第118話 南国の風
夏の太陽の光すら届かない、漆黒の太平洋の底。
水圧と静寂に支配された深く冷たい海溝から、突如として海面が大きく盛り上がり、白い飛沫を高く噴き上げながら統一国家海軍の最新鋭・陽電子潜水艦が浮上した。
分厚い雲を切り裂き、その上空にはすでにUPL警護役独立憲兵隊の漆黒の輸送ヘリ『ヴェノム・ワイバーン』が、時折グレーに見える機体をホバリングして待機している。
ローターが空気を叩き切る轟音が海面を激しく打ち据える中、潜水艦の重厚なハッチが開いた。
吹き込む潮風の中へ姿を現したメンバーたちの頭上に、ヘリの機腹から見えない磁力の柱が真っ直ぐに降り注ぐ。
G-Control Stabilizer(ヘリピックアップ用重力制御器具)の起動である。
光の柱に包まれた瞬間、身体から重力という名の鎖がふわりと抜け落ちた。
ウインチもワイヤーも必要としない。
メンバーたちは、まるで透明なエレベーターに乗せられたかのように、次々と空中を静かに浮上してヘリの機内へと吸い込まれていった。
ヴェノム・ワイバーンの機内。
軍用ヘリ特有の硬く冷たいシートに腰を下ろしてもなお、ほのかの頭はぽぉっと熱を帯びたままだった。
先ほど、潜水艦のラウンジで聞かされたばかりの、ランとコンラートの不器用で……そして情熱的なパリでの愛の告白。
(あんな風に、涙を流しながら本心をぶつけてくれるなんて……本当にロマンチックです……! 私もいつか、あんな風に誰かに強く求められる時が来ないかな……カインさん……)
その甘美な余韻が、少女の胸を激しく高鳴らせ、頬を桜色に染め上げていたのである。
ふと、ほのかは視界の端で、向かいのシートに深く身を預けているカインの姿を追った。
カインはいつも通り腕を深く組み、いかついサングラスをかけて微動だにしない。
そのため、レンズの奥で彼がどんな目をしているのか、表情を窺い知ることはできない。
しかしながら、先ほど見せた、どこかひどく沈み込むような、深い悲哀と孤独を纏ったあの気配が、ほのかの胸をチクリと締め付けた。
(カインさん……。コンラートさんとランさんの幸せそうなお話を聞いて、きっと、死んでしまったアリアさんのことを思い出していたんですね……)
ほのかは心の中で、そっと切ない息を吐き出す。
(カインさん……まだ、アリアさんの背中を追い続けているんだ。どんなに強くて冷静でも……心の中はあんなに傷ついていて……私が、その悲しみを癒やして、笑顔にしてあげられたらいいのに……)
切実な恋心を胸に抱くほのかには、想像もつかないのだ。
死んだはずのアリアの魂が、今もカインの電脳の奥深くに生き続けていることなど。
そして、「アリス」という本当の名前を取り戻し、軍に消された過去の記憶すらも日々取り戻しながら、カインと文字通り「一心同体」の愛を育んでいるという事実を。
ましてや今この瞬間も、悲哀に沈んでいるとばかり思っていたカインの電脳内で、アリスが『パラワンに着いたら絶対にトロピカルドリンク飲むんだから! 飲むわよ、カイン!』とはしゃぎ回り、カインがやれやれと苦笑しながら相槌を打っているという、世の理を超えた狂気のコメディが繰り広げられていることなど、知る由もなかった。
しかし、そんな真実を知らない今のほのかにとって、カインを巡る最大のライバルは、亡きアリアではなかった。
別ルートで、アイルランドへと向かっている重武装のゴスロリ少女――ミリアである。
ヘリの一定の振動に揺られながら、ほのかの記憶は、少し前のヴィラでの出来事へと遡っていった。
あの日……。
いつものようにフリフリの愛らしいロリータ・ドレスを着たミリアは、ほのかの部屋のソファに向かい合って座り、紅茶のカップをコトリと置くと、真っ直ぐで誤魔化しのない瞳を向けてきたのだ。
「ほのか。私ね……宣言しておくわ。……私、カインさんのことが好き。結婚だってしたいの」
その言葉を聞いた瞬間、ほのかの心臓は大きく跳ね、頭の中が真っ白になった。
けれど、ほのかとミリアの間に育まれた固い友情が、そんなことでひび割れるようなことは決してなかった。
