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第30話 出航

 八月。

 ロサンゼルスの正午は、焼き尽くすような暴力的なまでの白光に支配されていた。

 海面は乱反射するダイヤモンドの砕片のように輝き、直視すれば網膜を灼く。

 エアコンの冷気と外気との境界線では、アスファルトから立ち昇る陽炎が不気味に揺らめき、高層ビルの輪郭を飴細工のように歪ませていた。


 ドックに横付けされた『エトワール・ド・メール』号のメインサロン。

 そこには、数時間前に合流したばかりのクロエが、冷えたアイスコーヒーのグラスを結露させながら、凍りつくような厳しい表情で座っていた。


「アリア……悪いけど、呑気にピザを食べてる場合じゃないわよ。このヤマ、あなたが考えているよりずっと深くて暗いわ」

 クロエは細い指先でタブレット端末を弾き、機密レベルのプロテクトがかかったログをアリアの眼前にスライドさせた。

 そこには、ワン画廊の惨劇以来、アメリカ・ブロック中のマフィア、私設軍隊、そして統一国家警察のいくつかの部署までもが、ある「特定の絵画」を血眼になって追跡し始めているという異常な記録が並んでいた。


「ねえ、ヘーゼル。よく聞きなさい。あなたの探しているその『絵』……今やこの国中の権力者が、正気とは思えない額の懸賞金をかけて探し回っているわ。裏社会の懸賞金だけじゃない、表の捜査網まで動いている。一体、その絵は何?言いたくなければ良いわ。でも、どこにあるの?」


 アリアはピザの箱を閉じ、飲み残してぬるくなった白ワインを一口含んでから、隣に座るヘーゼルをじっと見つめた。

 ジャグジーで見せた、壊れそうな涙。

 そして、あの華奢で、守らなければならないと本能に訴えかけてくる少女の肢体。

 アリアは彼女を「依頼人」であり「守るべき対象」だと信じている。

 だが、軍用プロトタイプの演算回路が、会話の節々に生じる微かな違和感――情報の断絶を鋭敏に感知していた。


「ヘーゼル。本当のことを教えて。隠し事はなしよ。……あなた、本当は何のためにその絵を探しているの? 『偽のワン』もそう。彼らが手段を選ばず、人を殺してまで手に入れたがっている理由に、本当に心当たりはないの?」


 ヘーゼルはパステルカラーの部屋着の裾を、白くなるほどぎゅっと握りしめ、深く俯いた。

 天窓から差し込む無慈悲な陽光が、彼女の青い髪を透かし、その陶器のような横顔を神秘的なまでに美しく、そしてどこか悲劇的に照らし出している。


「……それは……」

 ヘーゼルは震える唇を開き、消え入りそうな声で、しかし自分自身に言い聞かせるような断固とした口調で言葉を紡ぎ出した。


「なぜ探されているのかは分かりません。でも、今ではもう……私にとっては父の形見なんです。父が最期まで守ろうとして、そして……そのせいで殺された、たった一つの理由。絵は、エル・セグンドの森林地帯にある私設倉庫の中に隠してあります。父から、万が一の時はそこへ向かえと……それだけなんです、信じてください」


 その瞬間、アリアの左目の虹彩が、深紅の警告色を一瞬だけ走らせた。

 視認されるはずのない視界の隅、網膜投影されたインターフェースに、冷徹な演算結果が浮かび上がる。


『偽証率 99.48%』

 昨夜の数値をコンマ数パーセント上回ったそのレッドゾーンの警告は、彼女が今語った「形見」という言葉も、「それだけ」という結びも、そのほとんど全てが編み上げられた虚飾であることを告げていた。

 アリアは表情を一つも変えず、クロエが端末の資料を読み込み、眉を潜めている隙を見逃さなかった。

 彼女はクロエの耳元へ、重力に逆らうような滑らかな動作で口を寄せた。


「(……クロエ。この子の偽証率、振り切ってるわ。99.48パーセント。これ、全部デタラメよ。台本があるみたいな喋り方)」

 クロエの眉間には、彫刻のような深い皺が刻まれた。

 彼女はヘーゼルの可憐な姿を盗み見て、喉の奥で押し殺した声を出す。


「(……怪しすぎるわね。この子、こんなに可愛い顔をして、中身がどんな怪物モンスターなのか、それともどんな巨大な嘘を飼っているのか全く読めない。いい、アリア。情に絆されるのは勝手だけど、寝首をかかれないように気をつけるのよ。この子は『可憐な防衛対象』じゃなくて、『罠』かもしれないんだから)」


 クロエの警告は、数多の凶悪犯を相手にしてきたプロの捜査官としての、正当な危機管理だった。

 しかし、アリアはふっと肩の力を抜くと、わざとらしく明るい声を上げて、クロエの背中をバシッと叩いた。


「まあまあ! クロエったら考えすぎよ! 取調室で嘘つきばかり相手にしてるから、性格が曲がっちゃったんじゃない? そんなことあるわけないじゃない」


 アリアはケラケラと笑いながら、ヘーゼルの華奢な肩を抱き寄せた。

 指先に伝わる肌の感触は、やはり驚くほど柔らかく、そして……どこか現実味を欠いた完璧な「美少女」そのものだ。


「あの『絵』の場所がピンポイントで分かる依頼が、この私のところに舞い込むなんて……。やっぱり日頃の行いが良いと、神様もちゃんと見てるのね! 運命よ、これは運命。このままエル・セグンドまで最高のクルージングを楽しみましょう! マフィアも警察も出し抜いて、私たちが一番乗りして、そのお宝を拝んでやりましょうよ!」


 アリアは飲みかけのワインをグイッと煽り、不敵な笑みを浮かべた。

 クロエは「やれやれ」と呆れたように首を振るが、アリアの瞳の奥に、演技ではない、冷徹な「観察者」としての氷のような光が残っていることを、長年の付き合いゆえに見逃さなかった。


(……ヘーゼル、あなたは一体何を隠しているの? ……)


 アリアの胸中を、欺瞞への怒りと、未知への期待が渦巻く。

 偽証率 99.48%。その絶望的な数字の裏側に隠された真実。

 『エトワール・ド・メール』号は静かにアンカーを上げ、暴力的な日差しを切り裂くようにして、さらなる深淵――エル・セグンドへと舳先を向けた。

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