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第16話 後悔

 クロエが重厚な真鍮の鍵を回すと、エントランスのオーク材の扉が静かに開いた。

 そのヴィラは、一歩足を踏み入れるとロサンゼルス特有の湿った喧騒は完全に遮断され、代わりに洗練された静寂が部屋を満たしていた。


 そこは、天井から優美なシャンデリアが下がる、古き良き時代のサロンを彷彿とさせる空間だった。

 床には上品な深紅のベルベットが敷き詰められているが、埃一つなく、新品特有の整然とした空気が漂っている。


 アリアがさらに奥へと歩を進め、磨き込まれたフレンチドアを開け放つと、そこにはこの街の喧騒から隔絶された、完璧なプライベート空間が広がっていた。

 月明かりを反射する巨大なプールが、邸宅のすぐ脇に静かに水を湛えている。

 水面は鏡のように淀みなく、周囲を囲む高い石壁が、この一戸建てが持つ完全な秘匿性を強調していた。

 プールサイドにはウリン木材のタイルが敷き詰められているが、まだ一度も濡れた形跡はない。


 借りたばかりの場所らしく、豪華ではあったが、まだ人間が空間を支配しきる直前の、研ぎ澄まされた静寂だけが満ちていた。


 アリアは新しい隠れ家を見て、少し驚きながらこう言った。

「……ここも随分と豪華ね。本当にUSCIBの管理物件なの? 随分と、趣味が良い職場というか……」


 クロエは冷たく、それでいてどこか誇らしげに答える。

「……職場のよ。USCIBのチーフには、高度な機密を扱うための安全圏 (セーフハウス)を確保する権限があるの。……アリア、あなたが軍の機密に触れた以上、ここを正式な『捜査拠点』として認可させたわ。これなら、軍も容易には手を出せない」


「ああ、それなら納得ね。クロエが自分の権限をフル活用して守ってくれてるってわけね」


「アリア、少し座りなさい」


 クロエは静かに命じると、自ら注いだミネラルウォーターをアリアの前に置いた。


「……気持ちは分かるわ。あの画廊で得た手がかりが、軍の機密に直結していると確信したのよね。あなたのその正義感、そして真相を追い求める探究心……私はそれを尊重しているし、何より愛しているわ」


 クロエは一度言葉を切り、アリアの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 彼女の美しい眼鏡の奥で、アリアの神経回路を逆なでするような冷徹な光が揺れる。


「けれど、私のIDを使って軍のメインDBにアクセスするのは、これが最後よ。分かっている? あれはただのハッキングじゃない。私という人間の『権限』と『経歴』そのものを、軍の監視システムという名の炎の中に投げ込む行為だったの」


 クロエはアリアの手を優しく、しかし逃げることはできないほどの強さで握り込んだ。


「あなたの存在がバレることは、今の私にとって最も避けたい事態よ。私がどれだけあなたを守りたくても、ルールという盾を捨ててしまえば、軍や警察の監視の目からあなたを隠し通すことはできない。……私を信じて、これからは私の指示なしに勝手な照会はしないで。あなたのその『最強の力』は、私の合図があって初めて、真に悪を粉砕するための武器になるのよ」


 アリアがバツが悪そうに視線を逸らすと、クロエはふっと表情を和らげ、ため息交じりに付け加えた。


「……今回のことは、チーフとしての権限で『システム・エラーによる誤作動』として処理し、ログを焼き切っておいたわ。それでもアクセスしたパソコンくらいは見に来るかもしれない……。引っ越す前の家にね。だから、次はそうはいかない。いい? あなたは私の大切な『パートナー』なの。だからこそ、二度とあんな危険な橋は渡らせないし、渡らせないで」


 クロエの言葉の重みに、アリアは自分のサイバネティクス・フレームが軋むような感覚を覚えた。

 自分がクロエを危険に晒したという事実は、どれほど高性能な演算装置でも否定できない「最大のミス」だった。


 アリアは、高級なペルシャ絨毯に視線を落とし、小さく肩をすぼめた。


「……ごめんなさい、クロエ」


 さっきまでの軍の機密を暴いた冷徹な探偵の顔は消え失せ、その場には、ただクロエに叱られたことにひどく動揺し、シュンとしている一人の少女が立っていた。


 彼女は、少しだけ俯いたまま、袖口をきゅっと掴む。


「……計算では、そこまで深く追跡されることはないって出ていたの。クロエの権限の強さを、少しだけ……過信していたわ。私のせいでクロエが軍から睨まれるなんて……そんなの、最悪よ」