ほのかはカップを握りしめ、ミリアの目を真っ直ぐに見返したのだ。
「ミリー………私だって負けない。カインさんは、私がもらうんだから!」
親友への、堂々たる宣戦布告。
そこまでは、まるでドラマのワンシーンのように美しく、緊迫感のあるライバル宣言だった。
問題は、恋愛経験が皆無である少女二人が、その後に出した結論である。
どうしてそうなったのか、今思い返してもほのかもミリアもよく分かっていなかった。
「ライバル宣言したからには、お互いに抜け駆けができないように、徹底的な監視が必要よね!」
「ええ、望むところだわ! だったら、いっそ同じ家で一緒に住みましょう! 24時間監視体制で!」
「「素晴らしい作戦だわ!」」
そんな斜め上に飛躍した論理により、結果として、ほのかのヴィラにほのかとミリアの二人が一緒に住むという、奇妙だが微笑ましい同居生活が決定してしまったのだ。
その影響で、次に向かうパラワンの拠点でも、ほのかのヴィラのベッドルームには、ぬいぐるみに埋もれそうな、ほのかのベッドの隣に、ミリア用のお姫様のような天蓋付きベッドが並べて置かれることになっている。
そして、本来ミリアが一人で使うはずだったもう一棟のヴィラは、彼女達の膨大な数のガーリーな服と、二人で集めまくった『たまごくまちゃん』のコレクショングッズが所狭しと保管される、巨大なクローゼット兼お宝倉庫と化す運命にあった。
数時間のフライトの後、ヘリの高度が下がり始める。
窓の外、眼下に広がったのは、抜けるような南太平洋の青空と、海に浮かぶ巨大な人工の楽園だった。
パラワン・ビッグ・フロートアイランド――UPL区画。
高度1000メートルの決まった空域を、反重力システムで浮遊し続けるこの一大フロート基地は、南太平洋における統一国家空軍の最大拠点でありながら、世界中の富裕層が集う超巨大リゾート地域でもある。
ヘリが着陸態勢に入り、降下していくと、UPLに割り当てられた専用区画の全貌が見えてきた。
そこは、無機質なコンクリートと鋼鉄の軍事基地であった択捉基地とは完全にかけ離れていた。
緑化に異常なまでの予算と技術が注がれており、まるで手付かずの南国のジャングルを丸ごと空中にくり抜いて移植したかのような、むせ返るような濃密な緑と、南国特有の極彩色の花々に覆い尽くされている。
空軍基地の閉鎖された区域の奥地、厳重な隔壁に隔てられたUPL区画。
木々の隙間からは、最高級リゾート顔負けの豪華なヴィラ群と、澄み切った人工海のプライベートビーチが白く輝いて見え隠れしていた。
すでに先行して到着していたUPL警護役独立憲兵隊の一個中隊が、ヴィラの周辺に警備網を敷き、完璧な安全を確保しているのが見える。
空軍基地のヘリパッドに降り立ち、独立憲兵隊の車両に分乗すると、警備網を通過してUPL区画に滑り込む。
そして、それぞれのヴィラへの荷物の搬入が慌ただしく始まった。
熱帯特有の湿った風が頬を撫でる中、ほのかは巨大な倉庫と化す予定の「ミリアのヴィラ」で、運び込まれた膨大な荷物の山と一人で格闘していた。
「もう……ミリーったら、いくらなんでも荷物が多すぎだよ……」
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、ほのかはふぅっと大きなため息をついた。
現在、過酷な任務に就いている親友のためとはいえ、この物量は凄まじい。
可愛いフリフリの私服や日用品がぎっしり詰まった複数のSBAS箱(スペシャル・バイオ・エアゾール・シェル。特殊衝撃霧散式コンテナ)を整理するだけでも一苦労なのだが、今、ほのかを最も悩ませていたのは、それらの奥に鎮座する軍用の無骨なコンテナ群だった。
中でも、『戦闘用ドレスA』と無機質なステンシル文字で印字されたコンテナは、少し押しただけで腰が砕けそうになるほど重かった。
ミリアのゴスロリ風の戦闘用ドレスは、任務の脅威度に合わせてAからCまでの規格に分かれているらしい。ほのかは箱の重さの違いから、何となくその事実を理解した。
