第117話 悲しみを超えて
太陽の光すら届かない、漆黒の太平洋。
その深く冷たい海溝を、統一国家海軍の最新鋭の陽電子潜水艦が、音もなく滑るように潜航していた。
艦内の士官用ラウンジは、重厚な金属の壁に囲まれた完全な密室である。
微かな流体タービンの駆動音が規則的なリズムを刻むばかりで、窓のない空間には退屈で停滞した時間がべったりと張り付き始めていた。
ラン・フェンは、艶やかな黒のツインテールを軽く揺らしながら、深々と懸架型の椅子に腰を下ろしていた。
チャイナドレスの深いスリットから覗く白く美しい脚を、優雅な仕草で組み替える。
彼女は手元の軍用マグカップをコトリと置くと、所在なさげにしているメンバーたち――目を閉じているカイン、ホログラム・タブレットを見つめるカール、とうもろこし位の大きさのたまごクマちゃんのぬいぐるみに服を着せているほのか、そして居眠りしながら不思議な形の金属片を手に持つドクトルF――をぐるりと見渡した。
ふわりと、彼女の口元に魅惑的な笑みが浮かぶ。
「ねえ、あなたたち。ちょうど今、全員が暇を持て余し始めているようだから……一つ、私の話でも聞かせてあげようかしら」
「えっ、ランさんの話、ですか?」
ほのかが、パッと顔を輝かせて身を乗り出した。カインは目を微かに開けると、カールは端末から視線を上げて静かに頷く。
「ええ。ペガサスを倒した翌日、私たちがパリで、どんな風に過ごしたか……」
ランが意味深に言葉を切ると、ほのかは両手で頬を押さえ、顔を林檎のように真っ赤に染め上げて口を挟んだ。
「えっ、ええっ!? ま、まさか……初めての夜から……いきなり同じスイートのお部屋……ですか!?」
「違うわよ、ほのか。もちろん、この日はまだ別々の部屋よ。焦らないの」
ランはくすりと笑い、懐かしむように切れ長の目を細めた。
ランの口から静かに語られたのは、コンラート・ヴィシニェフスキという男の、呆れるほど不器用で、どうしようもなく純粋な甘い愛の告白であった。
パリ・シャンゼリゼ通り。
初夏の陽光が、歴史ある石造りの街並みに降り注ぐ午後。
ホテル バリエール ル フーケ パリのエントランスという華やかな舞台で待ち合わせ場所に現れたコンラートは、いつも通り、寸分の狂いもなく仕立てられたフルオーダーのスーツをピシッと着込んでいた。
その端正で甘い顔立ちには、いつもの軽薄で余裕たっぷりの笑みが張り付いている。
しかし、ホテルの回転扉から現れたランの姿を見た瞬間、彼のその笑みは一瞬だけ完全に硬直した。
彼女が纏っていたのは、コンラートが見た事がない鮮やかさに目を惹く、春の桜のようなピンク色のチャイナドレスであった。
深いスリットから覗く脚線美と、彼女の白い肌を際立たせるその色彩は、戦場を連想させるものは無く、一人の美しい女性としてのラン・フェンである。
(……お嬢。君は、僕を本気で殺しに来ているのかい)
コンラートは内心で激しく動揺しながらも、必死に平静を装い、恭しく手を差し伸べた。
「さあ、行こうかお嬢。今日の君は一段と輝いている。花の都が、僕たちのために待っているよ」
「調子のいいこと、コンラート。エスコート、頼むわよ」
二人が最初に向かったのは、パリの絶対的象徴・エッフェル塔であった。
しかし、それは旧世紀の物とは全く別の威容を誇っていた。
「へえ……よくこんな巨大な鉄塔を、基礎ごと丸ごと空に浮かそうと思ったわよね。人間の執念って恐ろしいわ」
ランが上空を見上げて感嘆の息を漏らす。
エッフェル塔は、地上から50メートルの高さを、巨大な岩盤と共にゆっくりと自転しながら浮遊していた。
下部に設置された大出力の反重力陽電子リフレクターが、うっすらと青白い光の波紋を空間に描いている。
「おかげで、塔の下の広場が再開発されて、交通の便が飛躍的に良くなったらしいよ。ただ……浮遊している真下の空間には、あまり長居しない方がいいらしいけどね」