 アリアは、ゆっくりと顔を上げた。

 瞳の奥で明滅していた幾何学模様は消え、濡れたような潤みを帯びた、人間らしい瞳がクロエを見つめる。


「……怒っているのよね。当然よ。私のために、クロエが築いてきたキャリアまでリスクに晒すなんて、本当に身勝手だったわ」


 彼女は一歩だけクロエに近づき、その裾を指先で控えめに摘まんだ。

 強気な兵士としてのプライドはどこへやら、その仕草はどこか怯えた小動物のようであった。


「……もう、しないわ。これからはちゃんと、クロエと相談する。ねえ、クロエ……? その……私のこと、嫌いになった?」


 いつもの自信満々で「最強の兵士」然とした態度は影を潜め、アリアはクロエの表情を窺うように、心細げに眉尻を下げた。


「……私、クロエの役に立ちたいだけなの。クロエの邪魔をしたいわけじゃないのよ。……だから、お願いだから……もう一度だけ、私のことを見てて」


 アリアはそう言うと、クロエの返事を待つ間、不安げに唇を噛み締めた。

 まるで、自分が愛されているかを確認するために甘える子供のような、無防備でしおらしい姿であった。


「……今度からは、もっと賢い方法で『掃除』するから。クロエが指示してくれるなら、私、どんなに汚い仕事でも……クロエのために、全部完璧に終わらせてみせるわ」

 クロエは無言で、しおらしくなった最強の親友を優しく抱きしめるのだった。

 

 暗い雨が降り始めた。

 モーテルに戻ったカインがベッドの上から相棒に疑問を投げかける。

「……ラザロ、さっきの……画廊の女……あれはただの軍用試作品じゃないな。あの『アリア』という女……脱走兵なら『イリーガル』で『処分』されるはずだ」

 カインは汚れたテーブルの上に、アリアの戦闘ログをホログラムで展開した。

 そこには、軍用規格を凌駕する反応速度と、個人の範疇を超えた空間制圧能力が記録されている。

「相棒、言いたいことはわかる。あの女の『オルトロス』、コードに何ら問題はない。普通、除隊した時点で『武装封印』どころか、脳の海馬領域にある軍属時の記憶までデリートだ。それなのに、あいつの神経系は軍の暗部そのものを保持して、なおも『兵器としての性能』を維持している」

 

 ラザロはケルベロスのレシーバーを組み上げながら、殺意を隠そうともしない目でカインを見た。

「あの女はニューヨークでの事件……いや、どう繋がるかは分からんな」


「ああ。もしあの女が今回の闇オークションと、俺たちが追っているNYの事件に直接関与しているなら……迷いは無用だ。現場で確保し、尋問する。あいつが持っている『けしからん物 (オルトロス)』も、記憶も、全てあいつの脳死と共に初期化させる」


 アリアは冷め切ったコーヒーをじっと見つめていた。

 その瞳の奥には、彼女自身の意志とは無関係に明滅する戦術グリッドが走っている。

「……彼らはわかっているわ、クロエ。私が『脱走兵』じゃないことを。あいつらは現場で私の戦術ログを解析したはずよ。正規の軍属なら、除隊時に海馬の制御パーツを物理的に取り出し、ノーマル (体内兵器制御が不可能なパーツ)へ換装するが軍のルール。それを回避して、今も兵器としての能力を持ち続けている私を見て、彼らが何を考えるか……。警察官としての嗅覚で、私を『排除すべき悪』だと断定するかもしれない」

 彼女は、まるで自分の体ではないかのように、生体パーツに包まれているチタン合金の指先を力なく見つめた。

 その指はしなやかで、若い女性の指そのものであった。


「私の人生は、あの特務機関に配属されたあの日、終わったの。昇進だと言われて、喜んで、浮かれていた――気がついたときには、この体はフルサイボーグの残骸になっていたわ。脳には軍のプロトコルが直結され、感情さえも演算コードという『檻』の中で監視される。……普通に恋をして、普通に老いていく。そんな当たり前の人間としての最後の一生を、私は寝て起きた朝に奪われていたのよ。アリアなんて名前……それすら、本物かどうかも分からない」


