第41話 Umbra of the Scorpion
翌朝の隊長室。
カインはラズロを伴って、中尉にバレットからの通信内容を報告していた。
隊長室は重苦しい静寂と、革張りのソファーから染み出す品のいい匂いに満ちていた。
カイン・ヴィラールは、サングラスの奥で自身の網膜ディスプレイに記録された「過去の断片」を呼び出す。
数ヶ月前……。
それは、闇オークションに出品されるという『絵』を追っていた時のことだった。
潜入任務のためにラザロと連れ立って、場に相応しい高級スーツを仕立てに行ったブティック。
そこで偶然、同じく獲物を狙っていたアリア・シズク・ウォーカーと鉢合わせた。
(……あの時のアリアは、まだ「実体」を持って隣にいたな。ああ……確かに彼女は美しかった)
『嬉しいなカイン』
アリアのアバターが活動を始めるが無視する事にした。
ブティック内で起きたカイン達と、アリアの火花を散らすような視線の応酬。
その最中、カインの視界にポップアップのメッセージ通知が躍った。
差出人はアンバー・マクレーン。
添付されていたのは、一枚の自撮り画像だった。
そこには、見知らぬ男の首に腕を回し、幸せそうに唇を重ねるアンバーの姿があった。
男は背を向けており、後頭部しか映っていない。
だが、その肩口に輝く階級章は、彼が「海軍大佐」であることを雄弁に物語っていた。
『もう、あなたとのボーイフレンドごっこは終わり。彼ができたの。今の私には、あなたよりずっと優しい人がいるのよ』
メッセージの行間に滲む、突き放すような冷たさ。
(海軍大佐だと……? こんなに若くして?それに、このアンバーの表情は何だ)
女子大生が若きエリート将校と恋に落ちる。
ありふれた痴話喧嘩の一幕として処理するには、カインの直感が告げる違和感はあまりに鋭すぎた。
カインの意識は現在に戻り、その過去の画像と共にアンバーに関係する画像の殆どを中尉とラザロの前にホログラムで展開した。
「……これが、昨日バレットから接触があった件の補足資料だ」
中尉は無言で画像を凝視する。
数秒後、その義眼が鋭さを増す。
「カイン、これは我々のヤマかもしれん。この写真の男……並のMFCSじゃないぞ」
中尉の声は、凍てつくような冷徹さを帯びていた。
「スキャン数値は『生身の人間』と出ているが、骨格バランス、頸椎の角度がおかしい。電脳の計算結果ではなく、俺の勘だ。こいつは間違いなく、中身を詰め替えられたサイボーグだ。蠍の匂いがする……」
「中尉、本気か?蠍? 陸軍の大佐が偽装されたサイボーグだと言うのか?だとしても軍人ならMFCSくらいは、いくらでもいるだろう?」
ラザロが束ねた髪をいじりながら、低く唸る。
「軍であろうとMFCSは、全て我らが把握している。試作品すらな……こいつは知らん。そして、奴ら『蠍』の影が見えれば、それを踏みつけに行くのは当たり前だ。我々はそのために存在する。蠍は普段、その影すら踏ませない。これは、奴らへ繋がる細い糸だ」
一行は、隊長室から通称UPL――「赤い蠍対策捜査本部」UE-0 "PHANTOM-LIMB"の深部へと移動した。
そこは、最新鋭の鑑識装置と、蠍に人生を狂わされたスペシャリストたちの執念が渦巻く聖域だった。
「ドクターF、見解を」
中尉が促すと、モノクルを光らせた老医師が、ゆっくりとホログラムを拡大した。
「……ふむ。中尉の言う通りじゃな。この『彼氏殿』は、生身のフリをした最新型のMFCSじゃ。先月納入したばかりの我がM-SBA (多層スペクトル生体構造解析スキャナー)でなければ、ワシも危うく『健康な人間』だと判断するところじゃったわい。……のう、お嬢ちゃんたち」
ドクターFは傍らのオペレーターたちに、渋い抹茶団子を配りながら問いかける。
ドクターFの脳裏には、氷点下に近い戦慄の疑念が、凍結したオイルが張り付いたかのようにベッタリと張り付いていた。
(まさか……まさか……Aquariusか?いや……確証はない……しかし……)
「この女の子……アンバーちゃんでしたっけ? 彼女、V・Eを使われてるよ!」
オーバーサイズのパーカーを揺らし、メイシー曹長がグミを噛み砕きながら叫んだ。
「V・E……確か……視覚浸食か」
カインの背筋に冷たいものが走る。
「V・E。特定の周波数で明滅する光と、サブリミナルな電子ノイズを組み合わせた、最悪の洗脳動画ですわ」