「何で? やっぱり反重力場の強力な磁場が、人体やサイボーグの電脳に悪影響を及ぼすの?」
「いや……なんか、反重力の影響で、科学で説明出来ない何かのせいでオバケが出るらしいぞ」
「……え、ちょっとやめてよコンラート。そういう非科学的なの、私一番嫌いなのよ……。もし変なのが出たら、アンタの頭ごと蹴り飛ばしてやるわよ」
本気で嫌そうな顔をして一歩下がるランを見て、コンラートは「怖いものなしの魔王みたいな顔をして戦うお嬢が、オバケ嫌いとはね」とゲラゲラと笑った。
塔の観光を終えた二人は、コンラートが手配していた流線型の観光用高級エアカーに乗り込んだ。
目指すは、パリ市街の喧騒から離れ、ドーバー海峡の美しいパノラマを一望できる断崖絶壁に建つ、隠れ家的なフレンチレストランだ。
エアカーの窓から見えるのは、緑豊かなフランスの田園風景である。
のどかな酪農の風景が続いていた。
「欧州はここ数年で、AIによる極端な畜産統制が見直されて、自然畜産がかなり復旧してきているんだ。培養肉じゃない、牧草を食べて育った本物のシャロレー牛のステーキと、極上のヴィンテージワインが楽しめるらしいよ」
「本当? それは楽しみね、コンラート。……うん、なかなか良いデートコースじゃない。とても楽しいわ。さすがね、コンラート」
ランは窓から見える青い海と、白亜の断崖のコントラストを眺めながら、ふと心からの笑みをこぼした。
極上の食事とワイン。
そして、他愛のない会話。
しかし、二人の間には、どこか触れてはならない薄氷のような緊張感が常に漂っていた。
楽しい時間が過ぎれば過ぎるほど、この平穏が……二人の関係が、いつ壊れるともしれないという不安定な現状が、二人の心に影を落としていたのである。
その夜。
コンラートが手配していたのは、森の奥深く、星を映す静かな湖畔に佇む中世の古城を改装した超高級ホテルであった。
「ここ……すごく素敵だけど、まさか一部屋しか取れなかったなんて言わないわよね?」
「いや、もともと一人用は無いんだ。ツインの部屋は数ヶ月先まで満室で、予約が取れなくてね……。空いていたのは、各国の王族や大統領が泊まるような『プレジデンシャル・スイート』だけだったんだ。……ああ、安心してくれ。メインベッドがある寝室は完全に二つに分かれているからね。僕が君の寝込みを襲うような真似はしないさ……ボクは、いつも通りの紳士だからね」
それはコンラートの計算ずくの作戦だったのか、それとも本当に偶然だったのか、ランには分からなかった。
だが、通されたスイートルームは息を呑むほどに豪奢であった。
旧世紀のアンティーク調度品が並び、石造りの暖炉には本物の薪がパチパチと爆ぜている。
バルコニーからは、峻厳な山々と、漆黒の夜と星空を反射する幻想的な湖面が見渡せた。
二人は、窓辺に置かれた小さなアンティークテーブルに向かい合い、コンラートが持ち込んだ少し古い赤ワインを傾けていた。
それはランの誕生年の、少し値が張る赤ワイン……。
室内のメイン照明は落とされ、暖炉の火の揺らめきだけが、二人の影を壁に長く投影している。
静かな時間。
グラスの中で揺れる赤い液体。
不意に、コンラートがグラスをテーブルに置き、テーブル越しにランの手をそっと、しかし逃げ場がないほどに強く握りしめた。
サイボーグである彼の手――いつもならプレイボーイならではの軽薄な余裕で力強く握ってくるはずのその手のひらは、今は微かに震え、過剰な熱を帯びていた。
「……どうしたの? コンラート。また、いつものプロポーズ?」
ランはからかうように微笑んでみせたが、コンラートの瞳はいつになく怯えの色を浮かべており、その奥には底知れぬ恐怖すら揺らいでいた。
「いや……まあ、そうなんだが……。お嬢にそう言われると、さすがの僕も辛いものがあるな……」
