第29話 暴かれた偽装
ジャグジーの熱気と、エメラルドグリーンの光を背にして、二人はメインサロンへと戻った。
中央に鎮座するマホガニーのローテーブルには、アリアが街で「車に限界まで積み込んだ」戦利品が、さながら略奪品のように並べられている。
高級クルーザーの洗練された内装に対し、そこだけがニューヨークの下町に作ったストリート・ファイトのアリーナのようなジャンクな色彩を放っていた。
「さあ、冷めないうちに詰め込みなさい、ヘーゼル。胃袋が空じゃ、良い逃亡計画も立てられないわ」
アリアが勢いよくピザの箱を開けると、再加熱した熱気が箱から溢れて一気に爆発した。
立ち昇るのは、数種類のスパイスが溶け合った刺激的な香りと、焦げた小麦の香ばしさ。
サンタモニカの老舗ダイナーで焼き上げられたと書いてあったそのピザは、縁までぷっくりと膨らみ、ナポリ風の軽やかさとアメリカンな重厚さを兼ね備えている。
アリアはタオルで濡れた髪を拭いながら、Tシャツ一枚のラフな姿で、黄金色に輝く一片を素手で掴み上げた。
持ち上げた瞬間、たっぷりと載せられたモッツァレラとチェダーの混合チーズが、重力に抗うように長く、長く糸を引く。
その表面には、熟成されたペパロニから染み出した、アリアがかけ過ぎた赤く艶やかなオイルが、まるで宝石の雫のように浮かんでいた。
「アリアさん……辛いオイルかけ過ぎてません?」
「……ふーっ、ふーっ。このくらいが良いのよ。ジャンクな香りが、脳の全回路を強制再起動させるわぁ」
アリアが豪快に食らいつくと、サクッというクリスピーな乾いた音に続き、もっちりとした生地の弾力が弾けた。
凝縮されたトマトソースの酸味と、ペパロニの塩気、そして鼻に抜けるガーリックの香りが、三位一体となって味覚の荒野を駆け抜ける。
それが終わると、剣が暴れ回っているかのような辛さが襲ってくる……アリアのかけた辛味オイルは明らかにかけ過ぎの領域であった。
「アリアさん……からいんですよね?……涙出てますけど……」
呆れ顔のヘーゼルも、フライドチキンへと手を伸ばした。
それは南部風の伝統的な製法で揚げられたもので、衣には粗挽きのブラックペッパーとパプリカが贅沢にまぶされている。
ヘーゼルが一口噛み締めると、驚くほど軽やかな衣が砕け、その中から閉じ込められていた熱い肉汁がジュワリと溢れ出した。
「美味しい……。外はこんなにカリカリなのに、中は驚くほどジューシーです。……こんなに美味しいものを食べたのは、いつ以来だろう」
「でしょ? それにこの特製コールスローを見て。ビネガーのキレが絶妙なのよ。脂っこい肉の後に、この冷たくてシャキシャキした野菜を放り込む。この無限ループこそが、文明の勝利ってわけ」
アリアは傍らで結露を纏い、キンキンに冷えた白ワインをグラスに注いだ。カリフォルニア産の辛口。
グラスの中で揺れる液体は、水中照明の反射を拾って淡い黄金色に輝いている。
彼女はそれを一気に喉へ流し込んだ。
フルーティーな酸味が、口の中に残ったチーズの脂を鮮やかに洗い流し、次の一口への渇望を呼び覚ます。
「……ぷはぁ。これよ、これ。この一杯のために、死線を潜り抜けてるって言っても過言じゃないわ。ヘーゼル、あなたも飲みなさいよ」
ヘーゼルもおずおずと、自分用に選んだビールのプルタブを引き抜いた。
シュパッ、という小気味よい音。
グラスに注がれた黄金色の液体と、その上に乗るクリーミーな白い泡。
ヘーゼルはそれを一口、控えめに含んだ。
喉を通るホップの苦味が、先ほどまでのジャグジーの熱気に火照った身体を心地よく冷やしていく。
しかし、目の前の料理の物量に絶望を禁じ得ない彼女は少しだけむせてしまった。
「……アリアさん、こんなにたくさん、食べきれませんよ。ピザに、チキンに、このガーリックシュリンプまで……。これ、本当に一食分ですか?」
「アハハハ……出し過ぎちゃった。余ったら明日の朝食に冷めたまま食べるのが、これまた通なの。……あ、そうだ。食べながらでいいんだけど、ちょっと見てほしいものがあるのよ。あなたの『お父様の親友』にまつわる話」
アリアは口の端に付いたソースを無造作に指で拭うと、傍らに置いていた使い古しの革製ブリーフケースを引き寄せた。
そこから取り出されたのは、最新のホログラム・データではなく、アナログな紙の資料を丁寧に閉じた、彼女のオフライン・アーカイブ(誰にも見られない為の捜査記録)だ。
「本当はね、探偵には守秘義務ってやつがあるんだけど……。まあ、依頼主が死んじゃったんじゃ、時効みたいなものよね。半分は私の個人的な執着だし」
アリアは白ワインをもう一口煽り、少しだけ目を細めてファイルの一枚をめくった。
そこには、数枚の写真データがクリップされている。
それは隠し撮り特有の、少し粒子が粗い質感だった。
「実はね、私の『前の依頼人』。それがその、ワンさんだったのよ。ニューヨークであなたのお父様が頼れと言った、あの画商」
