第25話 利用
『JOKER’S DINER』の分厚い自動ドアが、電子音と共に重々しく左右に分かれた。
刹那、ロサンゼルスの街を覆う、重たい湿り気を帯びた都会の夜風が店内に流れ込む。
硝煙と焦げたオイルの臭いを纏った三人は、その夜風を切り裂くようにして、ダイナーの澱んだ空気の中へと滑り込んだ。
店内には、ジュークボックスから流れる時代遅れの、掠れたジャズが低く漂っている。
それに混じって聞こえるのは、厚い鉄板の上で肉の塊が爆ぜる、暴力的なまでに官能的な音だ。
立ち昇る薪火の香りと醤油の焦げる匂いが、戦場から帰還した獣たちの鼻腔を容赦なく蹂躙した。
三人は、雨に濡れた窓際のボックス席に陣取った。
カインは深く腰を下ろし、音もなく右腕をテーブルに置く。
彼の左腕は、肘から先が物理的に消失していた。
強化チタンの断面は、タクティカル・ジャケットの袖で辛うじて隠されているが、微かな振動と共に漏れ出る火花が、戦いの苛烈さを無言で物語っている。
やがて、陶器の触れ合う音と共に、三人の前に「報酬」が並べられた。
アリアの前には、溢れんばかりのアボカドが乗った『アボカド・グレート・クラブ・ステーキ』。
その名の通り、蟹の身が豪奢に散らされている。
カインの前には、濃厚な脂の香りが猛る『アボカド・チーズ・ラム・ステーキ』。
そしてラズロの前には、東洋の刺激を凝縮した『ショウユ・ミソ・ワサビ・ステーキ』。
カインは、視界の端で踊る警告ログを見つめていた。
空腹はシステムを蝕んでいるが、彼にはもはや、肉を切り分ける左腕も、フォークを支える気力も残っていない。
ただ、立ち昇る芳醇な香りを肺の奥まで吸い込み、渇いた喉を鳴らすことしかできなかったのだ。
「……見てられないわね。あんた、そんな仏頂面してても、その腕じゃ一生食べられないでしょ」
アリアが、呆れたような、それでいてひどく柔らかな溜息を吐いた。
彼女は迷いのない手つきでカインの皿を引き寄せると、ナイフを滑らせた。優しい母のような手際で、巨大なラム肉を一口大に切り分ける。
そして、フォークで突き刺した肉の塊を、カインの唇へと運んだ。
「やめろ、アリア。……恥ずかしい真似をするな」
カインは声を低め、明確に拒絶した。
執行官という人種にとって、この様なことは、戦士としての誇りを根元から削り取られるに等しい。
だが、アリアの瞳には、そんな彼の矜持など一顧だにしない強固な意志が宿っていた。
「うるさいわね。あんたが一人で格闘してたら、夜が明けても終わらないでしょ? 効率の問題よ。ほら!早く食べなさいよ」
彼女は空いた左手で、結露した冷たいビールジョッキを掴むと、拒むカインの唇に強引に押し当てた。
冷徹なアルコールが喉を焼き、続いてアリアが運んできた熱い肉汁が口内を満たす。
アボカドの濃厚な脂、チーズの塩気、そして醤油ベースのソースが渾然一体となり、カインの舌に幸福感をもたらした。
もはや、反論する言葉など見つからない。
カインはやむなく口を開き、アリアの指先が触れそうな距離で、差し出される肉を喰らい続けた。
「……ハッ! お熱いねぇ、新婚さんよ! 地獄の底から這い上がってきた直後に、こんなラブラブな介助プレイを拝めるなんて、長生きはするもんだぜ!」
向かいの席で、ラズロがビールを煽りながら椅子をガタつかせて笑い転げた。
カインの眉間に深い皺が刻まれる。
彼は冷ややかな殺気を込めた視線を、相棒の喉元へと突き刺した。
「おい、ラズロ。……相棒の口の中に、今すぐ『ベヒーモス・バスター』の銃身を突っ込んでやろうか? 鉛の味なら、今すぐ無料で味見させてやるぞ」
その瞬間、店内の温度が氷点下まで下がった。
カインの脅しに合わせるように、アリアが頬を耳まで朱に染め、信じられないほどの純度の殺意でラズロを凝視したのだ。
「……ええ、そうね。私のこの子(オルトロスXM-213 "ORTHRUS" TRIPLE-LV)も、あんたのその汚い口の中に同時に叩き込んであげましょうか? 融解したチタンの味なんて、あんたの安っぽいジョークにはお似合いよ」
二人の声は、一分の狂いもなく完全にシンクロしていた。
あまりの息の合い方に、ラズロは笑い声を喉に詰まらせ、大慌てで両手を挙げた。
「オーケー、オーケー……! 降参だ! 勘弁してくれ、息が合いすぎていて鳥肌が立つぜ。あー怖い、怖い! 夫婦喧嘩に巻き込まれるのは御免だ!」
ラズロは愉快そうに、しかしどこか畏怖を込めた目で二人を見つめ、再び肉にかじりついた。
