第37話 愛し合う者達の結合の形
ニューヨークを経由し、ラズロの自宅で「ジェシカの左腕」を回収したヘリは、そのまま大陸を突き抜け、コロラドの険しい岩肌に隠された「ピーターソン宇宙軍基地」へと滑り込んだ。
シャイアン・マウンテンの地下深く、幾重もの電磁隔壁を抜けた先にあったのは、およそ軍の施設とは思えないほど静まり返った一画だった。
自動ドアがスライドして開いた先、広大なフロアには最新鋭のホログラフィック・ディスプレイが整然と並んでいた。
だが、そこで立ち働くのは、驚くほど少人数の、三人の女性オペレーターだけだった。
「……少ないか? だが、これ以上の人員は必要ない。今のこの国で『赤い蠍』の毒牙にかかっていない、真に信頼できる奴など、砂漠で針を探すようなものだ」
中尉の声が、無機質なフロアに低く響く。
彼はサングラスを外し、その凪いだ義眼を端末に向けた。
「ここはUPL。基本はバディでの運用だ。お前たちの他に三つのチームがあるが、今は挨拶させる余裕もない。二つのチームは、蠍の首領『Death Gemini』の配下――十二宮の一人、『Leo』のアジトを特定し、制圧任務に就いている」
ディスプレイに、山のような巨躯を持つ男のデータが躍り出た。
Leo。特性:咆哮と蹂躙。
超硬質チタンを引き裂く指先と、喉に内蔵されたソニックブーム(音響兵器)。
咆哮一つで電子脳を焼き切り、連携を遮断するその武闘派の名を聞いて、カインの頬がかすかに引きつる。
「さて、お前ら二人には既に警察なら警部補、軍なら憲兵少尉の待遇を与えてある。捜査に不自由はさせん。……おい、ドクトル。連れてきたぞ」
フロアの奥から、油と消毒液の匂いをさせた白衣の老人が姿を現した。
ドクトルF。
その背は曲がっているが、眼光だけは研ぎ澄まされたメスのように鋭い。
「よく来たな! 話は聞いとるぞ。およそ『楽しい話』ではないが、ワシの指が疼く内容じゃ。ドクトルFと呼んでくれい」
ドクトルは、カインが抱えていた保護シートの中の「アリアだったもの」と、ラズロが死守してきた重厚なコンテナを交互に見た。
「アリアという娘のスペアパーツ、そしてこの『オルトロス』……。これらをお前さんの全身へ、細胞レベルで馴染ませる。アリアのパーツは幸いにも軍のハイエンド(最高規格)だ。お前さんの骨格、神経系、人工筋肉……そのほとんどに流用、あるいは完全な置換が可能じゃ。手術の全行程が終わるには五日。その間、お前さんの意識は暗いプールの底に沈むことになる」
カインは、作業台の上のアリアの腕を見つめた。
この腕に、自分は何度助けられただろうか。この腕が、何度自分の背中を叩いて勇気づけてくれただろうか。
「……容姿はどうなる。女になったりはしないだろうな?そうしなければ、俺は鏡を見るたびに彼女の死を思い出すことになる」
カインの低い問いに、ドクトルは鼻で笑った。
「安心せい。ワシの腕を疑うな。表面の人工皮膚、顔の造作……それらはお前さんの今の容姿を完全に維持してやる。鏡の中の男は、相変わらずカイン・ヴィラールだ」
ドクトルはそこで一度言葉を切り、表情から一切の慈悲を消した。
「だがな、覚悟せよ。中身は別物だ。アリアの軍用プロトタイプ・パーツと、ワシの最新のバイオ・プログラムをお前さんの神経系にリンク(強制同期)させる。アリアの生体神経パーツはもの凄いぞ。その結果、お前さんの身体能力は……理論上、今の4.8倍にまで跳ね上がる。反射速度、筋力、演算処理能力。すべてが既存のエクスキュショナーの規格を、いや、人類が定義した『サイボーグ』の限界さえも遥かに超越する……世界に十五人といない正規M-Tの領域じゃ」
4.8倍。それは、物理法則を置き去りにする数字だった。
「お前さんは、文字通りの『化け物』として産まれ変わるのじゃ。エクスキュショナー(処刑人)という名の、死を撒き散らす獣にな。アリアの『牙』をその身に宿し、彼女が二度と味わえなかった人生も、銃火の熱さも、すべてお前さんの電脳が代わりに記録し続けることになる」
ドクトルの言葉は、冷たいメスのようにカインの心臓を抉った。
カインはゆっくりと、自分の右腕を持ち上げた。
まだ「人間」の感覚が残っているこの腕が、五日後には、かつての相棒を殺戮兵器として内包した、鋼の凶器に変わるのだ。