オペレーターチーフのノエル少尉が、事務的ながらも憎しみを押し殺した声で解説を補足する。
「網膜投影を通じてこれを視聴すると、脳の判断回路が強制的に書き換えられます。特定の対象を『絶対的な神』として刻み込み、逆に身近な人間を『排除すべき怪物』だと誤認させる。……彼女の表情を見て。目が虚ろで、口角だけが吊り上がっている。デジタル・ドラッグ特有の『幸福な廃人』の顔だわ」
「アンバーが……あのアホみたいに明るい娘が、洗脳されてるってのか」
ラザロの拳が、金属音を立てて固く握られた。
「蠍の常套手段ですよねぇ」
織部ほのか軍曹が、温かいほうじ茶の湯気の向こうで、おっとりと、しかし殺気の籠もった声で呟いた。
彼女のデスクには、場違いなほど可愛らしい『たまごクマちゃん』のマグカップが置かれている。
「こうして新しい『お客様』を増やして、自分たちの『お得意様兼売人』に仕立て上げるんです。……この女の子、カインさんの知り合いなんですか?」
「ああ。……馴染みのガンショップの娘で、ただの大学生だ。俺をボーイフレンド扱いして遊んでいた、お節介な娘だよ」
カインは答える。
その声は話している調子に反して深く、昏い。
(……アンバー。お前がその男を選んだのが、自分の意思ではなかったというのか。お前が見ているその『優しい彼氏』は、脳を焼かれた果ての幻覚なのか)
「中尉、方針を。我々は行くべきという事でいいんですか?」
カインの言葉に、中尉は薄いスモークサングラスの奥で、静かに、しかし決定的な殺意を宿した視線を向けた。
「決まっている。その『大佐』を名乗る鉄屑を解体し、娘の脳から蠍の毒を洗い流す。行け……作戦開始だ。一人残らず、地獄へ叩き落とせ」
UPLの各員が、それぞれの「失われた四肢」の疼きを感じながら、一斉に動きはじめた。
オペレーターの三人はキーボードと格闘を始める。
アンバーと言う見知らぬ娘の救出プロトコルが、静かに開始された。
『――ちょっと、カイン!!』
鼓膜を介さず、電脳に直接響く高彩度な声。
アリアだ。
『私というものがありながら……女子大生ですって! あんたねぇ……あのアメリカンなダイナーで (アップルパイあーん)してもらった時の記憶、しっかり残ってるじゃない! 何よあのデレついた顔! おっぱいの大きさだって、まあ、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ負けてるかもしれないけどさぁ!』
カインはサングラスの奥で、思わず天を仰ぎそうになるのを必死で堪えた。
(作戦会議中だぞ……勘弁してくれ……。勝手にアーカイブを漁るなと言っただろう。それに付き合っていたわけじゃない。彼女が退屈な日常を紛らわせるための『暇つぶし』に、俺が利用されていただけだ)
『嘘おっしゃい! 電脳ログの端々に残ってる(何となくいい子だな)っていう淡い感情、私には丸見えなんだからね! 胸?その子の胸が良いの?……しかも、急に冷たくなったのは『洗脳』のせいだったんでしょ? 私の分析じゃ、その子、あんたのこと本気で好きだったわよ……!』
(ぐ……。アリア、君に言い訳をする義理はないはずだが……本当に特別な感情はないんだ。ただの、近所の騒がしい小娘だ)
『ふーん、そう? まあいいわ……。あんたの感情アーカイブに(アンバーよりアリアが好き)って表示されてるのが見えるし……ふふふ。ねえ、いっそのこと、付き合っちゃおうか? 私たち』
カインは、自身の思考がアリアのペースに完全に飲み込まれていくのを感じながら、心の中で深い溜息をついた。
(……もう、付き合っているというか、物理的に『一心同体』だろう。これ以上の付き合いとは、一体何をすればいいんだ)
『――きゃー! 恥ずかしい! カインの口から(一心同体)なんて言葉が出るなんて! アリア困っちゃうなぁ』
脳内でバニーガールの衣装に着替えたアリアのアバターが、派手なクラッカーを鳴らして踊り狂う。
その騒音に耐えかね、カインが強引に意識を現実へと引き戻したとき――。
「…………」
ブリーフィングルームの全員が、石像のように固まってカインを注視していた。
静寂。
ただ、サーバーの冷却ファンの音だけが虚しく響く。
あの冷徹なジュリアン中尉が、ポカンと口を開け、幽霊でも見たかのような顔で呟いた。
「カイン……君のその、劇的な『百面相』は……よく出るものなのだな」