ヘーゼルがチキンを口に運ぶ手を、完全に止めた。
大きく見開かれた瞳が、アリアの手元、ファイルの中の写真に釘付けになる。
「ワンさんに頼まれてたのは、ある『失われた名画』の捜索。……結局、私の力不足で見つけられなかったんだけどね。スコーピオンが画廊を襲ったのも、恐らくはその絵が目当てだったはずよ。……ほら、これ。この人が、私に依頼してきた時のワンさんのスナップ。オーナー室のデスクに座ってた時のね。不遜な態度で、いかにも食えないオヤジって感じだったわ」
写真に写っているのは、重厚なマホガニーのデスクに座る仕立ての良いシルクのスーツを脂肪で膨らませた、中国系かロシア系に見える脂ぎった男。
オールバックに固め、仕立てのいいスリーピースのスーツを着こなした、いかにも「成功した、そして手段を選ばない強欲な画商」といった風貌の人物だった。
しかし、その写真を見た瞬間、ヘーゼルの顔から急速に血の気が引いていった。
手に持っていたチキンが、カサリと力なく紙皿の上に落ち、脂の跡を広げる。
「……どうしたの? そんなに驚かなくても。確かにちょっと人相は悪いし、暗黒街のボスって言われても信じるレベルだけど……」
アリアが茶化すように言った言葉を、ヘーゼルの震える声が遮った。
その声は、恐怖に凍りついていた。
「違う……。違います、アリアさん……。この人は、ワンさんじゃありません!」
サロンの空気が、一瞬にして凍りついた。
アリアはワイングラスをテーブルに置き、ヘーゼルの青ざめた顔を、焦点距離を調整して真っ直ぐに見据える。
その瞳には、一転して鋭い狩人の光が宿っていた。
「……何を言ってるの? この男は、ワン画廊のオーナー室に堂々と座って、私に高額の報酬を振り込み、正式に依頼をしてきたのよ? 名刺も、網膜認証ログも……まあ、私は行政みたいにデータから照合なんて出来ないけど………堂々と正真正銘の『主』としてそこにいた」
「いいえ、絶対に違います! 私は子供の頃から、何度もワンさんに会っています!」
ヘーゼルは身を乗り出し、震える指先で写真を激しく叩いた。
「父の親友だったワンさんは、もっと……もっと温和な、痩せている人です。中国系で、いつも使い古した眼鏡をかけていて、絵画の話をすると止まらなくなるような……。この写真の人は、体格も、骨格も、目つきも、何もかもが別人です! 偽物です、アリアさん!」
アリアの左目の虹彩が、無意識に高速で演算を開始する。
脳内に保存されていた「依頼人・ワン」との面談記録、その会話の癖、声紋、瞳の微細な動き……。
それら全てが、ヘーゼルの言葉という強力な証明によって、次々と「ワンを騙る偽者」へと書き換えられていく。
「……嘘でしょ。じゃあ、私がやり取りして、多額の着手金を払ったあの男は一体誰だったっていうの? 私は幽霊と契約してたわけ?」
「分かりません……。でも、本物のワンさんなら、私が会えば、真っ先に私を保護してくれたはずです。……アリアさん、あなたに依頼をしたその男は、ワンさんのフリをして…………何をしようとしていたの?」
アリアは背筋に、氷を直接流し込まれたような感覚を覚えた。
もし、ヘーゼルの言うことが真実なら。
自分が「名画」を探して街の裏側を駆けずり回っていた間、自分を意のままに操り、情報の末端へと誘導していたのは……「蠍」そのものだったのではないか?
『絵』を持っていたのが『ワン』だとして……口を割ろうとして失敗して殺してしまった?
『絵』を探すために雇ったのが私?
アリアは無言でワインボトルを掴むと、残っていた半分の中身を喉に叩き込んだ。
アルコールの熱が胃壁を焼くが、思考の底にある冷たさは消えない。
屈辱と、そして得体の知れない高揚感が混ざり合う。
「……そう言う事?偽物の依頼主、消された本物……ねぇ、ショックなことを言うかもしれない。本物のワンさんは、偽者のコイツに殺されたかも知れない。『絵』を追っていた彼らは、ワンさんの口を割らすのを失敗したのよ……そして、『絵』を探すために雇われたのが私……それは何のために?……偽物はその後殺されてる……それは組織による誅殺ね。失敗した者の末路ってわけ……まだ……まだ足りないわ。もう少しピース(情報の欠片)が必要かもでも、もう少しで繋がりそう。そう、この絵はなんなの?それが分かれば……」
ヘーゼルは首を振って俯きながら、「ごめんなさい、知らないんです。とにかく絵を手に入れろって父に言われただけなんです……」
アリアの電脳は「偽証率……99.47%」と赤い表示を網膜に貼り付けていた。
(話せない……信用されていない……?蠍から逃げているのは真実なのよね……今は少し待ってあげるわ、ヘーゼル……)
ピザの熱気はまだ残っていたが、二人の間の空気は冷めた不穏なものに少しずつ変貌していった。




