煙る雑居ビルを見上げた。
明日、向かうのは、AIの加護も、交通局の管理も届かない空白地帯。
法執行機関という特権に守られた「規制のない銃火器」だけが、この断絶された世界の境界線を越える唯一の鍵だった。
九月のニューヨークは、逃げ場のない猛暑の檻に閉じ込められていた。
かつて「秋の訪れ」と呼ばれた涼風は、暴走する気候変動と、街を覆う巨大な排熱システムが吐き出す熱波に押し流され、今やアスファルトの上で不気味な陽炎となって蠢いている。
大気はねっとりと重く、肺の奥まで熱を帯びた錆の匂いが入り込んでくる。
カイン・ヴィラールとラズロ・スタインは、照りつける直射日光を避け、崩れたコンクリートの庇が残る雑居ビルの屋上に身を潜めていた。
周囲の一等地を飛ぶエア・カーの群れが、銀色の粒となって遠くの青空を優雅に流れていく。
そこには渋滞も事故もない、管理された平和がある。
だが、このダウンタウン(下町)に届くのは、それらが撒き散らす廃熱と、酸性雨の乾いた跡がこびりついた不毛な風だけだった。
「……AEドローンは、いくつ出した?」
カインが、汗の浮いた首筋を拭いもせず、低く問いかけた。
その視線は、熱気に揺れる四軒先のビルから一瞬たりとも逸らされない。
「カイン、あれは高価なんだ。……二匹だ。それ以上は、NYPD (ニューヨーク市警)から借りれねぇよ。警察じゃ、ドローン一匹の紛失理由を書くのにも『正規の手続き』という名の嫌がらせが待ってるからな。UPL本部から持って来ればよかったか?」
ラズロが、電脳で探知したホログラム画像を操作しながら苦々しく吐き捨てる。
「いや、二匹いれば十分だ。奴らは六本足で死角を這い回り、AEを全方位に走らせ続ける。……このクソ暑い中で、俺たちが一軒一軒這いずり回るよりは、いくらか楽ができるさ」
二人の視線の先には、熱に浮かされたように沈黙する廃墟同然のビル群が並んでいた。
文明の恩恵であるショックガンカメラも、ここでは汚いアートでレンズを塗り潰され、ただの無機質な突起に成り果てている。
「ああ……だが、車を置けばすぐにジャッキアップされるか、身ぐるみ剥がされる。まあ、返り討ちに出来るとしても『張り込み』なんてしてられなくなる。それに、この辺りに協力を頼めるような真っ当なビルなんてありゃしねえ。……とんだ張り込みだよ。地獄の釜の蓋の上で日光浴してる気分だ」
その時、ラズロの電脳に鋭いアラートが走った。
すぐさまカインに共有する。
AEドローンが、目的の雑居ビルへ侵入しようとする影を捉えたのだ。
「……来たぞ」
モニターに映し出されたのは、あまりに無防備で、あまりに痛々しい少女の姿だった。
アンバー・マクレーン。
かつてカインに絡み、デートを強要した快活な少女。
その面影はどこにもなかった。
異常なほど肌を露出させたボロ布のような服を纏い、焦点の合わない虚ろな瞳を彷徨わせている。
下着すら見え隠れする露出は、かえって彼女の痛々しさを強調していた。
その歩調は、まるで死神に手招きされる歩行人形のように危うい。
(……行くぞ、ラズロ)
カインは即座に電脳通信で送る。
これからは「声」を出さない方がいい。
周囲に潜む「耳」を警戒した、音のない会話だ。
(了解だカイン。……だが、気をつけろよ。あのビルはおそらく、ロシアンマフィアの末端の売人どもの溜まり場だ。ドラッグ、不法換装……何でもありの吹き溜まりだぜ)
(覚えているさ、ラズロ。……一年前、お前と一緒にやったヤマだろ。あの時は現場で強制捜査の令状を通すだけで一苦労だったな)
(ああ……ストライカーの反対が無ければ秒で終わった仕事だ)
その冷徹なやり取りに、カインの脳内で華やかな、しかしどこか切ない声が割り込む。
『そうよ、ラズロ! ちゃんと覚えときなさいよ! アンタ、最近物忘れが激しいんじゃない? ポニーテールのナタリーのことばっかり考えてるからよ』
アリアだ。
電脳空間で腰に手を当て、不機嫌そうに、それでいてカインとの繋がりを確かめるように唇を尖らせている。
「勘弁してくれ……アリア……仕事中だ……」
(……分かったよ、カイン。……お前、今のアリアの声、聞こえてるんだよな?)