「中尉、許してやってください……」
ラザロが、同情に満ちた目でカインの肩を叩く。
「こいつ、アリアのことが忘れられないんですよ。俺が昔、ジェシカを亡くした時と同じだ。俺も数週間は、こうして虚空を見つめては……亡くした事に涙して、楽しかった思い出にニヤけたり……絶望したりを繰り返してたもんです」
(当たりだ、ラザロ。さすが相棒だよ……忘れられないどころの騒ぎじゃないんだ)
カインは心の中で、親友の誤解に深く感謝しながら、同時に絶望した。
『そうそう、死んだ後も頭の中に住んでまーす! ☆』
アリアの追い打ちに、カインの眉間には深い皺が刻まれる。
「……まあ、亡くして日が浅いからな」
中尉は、部下の精神状態を憂慮するように、声音を和らげた。
「無理は禁物だ。我がUPLの規約では、緊急任務がない限り、オペレーターか執行官の誰か一人が詰め所にいれば、他は非番で構わない。アンバーの捜査についても、焦る必要はない。蠍は狡猾だ。こちらが逸れば、彼らはチンピラを使い捨てて、すぐに雲隠れしてしまう。ゆっくり、確実に追い詰めればいい」
「中尉ってば、相変わらず過保護なんだから。カインとラズロもわかると思うけど、怖いフリして優しいのよ。中尉は」
メイシー曹長が、鮮やかなブルーのグミを口に放り込みながら、ホログラムディスプレイを指先で弾いた。
「でもさ、ぶっちゃけ平日も土日も、ほとんどみんなここに来てるよね?」
「確かに」
チーフのノエル少尉が、完璧に整えられた戦術マップを閉じながら、同意の笑みを浮かべる。
「みんな大切な人を失ってるからかしらね。帰ったところで、蠍を放置してぐっすり眠れるような可愛い神経は、ここには一人もいないもの」
「そうですねぇ」
織部ほのか軍曹が『たまごクマちゃん』のマグカップでほうじ茶を啜り、ホッとした息を吐く。
「家に帰って一人でいても沈んじゃうし……ここにいると、少しでも蠍を引き裂く仕事をしているんだって思えて……少し心が休まるというか……楽しいんです。あ、ドクター、今日のお菓子は他にもありますか?」
ドクターFが、待ってましたとばかりに茶色の紙袋を取り出す。
「ほっほっほ、今日は特別なのがあるんじゃ。『日本地区からわざわざ取り寄せた青紫イモ羊羹』じゃ。歯がなくても口に入れたら溶ける逸品じゃぞ」
「……ドクター、私たちまだ二十代なんですけど」
メイシーが苦笑しながらも、差し出された渋い和菓子を手に取る。
「はい!中尉も食べてください。こういうの、電脳の糖分補給にはいいんだよね。ほら、ノエルさんも」
「ありがとう、メイシー。おいしい……子供たちにも食べせたかったわ」
ノエルは穏やかな表情で羊羹を小分けにする。
ノエルは優しい夫と三歳の息子、二歳の娘を蠍に殺されている。
メイシーは婚約者と両親、ほのかは祖父母、両親……そして自分を庇った妹。
彼女たちにとって、この閉鎖的な捜査本部は、単なる職場ではなく、傷を舐め合い、牙を研ぐための「唯一の居場所」だった。
「ほのかも、クマちゃんのコレクションばっかり増やしてないで、たまには外の空気も吸いなさい」
ノエルがまるで母親のように言うと、ほのかは頬を膨らませた。
「外はめんどくさいですし、何よりたまごクマちゃんの限定版がここの回線なら最速で予約確定できるんですよ。多分、そこらの軍のパソコンより早く行けるんじゃ無いですか?」
「……動機が不純すぎるだろう」
カインが笑いながら思わずツッコミを入れると、三人娘が楽しげに笑い声を上げた。
『ねえ、カイン。いい職場じゃない。みんなあんたの(精神疾患)を温かく見守ってくれてるわよ。さあ、元気出して!』
(オレが精神疾患だと思われてるのは、誰のせいだと思っているんだ……)
アリアの脳内の声が、これまでになく力強く響くが、カインは苦笑するしか無い。
カインはサングラスを指で直し、中尉に向き直った。
「……中尉。ご配慮には感謝しますが、今は休みは不要です。『蠍』を追うチャンスなんだ。ラズロ、行くぞ」
「ああ、分かってるって。……おいカイン、さっきのオマエのアーカイブ画像な……あとでその『アップルパイあーん』の詳細、じっくり聞かせろよ。ラズロおじさんは興味津々だぜ」
相棒の皮肉を背中で受けながら、カインは騒がしいブリーフィングルームを後にする。
ラズロは笑いながらもカインを追う。
脳内に住まう、騒がしい「心の相棒」と共に。




