第28話 Off-grid(オフグリッド)
マリナ・デル・レイ、第12ドック。
そこは、統一国家の喧騒から物理的にも電子的にも切り離された、選ばれた者だけが許される静寂の聖域だった。
鏡面仕上げの白亜の巨体、イタリア製のラグジュアリー・クルーザー『エトワール・ド・メール』号が、岸壁の街灯を反射して鈍く光っている。
アリアが左目の虹彩で暗号化された電子キーをスキャンすると、重厚なハッチが無音で滑り開き、歓迎の意を示すように足元の間接照明が淡い琥珀色に灯った。
「さあ、入りなさいヘーゼル。楽しい逃亡生活の砦へようこそ」
船内に一歩足を踏み入れた瞬間、不快な潮の香りは消え、空調システムが吐き出す微かなシトラスと、高級なレザーシートの香りが鼻腔をくすぐる。
アリアは迷いのない足取りでメインサロンを横切り、螺旋階段を駆け上がってフライブリッジ(屋上デッキ)へとヘーゼルを促した。
そこには、ヘーゼルの想像を絶する光景が広がっていた。
夜の海原を一望できる開放的なデッキの中央。
大理石の縁取りがなされた巨大なジャグジー・バスタブが、主を待つように白く柔らかな湯気を立ち昇らせていたのだ。
水中照明が水をエメラルドグリーンに染め上げ、ゆらゆらと揺れる光の紋様が、天井のない夜空に向かって溶け出している。
「……まずは、この泥だらけの街の汚れを落としましょう。燃料補給の前にお風呂よ!これに入らなきゃ、潜伏生活は始まらないわ」
アリアは上機嫌で、肩にかけていたジャケットを無造作に放り出した。
S&W M649-Cリボルバーが入ったままのガーターホルスターを放り投げる。
続いてホルターネックの細い紐を躊躇なく解き、シャツと革のスカートを床に滑らせる。
露わになったのは、軍用プロトタイプ特有の、無駄のない筋肉と人工皮膚が織りなす機能美に満ちた肢体。
余程のプロが見なければ生身にしか見えない。
いつもは肩口や腰に刻まれたうっすらと輝くグリーンのハニカム紋様は今は消失している。
「ア、アリアさん!? なにを、何を……! いきなり脱ぐなんて……!」
ヘーゼルは顔面を沸騰したように真っ赤に染め、両手で目を覆った。
指の隙間から、困惑と羞恥が溢れ出している。
彼女のセンサーは、目の前の「美しくも儚さを感じさせる肢体」を捉え、ターゲットをロック・オンしていた。
「何をって、お風呂よ。さあ、あなたも脱ぎなさい。そのせっかく買った新しいスカート、濡らしたくないでしょ? ほら、早く脱いじゃって!」
「一人で……一人で入りたいです! 私は、こういうのは、その、慣れてなくて……誰かと一緒にお風呂なんて……ムリです!」
「ダメよ、これはチームビルディングの一環なんだから! 裸の付き合いって言葉、知らないの?」
アリアはケラケラと笑いながら、後ずさりして逃げようとするヘーゼルの細い肩をがっしりと掴んだ。
アリアの軍用駆動系が叩き出すトルクから逃れる術など、一般人のヘーゼルには万に一つもない。
抵抗も虚しく、ヘーゼルの水色のフレアスカートが、繊細なブラウスが、そしてレースの下着が、アリアの無慈悲かつ手際よい指先によって剥ぎ取られていく。
「やめて、アリアさん! 見ないで……恥ずかしい……っ!」
完全に裸にされたヘーゼルは、まるで凍える子鹿のように身を縮め、両腕で必死に胸元を隠した。
その肌は、磁器のように白く、そしてどこか不自然なほどに凹凸が少なく滑らかだった。
「いいから、飛び込みなさい! カウントダウンは無しよ!」
アリアはヘーゼルの背中をポンと押し、自分もろともジャグジーへとダイブした。
ザブーン、と盛大な水飛沫が上がり、海水から濾過されたばかりの温かな真水が二人を包み込む。
「ふぅ……サイコーじゃない、これ! デッキにバスタブなんて、設計者は天才ね。外洋まで見渡せるのに、物理的な遮蔽とセンサーとジャマーのおかげで覗き魔に遭う心配もゼロ。……まぁ、私を覗こうとしたら1km以内なら即ズドンだけど。あああ……気持ちいい……自由ってこういうことを言うのよ。……ねえ、ヘーゼル、そんなに角っこで縮こまってたら溺れるわよ?」
アリアは傍らのクーラーボックスからキンキンに冷えた白ワインを取り出し、手慣れた仕草で抜栓すると、ボトルのまま喉に流し込んだ。
対照的に、ヘーゼルはバスタブの隅、水中照明から一番遠い暗がりに身を寄せ、膝を抱えて肩まで湯に浸かっている。
湯気のせいか、それとも内部回路のオーバーヒートか、彼女の顔は耳の付け根からうなじまで朱に染まっていた。
「……あら、ヘーゼル。そんなに頑なに隠さなくてもいいじゃない。減るもんじゃないし、私たちはもう『戦友』でしょ?」