カインは小さく鼻を鳴らし、再びアリアが差し出してきたポテトを口にする。
アリアの指先が、不意にカインの唇に触れ、はみ出したソースを拭った。
カインの胸の奥で、ジェネレーターとは異なる拍動が激しく刻まれる。
それはアリアの腕を通じ、彼女の繊細な回路にまで伝わっているはずだった。
「……悪くないじゃない……この店。また、来てあげてもいいわね」
アリアの独り言に、カインは不可思議な照れを隠すためにわざとらしく顔を背けた。
窓の外では、冷たい酸性雨がネオンの光を乱反射させながら降り続いている。
だが、このダイナーの四隅に漂う濃厚な熱量までは、決して消し去ることはできない。
三人の獣は、血の匂いを肉の香ばしさで洗い流しながら、壊れた世界にわずかに残された、柔らかな静寂を貪り続けた。
食事が終わりに近づく頃、カインはジョッキの底に残ったビールを見つめ、声を落とした。
それは報告ではなく、戦士たちの間にだけ許される、重苦しい「吐露」だった。
「『赤い聖母』の件だ。……本部の情報筋によると、あの絵を執拗に追っているのは『赤い蠍』だ。あの、国家を裏から飼い慣らしている超巨大組織だよ。関われば、魂まで消される」
カインは自嘲気味に笑い、自分の左肩から漏れる火花を見つめた。
「笑える話だ。成り上がりを夢見た無能な小組織どもが、蠍を出し抜こうとして必死に『聖母』の影を追いかけてる」
カインは喉まで迫る乾いた笑いをビールで流し込んだ。
不意に、アリアの目の前にある脂ぎったテーブルへ、一枚の電子小切手が滑り込んだ。
それは、キャンサーという怪物を解体し、大量のCSのパーツ……その残骸を換金した血生臭い代価を、一セントの端数まで厳密に三等分したアリアの取り分だった。
時代遅れの装飾照明のオレンジ色の光が、アボカドの脂と食べ残しのソースで汚れた安っぽいプラスチック天板の上で、場違いなほどに温かに発光している。
「……何よ、これ。私、こんなの頼んでないわよ」
アリアは形の良い細い眉をひそめ、心底心外だと言わんばかりの声を絞り出した。
しかし、その言葉とは裏腹に、彼女の指先は吸い寄せられるように小切手を掴み取る。
その動きは、猛禽類のように迅速で、一度掴んだ獲物は離さないという、狩人としての剥き出しの生存本能が籠もっていた。
「……正当な取り分だ。後から『か弱い一般市民代表』から、『弾薬代』だの『ドレスのクリーニング代』だの、身に覚えのない請求書が本部に届いても困る。俺たちの安月給じゃあ、お前の贅沢なライフスタイルを支え切る前に破産しちまうからな」
ラズロが、飲み干したばかりのジョッキを高く掲げ、ニヤリと下卑た笑みを浮かべて言い放つ。
その軽薄な言葉の裏には、彼女を単なる民間人ではなく、死線を共にした「戦友」として、自分たちと同じ汚濁の中に立つ対等な存在として認めようとする、彼なりの不器用で、かつ最大限の敬意が混じっていた。
「……そうね。もらっておくわよ……返せって言われてももう無理だからね!」
「言うか!」
ラズロが笑いながら返す。
アリアは毒を吐くようにそう言い捨てると、小切手をドレスの隠しポケットへと滑り込ませた。
不意に手に入った予期せぬ収入に、彼女はわずかに口角を上げる。
カインは、そのやり取りを重い沈黙の中で見守っていた。
欠損した左肩の断裂面から、時折、青白い火花がチリ、と音を立てて爆ぜる。
彼は残された右手に持ったジョッキを、ゆっくりと、しかし巨大な重機を動かすような確かな重みを持って持ち上げた。
カインの無言の合図に応えるように、三人は再び静かに、しかし決然とジョッキをぶつけ合う。
鈍いガラスの衝撃音が、ジュークボックスから流れる、埃を被ったようなブルースの旋律に重なり、店内の澱んだ空気を微かに震わせた。
店内に差し込むネオンの光は、彼らの傷だらけの表情を複雑に影らせ、その肌に刻み込まれた硝煙と焦げたオイルの記憶を残酷に浮き彫りにする。
だが、その瞳の奥に宿る光は、魂を刈り取る死神のそれよりもなお深く、鋭く、そして一度狙いを定めたら決して逸らさない冷徹な捕食者のものだった。
「……これで、あんた達と一緒にいるのも終わりね……存外楽しかったわ」
アリアが、喉の奥から絞り出すような執念を込めて呟くと、カインは短く「ああ」とだけ応えた。
ラズロとカイン、そしてアリア……彼らの運命の交差はここで終わるはずだった。
窓の外では、降り止まない酸性雨がロサンゼルスの街を音もなく蝕み続け、ネオンの光を泥水の中に溶かしている。
