第27話 Ready, Deep Dive
カフェの窓を叩く午後の陽光が、アリアの網膜ディスプレイに警告ログを落とす。
視界の端で点滅するのは、クロエからの暗号化通信。
アリアは手にしていた白ワインの結露を指先でなぞりながら、思考の帯域を潜らせた。
しばらくは、二人で話をつめた。
「分かったわアリア。賢明な判断よ。私たちのセーフハウスを危険に晒すわけにはいかない。それに、表のホテルなんて、この状況じゃ自殺志願者の行く場所だわ。赤い蠍の毒針が、フロントの受付嬢に化けていないなんて保証、どこにもないもの」
クロエの声は、事務的でありながら親友を案じる温度を含んでいた。
「いいわ、お金は払えるのよね? その子……ヘーゼルだったかしら。彼女、移動と潜伏にいくらぐらい出せるの?」
アリアは対面に座るヘーゼルを盗み見た。
少女は青い髪を震わせ、祈るように両手を組んでいたが、スマホに数値を入れてアリアの電脳に送信する。
アリアはそのデータを見て驚愕しながらも、そのままクロエに返した。
「……オーケー、大したものね。それなら、私の友人のクルーザーが借りられそうよ。破格のお友達価格で月額3,000ドル」
「クルーザー? 贅沢ね。でも、海の上なら包囲網を敷くのは陸より難しい。……乗るわ。でも、安いわね……ゴキブリとか出ないよね?」
「バカね、アリア。分かったわ、これを見なさい」
「えー、何これ?データ?すご!乗員は最大で12名。でもしばらくは私とあなたの二人きり。メインデッキには広大なサロン(リビング)があって、パノラマウィンドウからはロスの夜景が一望できるわ。キャビン(寝室)は全部で4部屋。もちろん、私たちが使うのは一番奥のマスター・ステートルームよ。天蓋付きキングサイズのベッドに、リブートシステム付き!シルクのシーツ……何これクロエ……悪いことでもしてるの?」
「あのねぇ……私にだって『少しお金持ちのお友達』くらいいるわよ」
「すごいお友達ね!トイレは各個室に完備。そして肝心のお風呂だけど……。メインバスルームには、大理石張りのジャグジー付きバスタブがあるわ。高性能の逆浸透膜濾過システムが直結してるから、海水を汲み上げて無限に真水に変えられる。バブルバス用の入浴剤、絶対に買わなきゃダメね。」
アリアの驚愕は止まらない。
ヘーゼルはぽかんとしている。
「何これ!すごいキッチンよ。IHコンロにオーブン、大型の冷凍冷蔵庫……。あと、ワインセラーまで付いてるわ。私の『燃料』を冷やすには最適ね。最上階のフライブリッジ(屋上デッキ)には、屋外バーカウンターとバーベキューグリル、それに日光浴用のサンベッドがあるわ。夜はここで潮風に吹かれながら、贅沢に肉を焼きましょう。……あ、もちろん追っ手が来ないか私が常時監視してるから、安心して肉を食べてね。それでそれで!船体の周囲をエメラルドグリーンに照らし出し、幻想的な雰囲気を演出だって!何これ!私、口説かれちゃう……。船内どこにいてもコンサートホール並みの音質でジャズを楽しめる音響設備に、最新の横揺れ防止装置でシャンパングラスの表面すら揺らさない安定性よ。クロエ!私、このクルーザーに死ぬまで住むわ!」
「はいはい、喜んでもらえたようで良かったわ。決まりね。私は四日後に合流するわ。場所はマリナ・デル・レイの最奥、プライベート・ドックの12番。電子キーのアクセス権は30分後にあんたの左目に飛ばしておく。出航も接岸も単独で制御できるはずよ。操縦から全動力、ライフライン、全部AI自動制御だからね。アリア……友達のなんだから、壊さないでよね……」
「任せて!」
「ああ……心配だわ。ヘーゼルに伝えておいて。アリアの暴走と飲み過ぎを抑えてって」
「え?私が困ったちゃんみたいに聞こえるからやめてくれる?依頼白紙にされたら損害賠償ものよ!」
通信越しに、キーボードを叩く乾いた音が聞こえる。
クロエはクスクス笑いながら、声を和らげた。
「これから何日潜伏が必要かは分からない。少なくとも私が合流する四日分の買い物は必要ね……シャンプーとか服とか食料とか、必要なものは山ほどあるでしょう? まあ、分かっていると思うけど、言っておくわね。……武装なんて、水鉄砲も無いから」
アリアは思わず口角を上げた。
「えー、クロェエ、主砲ないの? 127mm陽電子速射砲くらい積んでてよ」
「おバカ……。あんた、海の上で戦争する気? 隠密性とラグジュアリーが売りなのよ。……じゃあ、後でね。通信終了」