 クロエはアリアの震える指に、そっと手を重ねた。

 アリアの手は生体パーツで包まれており、クロエの皮膚からは、体温と同じ確かな温もりを感じることができた。


「あなたがASIとA-ATSを解除してくれた……おかげで、ようやく私は私に戻れたわ。でも、軍は今も『若い娘を兵器として仕立て、用が済めば消去する』という、吐き気を催す過ちを繰り返している……私は公式記録上『戦死』したことになっているけれど……いつか必ず、全てを暴いて見せるわ。それが白日の下に晒されれば、大臣の首一つでは済まないでしょうね」


 アリアは言葉を切り、人工の眼球に涙を溢れさせ鋭く街角を見やった。

 そこには、彼女を追い詰める「死神」たちの気配が、どこかに……しかし確かに存在している。


「あいつらは……あのエクスキューショナーたちは、私のことをただの『兵器の残骸』としか見ていない。……だから、利用するわ。彼らが軍のロンダリングルートを掘り起こすなら、私はその隙に軍の暗部を抉り出し、私という人間を殺した元凶を叩き潰す。全てを白日の下に晒してやるの。そして――それが終わった暁には、あの『死神』たちにも、私という存在が何だったのか、骨の髄まで思い知らせてあげる。彼らのその硬直した正義も、人ならざる冷たい心も……私の手で、残らず消し去ってやるわ」


 窓の外ではロサンゼルスの冷たい風雨がヴィラのガラスを叩いている。

 自分の腕に組み込まれた関節パーツを無意識になぞっていた。

 思考の奥底で、カインが腰に帯びたあの重厚な鉄の塊――『ベヒーモス』の記憶がフラッシュバックする。


「……ねえ、クロエ」


 アリアは静かに口を開いた。

 その瞳には、かつてないほどの警戒色が灯っている。


「もし、カインとラズロを消す日が来ても……あの『ベヒーモス』には、本当に気をつけて。奴らと対峙する時は、絶対に戦場に出て来ないで」


 アリアが切実な思いを吐露する横で、クロエは優雅にフォークを動かしていた。

 皿の上には、見るからに化学染料の毒々しさを放つ、鮮やかな紫色の生クリームが山盛りにされたパンケーキがある。

 クロエはそれを一欠片、妖艶な笑みを浮かべて口へ運んだ。


「……あんなの、銃じゃないわ。とんでもない『死の化身』よ。20ミリの巨弾をボルトアクションで撃ち出すなんて、狂気の沙汰だわ。弾道計算も回避行動も、あの火力の前では無意味。掠めただけで私の装甲は引き裂かれ、どこに食らっても致命傷よ。直撃すれば、私の存在そのものがこの世から霧散する……そんな理不尽な火力を、あの男は平然と持ち歩いているのよ」


 アリアの指先が微かに震える。

 しかしクロエは、口元についた紫色のクリームをナプキンで優雅に拭いながら、どこか上の空といった風情で頷いた。


「計算すればするほど、あの銃の恐ろしさが浮き彫りになるわ。だから、約束して。あの怪獣を前にしたら、私が引きつけるから……生体のあなたじゃ消し飛んで跡形も残らない……」


 アリアが縋るように見つめると、クロエはようやくパンケーキから視線を外し、アリアに向き直った。

 その瞳には、すべてを掌握している者の冷徹な余裕が宿っている。


「……心配しなくていいわ。カインのベヒーモスがどれほど脅威でも、その銃を振るう男の『人の心』を読むのは得意だもの。私のIQ知っているでしょう?あなたがあの怪物と対峙する時、私は『グラム・レイ』でしっかり援護してあげるわ。でも、2kmは離れないと危ないかしらね」


 クロエは紫色のクリームが溶け残ったフォークを置き、アリアの頬を優しく撫でた。


「あなたが動くその先には、必ず私の援護があるわ。だから安心して。あなたが最強の兵士であるなら、私も狙撃手としては中々のものよ?」


「知ってる……」

 クロエの確信に満ちた言葉に、アリアは安堵の溜息をつく。

 クロエが自分と共に戦場をコントロールしてくれる――。

 その事実だけで、アリアの心に溜まっていた恐怖という名のエラーは、静かに消し去られていった。

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