第19話 夜会の前
ロサンゼルスの裏通り、湿った夜風がゴミ溜めの酸っぱい臭いを運んでくる場所に、その店はあった。
高級ブティック『ル・ミエル』。
重厚なマホガニーの木製扉が開き、カインとラズロが店内に足を踏み入れた瞬間、店内の空気がピリリと張り詰めた。
並べられた最新のデザイナーズスーツは、どれもこれも軟弱な連中のための布切れにすぎない。
カインが眉をひそめ、無骨な指でラックを滑らせる。
「……既製品か。俺たちの体格じゃ、無理じゃないか?オーダーなんて間に合うのか?」
カインが低く唸るように言い、ハンガーラックを物色していたその時だった。
奥の試着室から、軽やかな衣擦れの音と共に、鮮やかなブルーのドレスを纏ったアリアが飛び出してきた。
彼女は鏡の前で一回転し、スリットの深さとシルエットを確認していたが、背後の気配に気づいてピタリと動きを止めた。
店内にいた三人の目が合う。
次の瞬間、アリアの瞳に宿っていた優雅な色は消え失せ、戦士特有の鋭い警戒心が宿った。
彼女は反射的に右腕を自然な角度で体のラインに添わせ、生体外装の下に格納されたレーザーバルカンの安全装置を、電脳で再確認する。
その動きは誰にも気づかれることはない。
「……あんたたち、こんなところで何をしているの?」
アリアの声には、冷ややかな響きが混じっていた。
「それはこちらのセリフだ。場違いなところに来たもんだな、アリア」
カインが眉間に深い皺を刻み、不愉快そうにネクタイの束を握りしめる。
二人の視線は、互いの「獲物」が何であるかを無言のうちに探り合っていた。
アリアは、目の前の二人がタキシードを手に取っていることで即座に結論を出す。
(潜入任務……。あの二人、どこから情報を嗅ぎつけたの?)
アリアは心の中で警報を鳴らしつつ、表面上はあくまで冷淡に笑った。
「あら、ただの買い物よ。この街には、あなたたちみたいに『お忍びで何かを探している』ような物好きが多いみたいね。……だけど、悪いことは言わないわ。今夜のこの街は、あなたたちが首を突っ込むには少しばかり『熱すぎる』わよ」
突然、カインの網膜上にポップアップメッセージが表示される。
アンバーからのものだった。添付された自撮り画像には、見知らぬ男と唇を重ねる彼女の姿がある。
(後頭部しか写ってないが、この肩章!海軍大佐だと……?こんなに若くして?)
『もう、あなたとのボーイフレンドごっこは終わり。彼ができたの。今の私には、あなたよりずっと優しい人がいるのよ』
カインの動きが、ほんの数ミリ秒だけ遅れた。
そのわずかな「硬直」を、ラズロは見逃さなかった。
ラズロはカインの網膜ログを共有し、内容を理解した途端、声を殺して肩を震わせ始めた。
「ハッハッハッハ!見ろよカイン、お前の『お守り役』が随分と派手な乗り換えだな!」
ラズロの腹を抱えた嘲笑が、静まり返ったブティックに響き渡る。
その笑い声を聞き、鏡の前にいたアリアが訝しげに振り返った。
「……何よ、その笑い方は。一体何があったの?」
アリアは二人のただならぬ空気に、戦士特有の鋭い警戒心を宿して近づいてくる。
ラズロはニヤニヤしながら、メッセージを共有してカインの網膜ログをあからさまに指差した。
「……何よ、あんたたち。人のメッセージログを覗き見るとか、趣味が悪すぎるわね」
アリアの問いかけに、ラズロはニヤニヤと悪趣味な笑みを浮かべて答えた。
「ああ、悪いな。こいつの可愛い『お守り役』から届いた別れの挨拶だよ。……アリア、誤解がないように言っておくが、こいつにとってアンバーってのは、『仮の彼女』みたいなもんだ。まぁ、いわゆる暇つぶしのボーイフレンドごっこってやつさ」
ラズロは肩をすくめ、カインを一瞥する。
「残念ながら、あの手の純粋な人間は、エクスキューショナーなんていうものが珍しくて仕方がないのさ。休みのたびにボーイフレンドごっこをしていたんだが……本命ができたら用済みになったらしい。要は、捨てられたのさ」
「見ろよアリア。この無骨な執行官様の顔を。
さっきまでアップルパイを分け合ってた『大事な人』からの、ボーイフレンドごっこ終了の宣告は存外ショックだったらしい」
ラズロの言葉に、カインの拳が力なく握りしめられる。
「やめろ、ラズロ。アリアに変なこと吹き込むな。それにアンバーは勝手に俺について来るだけのガキだ。もともと俺は興味はない」
アリアは呆気にとられたような表情でカインを見上げ、次いで共有された網膜ログを読み取った。
一瞬の静寂の後、彼女の口元に、冷笑とも哀れみともつかない歪な笑みが浮かぶ。
「……そっか。フリーなのね、カイン」
アリアはドレスのスリットを翻し、カインの目の前まで歩み寄った。
華やかな香水の香りと、人工皮膚が放つサイバネティクス特有の微かな熱が、カインの鼻腔を突く。
彼女の右腕はドレスのシルエットを崩さず、完璧な「ドレスを纏った生身の美女」の一部に徹していたが、その瞳にはかつてないほどの好奇心が宿っていた。