脳内を占拠していた電子のノイズが消え、サンタモニカの潮騒が再び耳に戻ってきた。
アリアは一つ伸びをすると、不安げに自分を見つめるヘーゼルに不敵な笑みを向ける。
「決まりよ。今夜からは海の上。最高の『動く家』が手に入ったわ」
「海……ですか? 私、船なんて、そんな……」
「大丈夫。私がついてる。それより、ヘーゼル。まずは買い物ね。その薄汚れたデニム、脱ぎ捨てさせるわよ。……それからお風呂。あなた、その髪の色に合わせた服を着たら、もっと化けるわ」
アリアは獲物を見定めたハンターのような目で、ヘーゼルの華奢な体躯をスキャンした。
非戦闘用の、あまりにも繊細で滑らかな義体のライン。
「……あなた、可愛いからスカート穿かせたいな。フリルがついた、ひらひらしたやつ」
「え? ……ボク……いや、私は、スカートなんて穿いたことなくて。いつも動きやすい格好ばかりで……」
ヘーゼルは戸惑い、自分の細い脚を隠すように身を縮めた。
その初々しい反応が、アリアの「お節介焼き回路」を激しく刺激する。
「え? じゃあ決まり! 今日の買い物、服は全部スカートに決定! 異論は認めないわ。女の子が女の子の服を楽しむのは、生存戦略の一つなんだから」
「そ、そんな……」
「いいから。……さて、夕飯はどうしようかしら。本当なら豪華にデリバリーでも呼びたいところだけど……ダメね。クロエに『隠密性の欠片もない』って、一晩中説教されるわ。……仕方ない、スーパーで車に限界まで積み込むわよ。任せて、結構料理はしていたのよ。軍で……前線でだけど……」
二人はカフェを後にし、日差しを遮るようにアリアのSUVへと滑り込んだ。
この時代、マニュアル運転などは軍か警察にしか無い。
そのため、飲酒運転などは存在しないのだ。
サンタモニカの大通りにある、24時間営業の巨大なショッピング・モール。
アリアは迷いのない足取りでヘーゼルの手を引き、ブティックへと連れ込む。
「これ、似合うわ。これもいい。あ、こっちの透け感があるのも捨てがたいわね」
アリアの手元には、瞬く間にパステルカラーの布地が積み上がっていく。
ヘーゼルは試着室のカーテンの裏で、見たこともないレースの感触に指を震わせていた。
「アリアさん……これ、どうやって留めるんですか……?」
「貸しなさい。……ふふ、やっぱり思った通り。あなた、本当にお人形さんみたいよ」
着替えを終えたヘーゼルが、おずおずと姿を現す。
水色のフレアスカートが、彼女の青い髪と溶け合い、殺伐としたロスの風景からそこだけが切り取られたような、静謐な美しさを放っていた。
ヘーゼルは鏡に映る自分を、まるで別世界の住人を見るような目で見つめている。
「私……こんな格好……」
「自信を持ちなさい。蠍の連中だって、こんなお嬢様が軍用プロトタイプの隣で海風に吹かれているなんて思わないわ」
次に二人が向かったのは、食料品エリアだった。
アリアはカートを二台確保すると、保存の効く缶詰、真空パックされた最高級のステーキ肉だけで一週間分、大量のピザ、スナック菓子そして……。
「アリアさん、それ、お酒ですよね?」
「いいのよ。これは私の『燃料』。ワインが六本に、バーボンが二本。……あ、ビールのケースは3つで足りるかな?」
「燃料……多すぎませんか?」
「四日分よ。クロエが来るまでのね。さあ、次はあなたの好きなものを選びなさい。甘いものは? チョコとか、フルーツとか」
カートは山盛りになり、SUVの座席とトランクは限界まで膨れ上がった。
アリアは満足げにハッチを閉め、運転席に飛び乗る。
ヘーゼルは助手席で膝の上にピザを数枚乗せて、その上にフライドチキン入りのバケツを必死に抑えている。
「さあ、マリナ・デル・レイへ。……楽しいバカンスの始まりよ」
車は陽炎の立つアスファルトを滑り出した。
助手席で、新しいスカートの裾にピザが付かないか気にするヘーゼル。
その隣で、アリアは左目の虹彩に映し出されたクルーザーの電子キーを指先でなぞった。
武装は無い。
だが、ここには奪われた「日常」の欠片がある。
アリアはバックミラーに映る自分の顔が、カインとステーキを食べたあの夜以来、少しだけ柔らかくなっていることに気づき、慌てて視線を逸らした。
「……勘違いしないで。ただの、効率的なカモフラージュなんだから」
つい、その時を思い出したアリアが呟いた言葉は、加速するエンジンの音にかき消されていった。