「コンラート……。えっと、これで何回目かしら……38回目?」
「そうだな……数えてくれていたのかい」
コンラートは自嘲気味に笑った。
「コンラート……。本気なの? 貴方の本気が、私には分からないのよ。いつもおどけて、ふざけてるし……軽口を叩いて、私の反応を楽しんでるだけじゃない。でも、私は……」
(死んだ恋人が忘れられるわけがないじゃないの……)
その言葉が口から出かけて止まる。
ランの脳裏に、かつて『赤い蠍』に殺された幼馴染であり恋人、リョーカの姿がよぎる。
どうして、あの時彼を救えなかったのか。どうして、彼の遺した革細工を捨ててしまったのか。
その後悔と呪縛が、新しい愛へと踏み出す彼女の足を、鎖のようにずっと縛り付けていた。
そしてそれは、最愛の婚約者イソルをジャンキーにされ、無残に砕かれて殺されたコンラートも同じはずだった。
似た者同士だからこそ、互いの致命的な傷に触れることを恐れ、軽口という鎧で心を隠し、一定の距離を保ち続けてきたのだ。
それはコンラートの軽口だけではない……ランがコンラートに見舞う容赦のない蹴りも、根幹は同じであった。
ここで一歩踏み込めば、再び「大切なものを失う絶望」を味わうかもしれない。
その恐怖を、二人は痛いほど理解していた。
「お嬢……ラン。僕はいつだって本気だった。いつだって、ランのためならこの命を迷わず投げ出せる。僕は、君のことが……心の底から好きなんだ……」
コンラートは、隠し持っていた一輪の深紅の薔薇を差し出そうとした。
いつもなら、ここで歯の浮くようなキザな台詞をスラスラと並べ立て、芝居がかったウインクの一つでも飛ばして、映画のワンシーンのように決めるはずだった。
だが、今の彼にはそれができなかった。
今までより一層覚悟を決めてきた夜……ランへのプロポーズはこれで最後だと決めてきたのだ。
愛するがゆえの恐怖。
断られることへの絶望。
道化の仮面が剥がれ落ち、生身の、ただの一人の弱く不器用な男の心がそこにはあった。
震える手で持った薔薇を、結局キザったらしく渡すこともできず、彼はただテーブルのワイングラスの隣にコトリと置いた。
ランが目を瞠った。
コンラートのその青い瞳には、大粒の涙が溢れていたのだ。
最高にかっこいいポーズで、甘い言葉で着飾るはずだった美男子が、今、ただ強い言葉一つ発することもできず、ポロポロと涙をこぼして情けなく肩を震わせて泣いていた。
微かに聞こえる嗚咽……。
強すぎる男が、自分への愛のためにここまで崩れているのだ……。
ランが初めて見た情けないコンラート……それはどんな男性よりも魅力的に思えた。
当のコンラートは、自分が情けなくて仕方がなかった。
ランの前で、誰よりも頼りになる完璧な男でいたかったのに、胸の奥底に抑え込んでいた愛おしさと、過去のトラウマ、そして彼女を失うことへの恐怖が限界を超えて溢れ出していた。
考え尽くしたロマンチックなプロポーズは欠片も思い出せない。
視界が涙の膜で滲み、目の前にいるはずのランの愛おしい顔すら、まともに見えなかった。
(ああ……失敗なんてものじゃない……これでボクはランを永遠に失うのだ)
その考えは、コンラートを一層惨めな気持ちに叩き落とした。
その時であった。
コンラートの涙で濡れた震える冷たい唇に、温かく柔らかな感触がそっと触れた。
コンラートが驚いて目を見開く。
ランがテーブルから身を乗り出し、コンラートの頬を両手で優しく包み込んでいた。
彼女の親指が、彼からこぼれ落ちる情けない涙を、愛おしむようにそっと拭う。
「やっと……アンタの、本当の本音を聞けた気がするわ、コンラート」
ランの切れ長の目からも、張り詰めていた糸が切れたように、一筋の涙が伝い落ちていた。
道化の仮面の下で、これほどまでに自分を想い、そして傷つき、泣いてくれる男。