アリアは、右手を軽くカインの胸に当てる。
傍目には、夜会服を纏った美女に触れられる幸運な男にしか見えないだろう。
だが、その腕がコンマ数秒で変形すれば毎分一二〇〇発のレーザーバルカンに変わることを知るカインにとっては、それは死の宣告に等しかった。
「脅しに来たのか?」
「忠告よ。いい男って、往々にして墓穴を掘るのが早いものだから」
アリアは冷たい笑みを浮かべ、カインの横をすり抜けるように歩き出した。
彼女は自分が「オークションに行く」などと一言も口にしていないし、カインもまた、二人が何のためにここにいるのかを明かす気配など毛頭ない。
互いが互いの目的を知りながら、あえてそれを口にせず、ただ「障害」としての存在を互いに認識する――それは、プロフェッショナル同士の無言の牽制だった。
アリアの笑顔、それは良い男であるカインに向けた興味なのか、「同じ獲物を追う敵」と認識した上でのターゲットに向けたものなのか。
「行くわよ。……次は、もっと静かな場所で会いましょう。あなたがたが死体として見つかる前にね」
アリアは右手を清算用ポールに翳すと、二人の返答など待たずに店を飛び出していった。
店内に取り残されたカインとラズロは、沈黙の中で互いの顔を見合わせる。
「……あの女、やはりただの探偵なんてものじゃないな」
「ああ。……だが、口を割るはずもない。あの『警告』、どう受け取る?」
「無視だ。あいつらも同じ場所にいるなら、先に獲物を確保するだけだ」
カインは店員から受け取ったサイズが微妙に合わない無難なタキシードを手に、フィッティングルームへ向かう。
アリアの右腕に眠る『最大の隠し武器』の存在が脅威である。
油断すればエクスキューショナー二人とは言え、1.658秒で消し飛ばされる計算だ。
捜査を優先する今、無駄に敵対するわけにはいかなかった。
綺麗なはずの三日月は、汚い夜雲に隠されつつある。
ただ、同じ夜、同じターゲットを狙うライバルとして、四人の運命は静かに、そして確実に収束していく。
夜のロサンゼルスに響くのは、争いではなく、獲物を狙う獣たちの息遣いだけだった。
店を出て、ネオンが雨に濡れ始めたアスファルトを反射する夜のロサンゼルス。
アリアが冷たい夜風を頬に受けながら歩いていると、網膜の隅で電子的なパルスが弾け、クロエからの暗号化されたメッセージが展開された。
『頼んだわよ。絵の奪取が至上任務よ。邪魔者は消してちょうだい』
短く、しかし冷徹な指示。
アリアはわずかに口角を上げ、右手の生体外装の下にある『オルトロス』の出力を微調整した。
ドレスの深淵なるスリットから覗く足の駆動系が、高周波の駆動音を立てて獲物を狩る準備を整える。
「消す、か……」
アリアは独りごちた。
彼女の脳裏には、先ほどブティックで交錯したカインとラズロの姿が焼き付いている。
タキシードという慣れない武装に身を包んだ、あの無骨な執行官たち。
彼らが『赤い聖母』の行方を追っていることは明白だった。
(あの二人が邪魔者になるのね、クロエ……)
アリアは路地裏の影に身を潜め、ドレスの裾を整えながら通信リンクを起動する。
彼女の瞳は、もはや獲物を探す暗殺者のそれへと変貌していた。
「……了解よ。絵は私のもの。邪魔話をするならすべて処理するわ」
彼女は静かに、しかし確かな殺意を込めてそう呟くと、再びオークション会場へ向けて加速した。
一方、ブティック『ル・ミエル』の試着室から出てきたカインは、再び襟元を正していた。
ラズロが鏡越しにカインを冷笑する。
「おい、カイン。いつまで選んでやがる。あの女――アリアとか言ったな。あいつの瞳、獲物を見る目だったぜ。お前を『色男』としては見てくれなかったらしい。残念だな」
「おい、ラズロ……」
「怒るなカイン……しかしな、俺たちの事を『排除すべき対象』としては見てやがる」
「……わかっている」
カインは鏡の中の無機質な自分を見つめ、腰に下げた『ベヒーモス』の感触を確かめた。
彼の網膜には、今も先ほどのアンバーの画像が焼き付いている。
必要のないデータのはずだが、カインの頭に警鐘が鳴り響いている……。
(大学生のアンバーの彼氏が若い陸軍大佐……何か、この男何かおかしい気がする)
アンバーの笑顔のキス自撮り写真は、カインの電脳の隅、「参考ファイル」に概要と共に圧縮保存された。
「まずは絵だ。見つけて鑑識にかければ一気に解決するかもしれん。邪魔をするなら、それがアリアだろうが誰だろうが、叩き潰す」
「ひゅー、その意気だ。さあ、最高のタキシードで『死の舞踏会』へのお出ましといこうぜ」
ラズロは皮肉っぽく肩をすくめ、カインと共に店の外へ出た。漆黒のリムジンが彼らを待っている。
オークション会場となる地下の広間では、すでに『赤い聖母』を巡る争奪戦の準備が整っていた。
カインとラズロ、そしてアリア。
三人の獣たちが、それぞれの思惑を隠したまま、同じ一点を見据えて動き出している。
今夜、ロサンゼルスの地下オークションで流れるのは、芸術ではない。




