第40話 家出
応援で呼んだコースト・ガード(沿岸警備隊)の船舶がレオのタンカーを囲み始めた頃、マリアンヌのヘリが三人をピックアップして帰路に着いていた。
ヴェノム・ワイバーンの機内は、奇妙な雰囲気に支配されていた。
ローターの重低音と、機体を震わせる微かな振動だけが支配する閉鎖空間。
カインは薄暗いキャビンでシートに深く身を沈め、閉じた瞼の裏で、脳内に居座る「騒がしい同居人」との会話が尽きない。
もし、生身のアリアと一緒に生活していたら、朝から寝るまで会話が尽きないのではないか――叶わない雑念がカインの脳裏が過ぎる。
『そうね、そうなるかも。きっと楽しい家庭になるわよカイン』
無意識の雑念すら隠せない状況にカインは苦笑する。
その時、網膜に着信を示す緑が灯る。
発信元 バレット・マクレーン。
カインの眉が、わずかに動く。
バレットはアンバーの父親であり、カインの「なじみのガンショップ」の店主だ。
彼が執行官に、私用の連絡をすることは考えられなかった。
カインは電脳で思考操作を行い、回線を開いた。
電脳インターフェイスの隅にはアリアのアバターがちょこまかと動いているが、無視することにした。
「……バレットか? どうした。例の『ベヒーモス』のツケなら、だいぶ前に電子送信で支払いを済ませてあるはずだ。足りなかったか?」
だが、通信の向こう側から返ってきたのは、いつもの豪放磊落な笑い声ではなかった。
「アンバー……アンバーを助けてくれ、カイン……ッ!」
その声は、喉を熱い鉄で焼かれたような、悲痛な震えを含んでいた。
バレットの荒い呼吸が、ノイズ混じりにカインの鼓動を叩く。
「落ち着け、バレット。何があった?家出か?」
「そんな……そんな可愛いもんじゃねえんだ! あいつは、あの馬鹿娘は……俺に黙って、脳を電脳にしちまいやがったんだよ! あんなにサイボーグ化を嫌ってたあいつが……! それだけじゃねえ。あいつは今、電脳麻薬『N.O.(ノー)』を食ってやがる!」
カインの心臓――コア・ジェネレーターが、ドクンと一際大きく脈打った気がした。
『N.O.』。
摂取すれば生身では味わえないような強烈な多幸感と最高の快楽をもたらすサイボーグ専用ドラッグ。
「何だと……! 19歳のガキが手を出していい代物じゃない。バレット、済まないが俺は今、任務中だ。マンハッタンを大きく離れている。すぐに動くことは物理的に不可能だ。……いいか、すぐにNYPD(ニューヨーク市警)に緊急コードで相談しろ。薬物捜査課の連中が即座に動くはずだ」
「ダメだ……。警察じゃダメなんだよ……。カイン、聞いてくれ。あいつ、最近おかしいくらい露出のひどい服を着て、夜な夜な出歩くようになっちまってなぁ。……あいつの背中に刻まれてるんだよ……」
バレットの声が、絶望に濡れてかすれた。
「『レッドスコルピオン』の、蠍のタトゥーがよぉ……!」
ヘリの振動が、一瞬だけ消えたかのように錯覚した。
カインの網膜を、赤い蠍の残像が過る。
世界最大のマフィアであり、UE-0 "PHANTOM-LIMB"(ファントム・リム)が追う「十二宮」の暗い影。
アンバー。
あの、カインとラズロ行きつけのダイナーで笑っていた、光の中にいたはずの少女の肌に、血のように赤い蠍の紋章。
「……蠍だと!? 冗談はやめろ、バレット。あの店に通う法執行官たちが黙っていないぞ」
「冗談ならどれほどいいか……! カイン、俺だってあの紋章が何を意味するか、嫌っていうほど知ってるさ。偽物じゃねえ事も分かってる。俺だって元エクスキュショナーだからな……あいつはもう、『紋章入り』にされちまってる!助けてくれる……」
カインの指先が、無意識に膝の上で拳を作った。
ミシミシと、指関節の駆動系が軋む。
カインの理性は、これが極めて危険なヤマであることを理解していた。
あえて関わる必要などは無い……優秀な組織人としてはそうだろう。
だが、電脳の隅に残る「人間」が、激しい拒絶反応を示していた。
通信を共有していたラズロが親指を立てる。
(「助けてやれ」という事か、ラズロ)
(当たり前だカイン。アンバーだろ?)
「……分かった。バレット、『蠍』……それなら話は別だ。もしかしたら、俺の領域かもしれん。上官に打診してみる。レッドスコルピオンが絡んでいるなら、許可が降りるかもしれん。……ただし、相手が相手だ。期待はするな。俺たちがダメだったらNYPDに駆け込め」
カインの声は、氷のように冷たく、バレットを突き放そうとしているようにすら聞こえる。
しかし、カイン・ヴィラールという不器用な男を知っている者からすれば十分な言葉だった。
カインは話を続ける。
「いいか、よく聞け。もし俺からの連絡が三日間途絶えたら……その時は、『俺はアンバーの捜査に入った』と思ってくれ。俺が捜査に入れなければ、また連絡する」
「ありがとう……。ありがとうなぁカイン……。あいつは、俺の最後の光なんだ。ヨメが死んだ時、あいつが生きていてくれたから、俺は生きてこれた。アンバーまで居なくなっちまったら、俺は……俺はぁ……ッ!」
通信の向こうで、バレットが崩れ落ちるような音がした。
元エクスキュショナーとしての矜持をかなぐり捨て、ただの老いた父親として泣き崩れる大男。
カインはそれを、沈黙で受け止めるしかなかった。
「……バレット。アンバーは今、そこに居るのか?」
「いいや、昨日の夜から帰らねえ。最近はいつもそうだ。……問い詰めたら、『新しい男が出来た。あんたには関係ない』なんて吐き捨てやがったが、どこの誰かも、人間かサイボーグかも分からねえんだ……。ただ……あの目は分かる。スキャンするまでもねぇ。ジャンキーの目だ』
「……分かった。一度切るぞ……アンバーが帰ったら、どんな些細な変化でもいい。メッセージで俺に送っておけ。……単独で動くなよ、バレット」
カインが回線を切断すると、ローターの騒音が再び現実を支配した。
機内は薄暗く、赤い非常灯が隊員たちの冷徹な横顔を照らしている。
カインは腰のハードポイントに収まった『ベヒーモス』の感触を、右手の指先で確かめた。
ヘリは重い雲を突き抜け、着陸するために高度を下げていった。
カインの瞳の奥で、青白い電子の火が静かに灯った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これから物語が大きく動きます。
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