思い出せば、ランが辛い気持ちの時に必ず主張せずにランに寄り添ってきた優しい男コンラート。
過去に押しつぶされそうな時、コンラートがずっとランを受け止め続けてきたのだ。
この不器用で愛すべき男の隣なら、過去の亡霊に別れを告げるのが許されるかもしれない……。
彼女はそう確信したのだ。
「……いいわ。結婚しましょう」
「えっ……?」
「ただし、子供や新居はまだよ。私は、あの蠍との戦いがもう少し落ち着かなければ、心から喜べないわ。リョーカや、貴方のイソルのためにもね……。復讐を終えるまでは、戦士でいなきゃならない。でもね……結婚はしましょう。式も急がなくていいの。いつか、カインやラズロ、UPLのみんなが全員仕事を休んで、何の憂いもなく出席できるようになった時には……その時は、考えてもいいわね」
「え? お嬢? 今……なんて言ったの? 嘘だろ……?」
コンラートは、自分の聴覚センサーが致命的なバグを起こしたのかと本気で疑った。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、間の抜けた声を上げる。
ただ情け無く泣いていた……考え抜いたセリフも言えなかった……そんなコンラートにランは結婚を承諾したのだ。
「え? え? あんなに断り続けていた僕のプロポーズを……受けてくれたのかい?」
「バカ! バカコンラート! まだ分からないの!」
ランは真っ赤になった顔で怒鳴ると、コンラートの首に腕を回し、再びその唇を強く塞いだ。
夜の古城の静寂の中で、暖炉の火の粉が小さく爆ぜる。
二人の長い長いすれ違いと葛藤が、ついに一つの確かな愛へと結実した瞬間だった。
「私はね……アンタの事がずっと好きだったのよ……でも、飾られていない貴方の本心をちゃんと聞いたのは初めて……好きよ……コンラート……」
翌日からの二人は、まるで絵に描いたような新婚夫婦のようだった。
パリの高級ブティックが立ち並ぶ華やかな通りで、コンラートは色とりどりのドレスを次々と手に取り、嬉々としてランに勧めていた。
「ラン! この服は絶対に君に似合うよ。この純白のシルク、まるで天から舞い降りた女神のような君の為に作られたみたいだ!さあ、試着してみてくれないか?」
「パス! 私……チャイナドレス以外は着ないの! 蹴りを入れる時に邪魔になるような動きにくいドレスなんて、死んでも着ないわよ」
ランが即座に無慈悲な却下を下すと、コンラートは犬のように肩を落としたが、すぐに立ち直って今度は高級アクセサリーショップへ彼女の手を引いていった。
「じゃあ、この髪飾りはどうだい! ランの美しい黒髪に、このプラチナの細工がとても似合うよ。まるで空を舞う美の天使のようだ!」
「コンラート……いちいち言葉が甘くて重いのよ! 胃もたれするわ。……でもね、これは……嬉しいかも。ステキね……買ってくれるの?」
ランが鏡の前で繊細な髪飾りを当てながら、少しだけ上目遣いで尋ねると、コンラートは力強く胸を叩いた。
「もちろんだとも! 僕の永遠の女神様のためなら、この店の在庫を全部買い占めてもいいくらいさ」
その日の午後。
二人は、300年前にナポレオン一族全員が合同で祀られたという壮大な記念廟の前の広場を訪れていた。
ナポレオン大公園と呼ばれるそこは、多くの色鮮やかな屋台が並び、観光客や家族連れの平和な笑い声で賑わう、パリでも有数の人気スポットである。
ランは、公園の木陰にあるベンチに腰掛け、コンラートが買ってくると意気込んで列に向かった「ホログラム・128色ソフトクリーム」を待っていた。
「遅い……遅すぎるわ……」
ランが苛立たしげに脚を組み替える。
コンラートが列に並びに行ってから、すでに一時間半が経過していた。いくら人気店とはいえ、異常な遅さだ。