ラズロはそう答えると、不意にサングラスを外した。
その眼は言いようのない悲しみに沈んでいる。
彼は、相棒が急に立ち止まり、電脳で『自分ではない誰か』と会話しているのに気がついたのだ。
そして、カインと『共有』している状況だ。
カインが誰とも電脳通信を接続していない事は分かっていた――――不意に訪れる死者との会話。
ラズロは瞬時にそう判断した。
三ヶ月……いや一年は聞こえるのだろうか?
俺は相棒として見守ってやるだけだ。
『あら、カイン! ラズロと私、直接はお話しできないのね? ……ちょっと残念だわ。私、彼には色々言いたいことがあるのに』
(ラズロ……気を使うな。俺は、大丈夫だ。……仕事に集中しろ)
カインは、相棒の気遣いから目を逸らすように短く告げる。
だが、アリアの悪戯心は止まらなかった。
それは彼女が「自分」を保つための、唯一の抵抗のようでもあった。
『ラズロ……久しぶりね! 驚かないで。……実はね、カインと私「結婚」したの! お祝いの言葉は、後でたっぷり聞かせてもらうわよ! ……カインが私のこと、情報の残滓だって分かってるのに、ずっとこのままでもいいって言ったんだから!』
(……カイン、お前……。……いや、何でもない。……行けるか?)
ラズロの気遣いが、通信越しに伝わってくる。
カインは溜息を吐きながらも、リヴァイアサンのグリップを握り直した。
(大丈夫だ。行くぞ、アンバーを追う。……俺は裏口から入る。お前は屋上から回り込め。挟み撃ちにするぞ)
(了解だ。……合図を待て)
裏口の重い鉄扉は、オイル切れで軋んだ悲鳴を上げた。
(入るぞ?)
(了解、俺もだ)
カインは、抜き放ったジャッジメント・リヴァイアサンを腰の高さで維持し、暗い廊下へと滑り込む。
そこは、かつて厨房として使われていた場所だった。
窓は板張りされ、埃が舞う暗がりに、腐敗した空気の重圧がのしかかる。
高性能なサイバー眼球を持つカインにとって、暗闇は障害にはならない。
だが、網膜が捉える「現実」は、暗闇以上に凄惨だった。
(……おかしい。静かすぎる……)
アンバーは、この死の静寂の中で何をしているというのか。
キッチンは、人としての尊厳を放棄したような惨状だった。
誰かが食事をした残骸が、連日の熱波の中で何日も放置されている。
床には、衝撃を加えれば消失するはずの特殊素材で作られたピザの箱が、十五枚も積み重なっていた。
本来、環境に配慮して一定時間で霧散するはずのハイテク素材だ。
だが、過剰な油分と、ところどころに散乱し溜まっている汚水、そして牛肉に近い成分を含む安価な合成肉の汁が染み付き、分解プロトコルがバグを起こしていた。
それはもはや、消失することのない「永遠のゴミ」として堆積し、粘つく腐臭の源泉となっていた。
カインの視線が、コンロの上に置かれた古いフライパンに止まる。
こびりついているのは、茶色と白が混ざり合った、得体の知れない有機物の塊だ。
そこに、数えきれないほどのウジがたかっていた。
蠢くその白い塊は、まるで一つの生命体のように脈動し、毎秒五、六匹がフライパンの縁から「滝」のように溢れ出している。
床下に転がり落ちたそれらは、湿った木材の隙間へと消え、着実に、そして静かにこの建物の中で「領土」を広げていた。
生命の循環というには、あまりに一方的で、あまりに不潔な増殖だった。
(……アンバー。お前は、こんな場所で……何をしているんだ……)
カインの指先が、リヴァイアサンのグリップを冷酷に、しかし震えるほど強く握りしめた。
この腐臭漂う空間に、アンバーという名の「普通の女の子」が彷徨っている。
『普通じゃないわよ。カイン……心の準備をしておきなさい』
(分かってるさアリア)
アリアが電脳の奥で、悲しげに、あるいは怒りに震えて声を失うのを感じた。
カインの冷徹な回路を、静かな、しかし烈火のような怒りが焼き尽くそうとしていた。
アリアにとって、この雑居ビルの闇はまだまだ深く、不浄なものに感じられていた。