「……構わない。アリアが、俺の腕になってくれるなら。……俺の体の中で、あいつの怒りが生き続けるというなら、俺は喜んで化け物になろう」
カインの声は、驚くほど静かだった。
ドクトルはその答えを待っていたかのように、満足げに頷いた。
「よかろう。……さあ、液体が満ちた長期サイボーグ保存用カプセルに入れ。しばらくのお休みじゃわい。次に目を開ける時、お前さんはかつての自分を忘れているかもしれんぞ……アリアという『亡霊』と共に生きる、新たな悪夢の始まりじゃな」
カインは重い足取りでカプセルへ向かい、青白い薬液の中に、ゆっくりとその身を沈めていった。
視界が不透明な液体に覆われる直前、カインの目に映ったのは、ドクトルによって解体されようとしているアリアの、美しくも悲しい銀の腕だった。
(……待ってろ。もうすぐ、お前と一緒に地獄へ行ける)
冷たい静寂が、カインの意識を呑み込んでいった。
カインは意識が落ちる瞬間、電脳に不意に映る画像に涙が出た。
それはアリアの笑顔……五日後、この腕にはアリアの牙が宿る。
「続いてラズロ。お前さんはカインの後にやる。三日後だ」
ドクトルの声が、ふと湿り気を帯びた。
コンテナに手を触れるその指が、わずかに震える。
「……この遺品、ジェシカか。あの子はワシの娘も同然だった。新婚だというのに、軍の内部に潜む『蠍』を暴く潜入任務に自ら手を挙げおって……。そして三日後に死んだ。理由は……知っているじゃろう?ラズロ……つけるだけなら三時間で済む。だが、あの子の仇だろう? 全力で全身を強化してやる。中尉と同じ、国家承認なしには到達できぬM-Tの最高峰にな」
「……おい、ジジイ。余計なことを抜かすな」
中尉の氷のような声がドクトルの饒舌を遮った。
ラズロは言葉を失い、コンテナを見つめた。中尉がその横から、低く補足する。
「……ジェシカの武器、『ハデス・クロウ』。それは空間そのものを穿つという神への冒涜に近い実験が生んだ、呪われた試作機だ。軍に置いておけば、いずれ蠍へ横流しされていただろう。それをラズロが持っていたのは、彼女の意志だったのかもしれん」
ハデス・クロウ。
通常時は生体の腕である。
だが、リミッターを解除すれば二の腕から物理的に折れ曲がり、内部から三本の鈍色の鉤爪が1.7m展開し露出する。
高周波振動ユニットによって、触れたものすべての物質的結合を原子レベルで粉砕する「絶対破壊」の権化。
「感傷に浸る時間は終わりだ。さあ、カプセルに入れ」
促された先には、青白い液体が満ちた長期サイボーグ保存用のカプセルが二基、並んでいた。
カインはすでに液体に沈んでいる。
ラズロもまた、ジェシカが眠るコンテナを愛おしそうに一度だけ撫でてから、液体の中に潜った。
「しばらくのお休みじゃ。次に目を開ける時、お前さんたちはもう『人』ではないぞ……」
ドクトルFの呟きが、泡の弾ける音と共に遠ざかっていく。
カインの視界は、長期サイボーグ保存用カプセルを満たす青白い粘膜のような液体に覆われ、やがて完全な暗転へと沈んだ。
冷たい薬液は、傷ついたサイボーグの神経系をなだめるように、優しく、それでいて拒絶を許さぬ重みでカインの意識を侵食していく。
意識の表層が溶け、現実と虚構の境界が曖昧になったその時、彼は「夢」を見ていた。
鼻をくすぐる、香ばしい肉の焼ける匂い。
ジューという小気味よい音。
どこかで見覚えのある、けれど少しだけ見知らぬ、温かみのあるリビング。
「ねえ、カイン! 焼き加減はどうする? 今日は奮発して、いい部位を買ってきたんだから!」
エプロン姿のアリアが、キッチンから顔を出して笑っている。
その腕は、冷たい銀の機械ではなく、柔らかな陽光を反射する血の通った生身の肌だった。
カインはソファに深く腰掛け、手元のホログラム新聞に目を落としながら、柄にもなく穏やかな声で応える。
「……ミディアムレアで頼む。お前が焼くと、いつもウェルダンを通り越して炭になるからな」
「失礼ね! 私だって、本気を出せばプロ並みなんだから!」
アリアは頬を膨らませ、おどけてフライ返しを振り回す。
やがてテーブルに並ぶのは、湯気を立てた大皿のステーキと、色鮮やかなサラダ。テレビから流れる他愛もないニュース番組の音声。
それは、どこにでもある、ありふれた、けれど最高に幸せな家庭の風景だった。
カインはフォークを手に取り、アリアと向かい合って笑い合う。
(……なんだ、これは?)
