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ベヒーモス  作者: うなぎかご
極北の章
113/123

第113話 ジェシカ・スタイン

 択捉島、ノード・カトラ。

 UPL居住区画の冬は、皮膚を刺すような寒気と、全てを白く塗りつぶす地吹雪に支配されていた。

 外界の喧騒から隔絶されたこのUPL専用区画の一角で、ラズロ・スタインは、自身のヴィラにあるダイニングテーブルを見つめていた。

 そこには、三つの席が用意されている。

 一つはラズロ。

 もう一つは、隣に座るマリアンヌ。

 そして、正面の空席……ジェシカ・スタインが居るはずの席。

 その空席の前には、ダージリンの香りが微かに漂うティーカップと、彼女が好きだったフランスのメーカーのクッキーが置かれていた。

 今日は、ジェシカの命日だ。


「……ジェシカ。お前の兄……お前の人生を狂わせた仇は、カインがとったぜ」

 ラズロは、濁った琥珀色のウイスキーが揺れるグラスを傾け、誰もいない空席に向かって語りかけた。

 ラズロの声は寂しげに響く。

「本当はな、このオレの手で、あいつを切り裂いてやりたかったんだが……。運命ってやつは、皮肉なもんだな」

 ラズロの脳裏に、かつての幸せだった時間が、つい最近の出来事のように蘇る。

 真っ直ぐで、お節介で、泥だらけになって薔薇の苗を植えていた、生身のジェシカの笑顔。

「……まさか、三人で結婚しよう、なんて。あの時の冗談が、本当になるとは思わなかったぜ」


 マリアンヌは、静かに紅茶を啜り、ラズロの言葉を黙って聞いていた。

 彼女の赤い髪が、ヴィラの温かな照明に照らされて揺れる。

「ジェシカ……このバカ。貴女が残していったこのめんどくさい男は、私がしばらく預かるわね」

 マリアンヌは空席に向けて、言葉とは裏腹に深い愛おしさを込めた眼差を向けた。

「貴女がラズロと買ったあのニューヨークの新居……今はまだ住めないけど絶対に手放さないわ。いつか必ず、ちゃんと綺麗にして、ラズロと住むんだから。空家保管業者も手配したわ……。貴女の心も、そこに来て一緒に住みましょう?ジェシカ」


 夜景の向こう、ドイツ・ハノーファーに位置する統一国家宇宙軍基地のUPL区画において、カインの手によって「天秤座」としての命を断たれた、ジェシカの実の兄、スティーブ・ロイヤルズ中佐。

