第42話 織部 ほのか軍曹
織部ほのか軍曹が「たまごクマちゃん」の限定版予約に執念を燃やす時、その瞳の奥には、いつも同じ「極彩色の地獄」が再生されている。
それは数年前、日本地区北海道州の都市部で起きた。
世界でも有数の治安を誇り、夜道でも少女が一人で歩けると言われたその街で、理不尽な死の雨が降ったのだ。
当時の州知事が打ち出した「マフィア掃討計画」は、当初、正義の勝利に見えた。
百人を超える構成員が次々と収監され、街は浄化されるはずだった。
だが、追い詰められた獣――「赤い蠍」の末端組織は、牙を剥く対象を法ではなく、無辜の民衆へと変えた。
サッポロの夜に放たれたのは、自律型殺人ドローン六十機。
人型、イヌ型、ヘビ型、そして飛行型。
独立AIを搭載した鋼鉄の捕食者たちは、効率的に、そして機械的に「呼吸するもの」を間引いていく。
当時、大学に入ったばかりだったほのかは、人生で初めての「恋」の予感に胸を弾ませていた。 「明日の午後九時、あの喫茶店で一緒に勉強しない?」
優しい声の男子学生。
彼との約束を思い返し、自室で浮かれていたその時だった。
――パリン。
乾いた硝子の割れる音。
続いて、ポン、ポン、ポン、という奇妙に反響する低音。
(……ポップコーンでも作ってるのかな?にしては、音が小さいな)
妙な胸騒ぎを覚えて階段を駆け降りたほのかの視界に飛び込んできたのは、赤黒い海だった。
リビングの床に、物言わぬ肉塊と化した祖父母と両親が横たわっている。
「ダメ……! おねえちゃん、逃げてッ!!」
階段の下、血に塗れた腹部を必死に押さえながら、妹のはるかが叫んだ。
はるかの傍らには、彼女が何よりも大切にしていた『たまごクマちゃん』のぬいぐるみが転がっている。
鮮やかな黄色をしていたはずのそれは、今や吸い込んだ鮮血でどす黒く変色し、無残に潰れていた。
その瞬間だった。
床を這うように現れた四つ足のクモ型ドローンが、はるかの背後に音もなく着地した。
ボフン
無機質な音と共に、サイレンサー付きの9mm対人弾がはるかの頭部を貫く。
ピン、とリロードを告げる電子音が響き、ドローンの側面にマウントされた高水圧ブレードが、ストン、と音を立ててほのかの両腕を切り落とした。
「あ……あぁ……っ」
ほのかは生きていた。
だが、激痛と恐怖で失禁し、その液体と出血で床が滑って逃げることができない。
「腕……わたしの、うで……どこ……?」
足で床を掻きむしり、自分の欠損した一部を探して彷徨う小さな指。
その絶望を、ドローンは冷徹なカメラアイで見下ろしていた。
次の一撃が放たれる直前、玄関の扉が爆砕された。
「伏せろ!!」
飛び込んできたのは、統一国家陸軍日本地区対サイボーグ276中隊の女性兵士だった。
反転しようとしたドローンの脚を、彼女は信じられない膂力で掴み取ると、そのまま床へと叩きつけた。
ドン! ドン! ドン!
正確無比な連射が、自律兵器の中枢回路を瞬時に粉砕する。
「こっちだ! 衛生兵! まだ生存者がいる、急げ!!」
ほのかの意識は、そこで一度、深い闇に落ちた。
数日後、病院のベッドで目覚めたほのかの視界に入ったのは、白く清潔な天井と、自分の両腕だった。
元通りになっている。
そう思ったのは一瞬だった。
指先を動かそうとしても、思うようにいかない。
作られた体温だけは温もりを湛えている。
統一国家が無償で提供した「義体」。
それは戦闘能力を持たない、安価な民生品だった。
ニュースでは、この惨劇が「『赤い蠍』に指示された日本地区のヤクザによる暴挙」として報じられていた。
死者6243名。
負傷者21398名。
だが、三日も経てば「赤い蠍」という名前はネットから消え失せ、事件はヤクザ組織の単独犯として処理された。
連日報道されるのは、統一政府によるヤクザ浄化作戦。
「違う……。あいつら、情報を潰したんだ。はるかを……お父さんたちを殺したのは、もっと大きな『闇』だ。『赤い蠍』ってテレビでたくさん出てた言葉はどこに行ったの?」
あの日、喫茶店で待っていたはずの男の子の名前は、もう思い出せない。
フラッシュバックするのは、いつも、はるかの血で汚れたあの黄色いぬいぐるみだ。
妹のたまごクマちゃん好きに、「また買ったの?」と呆れていた自分。
家中に溢れ返るグッズに辟易していた、あの平和な日常。
ほのかは決意した。
彼女は、統一国家軍が設立したエリート養成機関『アドバンスド・サイバネティクス・オペレーション・アカデミー(通称:ACOA)』の門を叩いた。
「たまごクマちゃんが好きな、おっとりした成績優秀な子」
周囲はほのかをそう評した。
だが、彼女がなぜトップの成績を維持し続けているのか、その理由を知る者はいない。
彼女を突き動かしているのは、情熱ではない。
家族全員を焼かれた、どす黒い憤怒と怨念の炎だ。
勉強を、訓練を、復讐のための「研磨」として捉えていた。
卒業の日、彼女の前に一人の男が現れた。
「君の経歴と成績、そして……学校での『偽りの顔』は見させてもらった」
スモークサングラスの奥で、凪いだ瞳をした男――ジュリアン・ヴァルテール中尉だった。
「私の組織に来ないか。形だけの正義ではなく、『赤い蠍』を、その根源から狩り獲るための部隊へ」
配属されて二週間。
中尉にもまた、蠍によって奪われた家族がいることを知った。
(……貴方も、私と同じ『欠損』を抱えて、この地獄に立っているのね)
ほのかは今日も、デスクでたまごクマちゃんの新作チェックを欠かさない。
一見すれば平和で抜けた光景。
だが、そのマグカップを握る義体の掌には、あの日失った妹の体温と、蠍の喉笛を掻き切るための、冷徹な意志が宿っている。
彼女にとって「たまごクマちゃん」を集めることは、もはや趣味ではない。
それは、地獄に堕ちたはるかへの、そしてあの日守れなかった家族への、終わりなき鎮魂歌なのだ。