最も軽装で機動性を重視した『C』なら、まだほのかでも持ち上げられる重さである。
しかし、最大防圧を誇る重量級の『A』となれば話は別だ。
スカートの合間に仕込まれた特殊装甲板や、外装式強化フレーム。
電磁バリア用のエネルギーパックだけでも、電子ピアノ位の重さがあるのではないだろうか。
可愛らしくデザインされたニーソックスには、外装型強化パワーアシストフレームがガッチリと仕込まれているのが分かった。
「何このフレーム……立ったまま戦車砲でも撃つつもりなの? ミリー……」
さらに、ミリアの愛銃HSA-2487-Ac『シャイニング・ファルコン』のオプションパーツも常軌を逸している。
電磁加速追加用ロングバレル、伏せ撃ち用のバイポッド、外着式ストック。
極めつけは、ナノマシン・マーカースコープに200km先までのメモリが刻まれていることだ。
これらがすべて、あのヒラヒラとしたスカートの隙間に収納されるというのだから、驚きの仕様である。
「ドクター……カールさん……いったい何を開発してるのよ……。ミリーを未開惑星探索用の戦闘ロボットにでもするつもり?」
さらには弾薬までもがドレスのフリルの裏にこれでもかと仕込まれているのだから、生身に近いほのかが一人で動かすことなど、土台不可能であった。
「よい、しょっと……! はぁ……重たい……。コンテナから出す事も出来ないよ……」
ほのかは「んぎぎぎ……!」と小さく呻き声を上げながら、なんとか重量級のコンテナを部屋の隅へと押そうとするが、びくともしない。
それもそのはず、この箱は軽量級ドローン戦車と同じ重量なのだ。
生身のほのかが動かせるはずもなかった。
そうやって息を切らし、無骨な軍用コンテナと一人格闘していた、その時だった。
ふと、『戦闘用ドレスC』のコンテナと、私物のBAS箱とのわずかな隙間に、見慣れないいくつかの小さなボックスが紛れ込んでいるのを見つけた。
それは、むせ返るような火薬と鋼鉄の匂いが染み付いた軍の支給品にはおよそ似つかわしくない、綺麗にラッピングされた可愛らしいプレゼントボックスだった。
「これ……ミリー宛じゃない……」
そっと添えられた手紙の差出人を見て、ほのかは優しく目を細めた。
そこには、かつてミリアが中隊長として指揮していた憲兵隊の、元部下たち――筋骨隆々の特別いかつい憲兵たちの名前が連なっていたのだ。
「ふふっ……相変わらず、部下の人たちから愛されてるなぁ、ミリーは。あの部隊……完全にミリーのファンクラブ状態だったものね」
かつてミリアが掌握していた独立憲兵隊第71中隊は、統一国家に数あるサイボーグ中隊の中でも「最強」と謳われていた部隊である。
バトルパワーアシスト・フレーム(戦闘用サイボーグ強化外骨格)という外装のアシストなしでは、サイボーグですら運用が不可能なほどの反動と重量を持つ『CP-TAP(対サイボーグ用・単結晶純チタン芯徹甲弾)』。
その化け物じみた武装を中隊規模で標準運用している部隊など、世界を見渡しても三つとないかもしれない。
そんな「元最強中隊」に属する、屈強な男たちからの贈り物は――包装紙からして、この上なく可愛らしかった。
包装紙の柄をよく見れば、それはどこからどう見ても、二人が大好きな『たまごくまちゃん』の限定デザインである。
いかつい男たちが真面目な顔をしてこれを選び、包んでいる姿を想像すると少し笑えたが、中身が何であれ、これを見たミリアが大喜びすることは火を見るより明らかだった。
ほのかは、その可愛らしい箱を大切に胸に抱き上げると、同居する自分のヴィラへと向かった。
そして、親友がアイルランドの過酷な戦場から無事にこの南国のヴィラへ帰還し、この箱を開けて満面の笑みを浮かべる姿を想像しながら大切に抱き抱える。
「早く帰ってねミリー……そうしたら、またカインさんを巡って勝負?ケンカはしたくないな……でも、譲れないんだから!」
ほのかは、ミリアのベッドのふかふかの枕元に、その箱をそっと、崩れないように積んでおくのだった。