幸福感に満たされた脳の片隅で、冷徹な理性が問いかける。
カイン・ヴィラールという男の人生に、こんな穏やかなディナーの記憶など存在しない。
彼は孤独な捜査官であり、アリアは危ういバランスの上で生きる軍の亡霊だったはずだ。
(これは……俺の願望か? それとも、今まさに俺の神経に繋がれようとしている、アリアの「未練」が見せている幻影なのか……)
アリアが楽しそうに笑い、ワイングラスを掲げる。
彼女の瞳には、愛しさと、未来への希望だけが宿っていた。
だが、その光景が完成されようとしたその瞬間、世界の色彩が急速に色褪せていく。
温かかったはずのステーキが、瞬時にして腐敗したオイルと鉛の塊に変わる。
アリアの肌がひび割れ、その下から無機質なチタン合金の骨格が露出した。
「カイン……どうして……?」
アリアの声が、ノイズ混じりの電子音に歪む。
そして、幸せなリビングの壁を突き破り、一人の女が歩み寄ってきた。
冷酷な無表情。
手入れの行き届いた愛銃を携え、親友の心臓を狙う、あの女。
――クロエ。
彼女は、まるで退屈な作業をこなすかのように、アリアの頭部に銃口を突きつけた。
カインは叫ぼうとしたが、喉が液体で満たされているかのように声が出ない。
「アリア、あなたは『エラー』なのよ」
クロエの唇が、冷ややかに動く。
次の瞬間、あの夜響き渡った、あまりにも冷酷な破壊音がカインの脳髄を貫いた。
「パキリ」
乾いた、取り返しのつかない音。
アリアの笑顔が、ガラス細工のように粉々に砕け散る。
(なぜ?クロエが?アリアの親友の女……アリアを殺したのはまさか……)
幸せな家庭も、ステーキの匂いも、アリアの温もりも。
すべてが漆黒の虚無へと吸い込まれていく。
カインの意識は、激しい拒絶反応と共に、再び暗い粘膜のような液体の底へと叩き落とされた。
(……そうだ。俺に『幸せ』なんてものは、最初から許されていなかったんだ)
薬液の中で、カインの右腕の神経が、まだ見ぬ『オルトロス』との接続を求めて激しく疼き出す。
夢は終わった。
カインに夢の中の記憶は残っていなかった。
残ったのは、骨の芯まで焼き尽くすような、純粋で、透明な殺意だけだ。
(待ってろ、蠍ども…………。アリアが見たかったはずの『未来』を奪ったその代償を、お前達の命で、いや、その魂の欠片にいたるまで、すべて支払わせてやる……最高の痛みを伴わせてな……)
カインの電脳が、復讐へのカウントダウンを開始する。
青白い液体の中で、一人のエクスキュショナーが死に、一つの「真の意味でのエクスキュショナー」が静かに産声を上げていた。
(……待ってろ。もうすぐ、お前たちの喉元に届く牙が完成する)
中尉は目を細めてカインとラズロの手術を毎日見ていた。
数多くの軍人やエクスキュショナー、警察のCS (サイボーグ・ソルジャー)でも12星座と渡り合える者など居ないのだ。
中尉にとって、カインとラズロは希望の光とも言えた。
二人の眠れる獣。
シャイアン・マウンテンの最深部で、蠍を噛み殺すための静かな儀式は間も無く終わろうとしていた。