ランはベンチの占有権を、通りかかった幼い子供を三人連れた家族連れに渋々譲り渡すと、コンラートが並んでいるはずのソフトクリーム屋台の方へと足早に歩き出した。
屋台の少し手前の広場。
そこには、何事かと思わせるような異常な人だかりの輪ができていた。
「すっごくカッコいいですね! 映画のモデルさんですか!? ううん!あのラインハルトよりカッコいいかも!ご連絡先教えてください!」
「いえ、私、今夜……空いてます! 一緒に飲みに行きませんか!?」
「アンタたち、引っ込んでなさい! 小娘にこの人は似合わないわ。ねぇ……今すぐにでもパリの秘密のお店を案内してあげるわ!一緒に楽しみましょう?」
人垣の中心にいたのは、両手に巨大な128色のソフトクリームを持ったコンラートであった。
彼は基本的に、自分から若くて可愛い女の子を追いかける(そして冷たくあしらわれる)側であり、追われる事は滅多に無い。
しかし、いつもだらしなく崩している顔を真面目に引き締め、黙って立っていれば、彼は誰もが振り返る「数万に一人の絶世の美形」なのだ。
そんな彼が、溶けないようにソフトクリームを掲げたまま身動きが取れずに立ち止まっていたため、パリの情熱的な女性たちから猛烈な「逆ナン」の集中砲火を浴びていたのである。
「あー……その、すまないが、君たち。このソフトクリームが溶ける前に、ツレの元へ戻りたいんだ……どうか、道を空けてくれないか……」
コンラートの声は、いつもの自信に満ちた軽薄さが完全に消え失せ、ひたすら小さく弱々しかった。
彼が両手に持つソフトクリームは、保冷ナノマシンコーティングを追加で頼んだ甲斐があり、一時間半経った今でもまだ美しい128色のグラデーションの形を保っている。
しかしながら、この夏の陽気の中では、あと10分は持たないだろう。
その時。
――ウィィィィン……ガキーン!! ウィィィン……ガキーン!!
周囲の熱気を一瞬で凍りつかせるような、重々しい金属の駆動音が広場に響き渡った。
ランが、隠す気もなく脚部フレームに内蔵された単チタン結晶化アクチュエーターをリミッター・ブレイクで稼働させ、魔王の進軍のような足音を響かせながらズンズンと接近してきたのだ。
彼女の全身から発せられる凄まじい殺気は、周囲の気温を物理的に数度下げているようにすら錯覚させた。
ランは無言のまま、コンラートに体を寄せていた若い女の子たちを凄まじい威圧感で押し退けると、コンラートの手からソフトクリームを一つひったくるように受け取り、空いた彼の手首をガシッと掴んだ。
「お嬢ちゃんたち……」
ランが、首だけをゆっくりと動かして女の子たちを振り返る。
「私の『夫』に……何か用かしら?」
その顔は、もはや怒れる般若そのものであった。
細められた瞳の奥には、陽電子レーザーをも凌ぐ絶対的な恐怖が宿っている。
パリの女の子たちは「ヒィッ!」と悲鳴にもならない声だけを漏らし、文字通り蜘蛛の子を散らすように四方八方へ走って逃げていった。
静かになった広場で、コンラートは冷や汗を滝のように流しながらも、どこか嬉しそうにケタケタと笑った。
「いやあ……参ったな。真面目にしていると、僕って意外とモテるんだなぁ」
「…………」
一切目が笑っていないランが、128色のソフトクリームを無表情で舐めながら、コンラートをじっと見つめる。
「コンラート……。次、他の女にモテたら……殺すわよ。アンタのそのキレイな頭……アクチュエーターのリミット飛ばして蹴り飛ばすわよ?」
「ハハッ、安心してくれ……っ、はい! 絶対にモテません!」
コンラートは広場のど真ん中で、ソフトクリームを持ったまま直立不動で美しい敬礼をした。
その滑稽な姿に、ランはようやく毒気を抜かれ、クスクスと可愛い笑い声を上げた。
そして、ご褒美とばかりにランはコンラートにキスを落とす。