東の空が、鉛色の雲の合間から毒々しいほどの薄紫色に染まり始めていた。
酸性雨の余韻が残るアスファルトを、アリアのブーツが乾いた音を立てて踏みしめる。
彼女は隠れ家の重厚な防弾扉を潜り抜けると、脱ぎ捨てたコートの重みと共に、張り詰めていた緊張の糸を床に落とした。
薄暗い部屋の奥から、クロエが音もなく歩み寄ってくる。
アリアのブルーのドレスの惨状を見れば、激戦を潜り抜けた事は一目瞭然であった。
「……お帰りなさい、アリア。随分と遅かったわね。で、収穫はあったの?」
アリアは返事をする代わりに、ソファへ深々と身を投げ出した。
全身の人工筋肉が悲鳴を上げ、リブート直前のシステムエラーが、視界の端をノイズで塗りつぶしていく。
「……ハズレよ。完全に踊らされた。あの『赤い聖女』なんて、ただの出来の悪い贋作。求めている『赤い聖母』の欠片も、そこには無かったわ」
「そう。やっぱり、一筋縄ではいかないわね」
「行政データベースで、来歴と化学成分を照合したわ。間違いなくゴミよ。骨折り損にも程があるわ」
その言葉を聞いた瞬間、クロエの動きが止まった。
彼女はアリアの傍らに立つと、信じられないものを見るような目で彼女を凝視した。
「……データベース? アリア、正気? 私たちにそんなアクセス権限はないはずよ。行政区の最深部にハッキングなんて、バレれば即、エクスキューショナーが飛んでくるわよ」
アリアはあけすけに肩をすくめ、視線を窓の外の不気味な紫色の空へ投げた。
「ああ、それね。別に私がリスクを冒したわけじゃないわ。今日会ったあのエクスキューショナー……カインっていうガラクタに照会させたのよ」
その名前が出た瞬間、クロエの表情が凍りついた。
そして、次の瞬間には呆れを通り越した「観察者の目」に変わる。クロエはアリアの横顔をじっと見つめ、小さく吹き出した。
「……ちょっと、アリア。あんた、鏡を見てきなさい。顔が、真っ赤よ」
アリアはギクリと肩を震わせた。反射的に自分の頬に触れる。
人工皮膚の感度設定が異常値を叩き出しているのか、それとも回路そのものが熱を帯びているのか。彼女は慌てて髪をかき上げ、視線を逸らした。
「ば、バカ言わないで! ちょっと食事をしただけよ。あんな無骨で、効率の悪い機械人形のせいで、私の回路が狂うわけないでしょ!」
「ガラクタ、ねぇ?」
クロエは面白がるように鼻を鳴らす。
「あんた、敵と何をしてたのよ。あんな修羅場の後で……まさか、デート?」
「……利用よ。あれは、完全な利用! あいつが腕を失くして、ステーキをぼろぼろこぼしながら食べる姿があまりに手がかかるから、つい『手伝って』あげただけよ。……ちょっと優しくしてやっただけで、私の色気に当てられたのか、あの男、自分の戦術ログから内部情報までペラペラと喋りやがったわ。全ては、任務遂行のための『コスト』よ」
アリアは自分自身に言い聞かせるように、早口でまくし立てた。
しかし、その声は隠しようもなく上ずっている。
「……まあ、それで得た情報よ。どうやら『赤い蠍』が本物の『赤い聖母』を探しているっていう噂を、意図的に流したみたい。蠍が撒いた餌よ。成り上がり共がそれに踊らされて、偽物を奪い合っている。私たちも、その『釣り場』で泳がされていた一人ってわけ」
クロエは深い溜息をつき、部屋の照明を落とした。
「……蠍が本気で動き出しているなら、事態は一気に悪化するわね。何としても、あの巨大組織に先駆けて、私たちが本物を手に入れるわよ。アリア」
「ええ……もちろんよ。でも、今は疲れたわ……完全に振り出しに戻ったし……少し寝かせて。リブートさせて……ああ、もう。あいつのせいで、ビールまで飲みすぎちゃったわ」
アリアはソファに深く沈み込み、重い瞼を閉じた。
クロエが部屋を出ていく気配を感じながら、彼女は意識をシャットダウンの闇へと移行させる。
瞼の裏に浮かぶのは、不器用に肉を頬張り、その荒々しい銃身で自分を守った男の横顔。
唇に残る、醤油の香ばしさと、鋼鉄の守護者が隣にいた時の、あの得体の知れない安心感。
「……勘違いしないで。全部、任務のためよ。……そう、ただの効率化」
誰にも聞こえない独り言を呟き、アリアは完全なリブート状態へ入った。
明日にはまた、蠍の影が渦巻く地獄へ戻らなければならない。
だが、今は少しだけ、あの男が彼女の回路に残した温もりを、凍てつく闇の中で大事に抱きしめていたかった。