アリアは意地悪な笑みを浮かべ、ゆったりと水中を移動して距離を詰めると、ヘーゼルが頑なに胸元に置いていた腕を、強引に左右に引き剥がした。
「あっ……だめ……っ!」
露わになったのは、少女のそれにしては慎ましい膨らみ。
アリアは自分のそれなりにはある胸元とヘーゼルのそれを交互に見比べ、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ふふ、なるほどね。……あら、ヘーゼル。胸は結構、慎ましいのね。これは私の完勝、圧倒的な勝利だわ」
「……ううっ、最低です、アリアさん。……デリカシーの欠片もありません……」
ヘーゼルは泣き出しそうな、それでいてどこか安心しているような顔が混じったような複雑な声で呟き、顔をお湯の中に埋めた。
「いいじゃない、身軽で。戦闘の邪魔にならないし。……さて、ヘーゼル」
アリアはワインをもう一口煽り、エメラルド色の水面に反射する夜空へと視線を投げた。
声のトーンが、いたずら好きな姉から、冷徹な執行官のそれへとわずかに変化する。
「……その真っ赤な顔が少し冷めるまで、あなたの話を聞かせてくれない? 蠍に追われることになった、その『はじまり』の話を」
お湯から顔だけ出したヘーゼルは、自分もクーラーボックスからビールを一本取り出すと、控えめなペースで飲み始めた。
静かな波音と、ジャグジーの細かな気泡が弾ける音だけが響く中、ヘーゼルは震える声で語り始める。
「……ニューヨークの空港でした。ターミナルの隅、4番ゲートの前で待ち合わせをしていたんです。父の研究は蠍に狙われていたんです。だから……父と、母と、ジュニアハイスクールの弟。家族全員で、あの狂った街を離れるはずでした。でも……約束の時間を過ぎても、彼らは来ませんでした」
ヘーゼルの瞳に、湯気とは異なる透明な湿り気が宿り、頬を伝って水面に落ちる。
「父は、出発の数日前に私にこう言いました。『ヘーゼル、もし待ち合わせの時間までに私が来れなければ、それは私が殺されているということだ。その時は迷わず、ロスの友人のワンを頼れ』って。……空港の駐車場には、父が私のために用意してくれた車がありました。自動運転のナビには、あらかじめワンさんの画廊が登録されていたんです。私は、父の言葉通りにするしかありませんでした。後ろを振り返る余裕なんて、一秒もなかった」
アリアはワインを飲む手を止め、静かに耳を傾けた。
ヘーゼルは、ビールを少し多めに飲んで、少しむせた。
「必死に車を走らせて、ようやく辿り着いたワンさんの画廊には……無機質な黄色いテープが張られていました。警察の封鎖線。でも、調べ終わったのか、警察も居ないし、唯一頼らなきゃ行けないはずの場所が無くなったって思ったんです……。目の前が真っ暗になって、何を、誰を信じればいいのか分からなくなって……。近くのダイナーに駆け込んで、震える指でネットを必死に検索したんです。そこで……『アリア探偵事務所』の名前を見つけました」
ヘーゼルは涙を指で拭いながら、少しだけ顔を上げた。
「『何でもお任せ。サイボーグ案件得意です』。……その単純で、自信に満ちた言葉を見た瞬間、これしかないって思ったんです。フルサイボーグ(全身換装体)の、化け物みたいな私を、偏見なく助けてくれるのは、この人しかいないって。……藁にも縋る思いだったんです」
アリアは半分減った白ワインのボトルをデッキの縁に置き、ヘーゼルの青い髪に優しく手を置いた。
濡れた髪の感触は、驚くほど柔らかい。
「いい、ヘーゼル。あなたはもう一人じゃない。ワンさんは死んじゃったけど、その代わりに、世界で一番強くて美しい探偵と、うるさくてお節介な刑事局員が味方についたのよ。……蠍だろうが神様だろうが、この船のデッキに一歩も通させないわ。私があなたの『楯』になってあげる。終わったら……貴女さえ良ければ、『家族探し』の依頼も受けてあげるわよ?」
「……はい。……ありがとうございます、アリアさん。お願いすると思います」
ヘーゼルの涙は、アリアの『ヘーゼルより大きいバスト』に流れ続けていた。
ヘーゼルはようやく身体の強張りを解いた。
エメラルドグリーンにライトアップされた海水が、船体の周りで幻想的に揺れている。
アリアは夜空を見上げ、ふと、ロサンゼルスの澱んだ空気の中で再会を約束した男の、鋼鉄の右腕を思い出した。
(……あいつも今頃、どこかで壊れた肩を繋ぎ直してるのかしら。……ふん、あいつが望むなら、また会ってあげても良いんだけどね)
「さあ、しんみりした話はおしまい! お湯が冷める前に、しっかり温まりなさい。上がったら、リビングにピザとフライドチキンを並べて、パーティーを始めるわよ!」