遠巻きに未練がましく様子を窺っていた女たちは、それを見てがっかりと肩を落とし、ようやく広場からトボトボと帰り始めた。
(バカね……コンラートは私のダンナ様なんだから……)
カインが指定した帰還日までの残りの日々、二人はフランスの美しい街並みと文化を存分に堪能した。
そして夜の古城で、コンラートとランはお互いの愛を、身体と心で深く確かめ合った。
お互いに本心を明かせないまま傷つき、立ち止まっていた過去を埋めるように。
まるでもっと早く、こうして素直になればよかったのだと……これまでの無駄にした時間を取り戻すかのように、二人は強く、激しく求め合ったのである。
このパリでの出来事を、ランとコンラートは二人で代わるがわる語っていた。
言葉を紡ぐ二人は、「何を言えば相手が嫌がるのか」「何を伝えたいのか」を深く理解し、互いに頻繁に視線を交わしながら慈しみ合い話していることが、聞いている誰の目にも明らかな様子であった。
「……というわけよ」
潜水艦のラウンジ。
語り終えたランはほんのりと頬を赤く染め、手元の潜水艦がプリントされた軍用マグカップを上品に傾けた。
「うわぁぁぁ……! なにそれ、なにそれ! 最高すぎます! ロマンチックで……いいなぁ、本当に最高です!」
ほのかが両手で頬を押さえ、目をキラキラと輝かせて身悶えしている。
「はっはっは! コンラートのやつ、泣きながらプロポーズとは傑作じゃな! まぁ……気持ちは分かるぞ。コンラートの言葉の鎧が取れた素の状態なぞ、百年に一度しか拝めそうにないからのう……よくぞ本心を出した。偉いぞ、コンラート」
ドクトルFが腹を抱えて大笑いし、カールも「コンラートさんらしい、真っ直ぐな不器用さですね」と優しく微笑んでいる。
(……やれやれ。あいつらも結婚とはな……。祝うべき時には最大限に祝ってやらなければ……。なあ、ジュリアン中尉。そうですよね?……俺は……俺は中尉の一割でも、皆の役に立てていますか? 教えてください、中尉……)
カインは内心で二人の門出を心から祝いながらも、その心の奥底に抱えていたのは、指揮官である自らに対する拭いきれない自己不信であった。
『カイン……大丈夫。貴方はとても頑張っているもの……。私は分かってるわ。みんなも、きっと分かってる。……カイン、貴方は立派に指揮官をやれているわよ』
電脳の深層で、アリスは傷ついたカインの心を包み込むように、温かく優しい言葉をかける。
ラウンジの懸架型の椅子に深く身を沈め、傍目にはただ静かに仮眠をとっているようにしか見えないカイン。
だが、彼の意識は電脳空間へと深く潜り、アバターとなってアリスの傍らに寄り添っていた。
アリスは、迷い子のようになったカインの背中に腕を回し、ありったけの慈愛を込めて強く抱きしめる。
深い電脳の中……カインの口から、声にならない嗚咽が漏れた。
アリスの温もりに押された感情のダムが決壊したのだ。
周囲からは常に強く、冷徹で、完璧な指揮官として恐れられるカイン・ヴィラール。
しかし、誰も知らないその本質は違う。
偉大な先任であるジュリアン中尉の大きな背中を、ただひたすらに無理をして追いかけ、今にも息が切れそうになって膝をつきそうな、不器用で孤独な少年にすぎないのだ。
その脆く痛ましい真実の姿を知り、触れることができるのは、世界でただ一人、電脳の中にいるアリスだけであった。
アリスは何も言わず、ただ静かにカインの流す電脳の中でしか見えない涙を、その胸で全て受け止めていた。
『カイン……カイン……貴方は頑張っているの……自分が失敗したら世界が滅ぶなんて考えないで……』
冷たい鉄の鯨は、彼らの温かい笑い声と新たな愛の決意……そして、誰にも見せない密やかな悲しみをその腹に抱え、太平洋の深く冷たい闇を切り裂きながら、南の空へと続く浮上ポイントを目指して静かに進み続けていた。