 ジェシカの人生を地獄へと突き落とし、家族を皆殺しにし、最愛の妹さえも暗殺しようとした、狂気の天才。


 ジェシカ・スタイン。

 旧姓ジェシカ・ロイヤルズ。

 彼女の短い人生は、実の兄という名の、悍ましいバケモノによって狂わされ、最期はそのバケモノを殺すためだけに費やされた。


 ジェシカ・ロイヤルズにとって、兄スティーブは、物心がつく前までは、自慢の頼れる存在であった。

 幼少期の古い写真には、兄の背中に背負われ、無邪気に笑うジェシカの姿が残っている。

 しかし、成長と共に、その関係は歪み、恐怖と憎悪に満ちたものへと変貌していった。


 兄は、天才であった。

 学問は常に一位、幼少期から続けているヘリテージ・フェンシングも準優勝以上を逃したことがない。

 だが、その類稀なる才能の裏側には、底知れぬ異常性が潜んでいたのだ。


 スティーブは、全ての物事が、自らの決めた「ルール」通りになっていないと、精神の均衡を保てない男であった。

 部屋の物の配置、食事の時間、完璧にアイロンが掛けられた服装……。

 もし、そのルールが少しでも破られれば、相手が家族であろうと、知らない他人であろうと、容赦のない殺意すら抱くのだ。


「ジェシカ、なぜ靴を揃えて脱がない。何度言えば理解するんだ」

 ハイスクール時代の、ある日の夕食時。

 スティーブの声は、いつものように冷氷のように冷たかった。

「ごめんなさい、お兄ちゃん。急いでたから……」

「言い訳は聞きたくない。ルールを破った、その代償は払ってもらう」

 スティーブは、夕食のナイフとフォークを静かに置き、ジェシカの元へ歩み寄る。

 父は無関心に食事を続け、母と姉は、青醒めた顔で怯えている。

 スティーブは、ジェシカの腕を掴むと、人気のない廊下へと引きずり込んだ。


「口答えをするなと言ったはずだ」

 ドス、と重い音が響く。

 スティーブの拳は、ジェシカの腹部に、正確に、そして目立たないように打ち込まれた。

 ジェシカは、声も出せずに蹲る。

「……これは、お前のためだ。社会のルールを守れない人間は、ゴミだ。俺が、矯正してやる」

 スティーブは、苦痛に歪む妹の顔を、感情のない、冷徹な目で見下ろしていた。


 スティーブの異常なまでのルールへの執着は、家庭内だけに留まらなかった。

 他人に対しても、交通ルール、食事マナー、校則……知らない人間にも口を出し、もし相手が反論すれば、怒鳴りつけケンカになる。

 彼にとって、ルールは「遵守すべき神聖なもの」であり、それを破る者は「排除すべき悪」であった。


 ジュニアハイスクール時代、ジェシカは毎日のように、兄からの「校則チェック」という名の精神的虐待を受けていた。

「ジェシカ、スカートの長さが、校則より5ミリ長い……なぜ直さない」

 スティーブは、ジェシカのスカートを引っ張り、大声で叫ぶ。

「下着の色は?校則では白のはずだ。見せろ」

「……嫌! お兄ちゃん、離して!」

 ジェシカは、この頃から兄の自分に対する異常な劣情を見抜いて抵抗を見せていた。

 下着の色なんて、校則のどこにも書かれていないはずだった。


 しかしながら、家庭の中で、兄に逆らう者は、一人として居なくなっていった。

 最初は注意していた母と姉も、兄の「俺は正しいことをしているだけだ」という、論理的かつ狂気的な反論と、その圧倒的な天才性の前に、次第に沈黙していった。

 学校では開校以来の天才ともて囃される兄を、ジェシカは嫌っていた。

 そして家族でジェシカだけが孤立していく……。


 スティーブは、アメリカ北部統一国家軍大学に進むと、士官として、近接戦闘部隊への道を進む。

 ヘリテージ・フェンシングで培った剣技と、天才的な頭脳、そして一切の感情を排除した冷徹な性格は、軍という組織において、最高の士官として高く評価された。

 しかし、その性格は変わらなかった。

 軍という、より厳格なルールが存在する世界で、彼の異常性は、さらに強固なものへと洗練されていったのである。


 ジェシカは、大学に入ると、なるべく兄に会いたくない一心で、実家を出て下宿を始めた。

 そこで出会ったのが、ラズロ・スタインであった。

 真っ直ぐすぎる性格で、少し強引だが、心の底から優しい彼は、兄という恐怖に怯え続けていたジェシカを、温かく包み込んだ。


「ジェシカ、君の目は、いつも困っているみたいに見える。……可愛いな。いつも一緒に居てくれ」

 ラズロの熱烈なアタックにより、二人が交際に至るまでは、長い時間は必要無かった。

 出会って三日後には、二人は付き合い始めていた。


 大学時代、ジェシカは親友のマリアンヌ、そして恋人のラズロとのキャンプにハマっていた。

 三人で少ないお金を出し合って買った中古のキャンピングカー。

 三人で一目惚れしたその車を買うための狂気じみたアルバイトのスケジュールも、若さゆえの情熱だった。

 マリアンヌ名義となったそのキャンピングカーで、週末になれば郊外へと繰り出し、焚き火を囲んで夢を語り合った。


「私、ラズロも好きだけど、マリアンヌも好きだよ」

 ある日のキャンプで、ジェシカは満天の星空を見上げながら、ポツリと呟いた。

「ラズロもマリアンヌも、濃すぎる変人だから、私くらいじゃ無いと一緒に居られないよね……いっそ三人で結婚しようよ」

 その言葉に、マリアンヌはクスリと笑った。

「ラズロが許してくれるなら、いいわよ? 重婚になるけど、いいのかしら?」

 マリアンヌは、恋人を蠍に殺されたばかりで、心の傷は癒えていなかったが、ジェシカとラズロとの時間は、彼女にとっての救いであった。

「おいおい、マリアンヌは確かに可愛いし、気も合うし、付き合いも長いけどよ……」

 ラズロは、焚き火の薪をくべながら、ニヤリと笑った。

「ジェシカだけでもめんどくせぇのに、マリアンヌも一緒なんてもっとめんどくせぇなぁ。ハハハ!」

 三人で笑い合った、あの夜の焚き火の温かさは、ジェシカの人生において、最も輝かしい記憶の一つであった。


 大学卒業後、ラズロはニューヨーク市警に、ジェシカとマリアンヌは、陸軍憲兵隊の道を選んだ。

 お互いに忙しい中でも、愛と友情の時間を積み重ね、幸せな未来を信じて疑わなかった。


 しかし、運命は突然、暗転する。

 ある日の任務中、ジェシカは何者かの襲撃を受ける。

 乗っていた車両の爆破。

 バディのジュディは即死していた。

 ジェシカは、見た目こそ普通の人間と変わらないが、頭蓋と脳、左腕は軍先行試作品パーツに換装された、強力なサイボーグになってしまった。


 病院のベッドで、ジェシカは上官から、憲兵としての立場から、規定に従い戦闘用パーツへの換装をしたと説明された。

「ジェシカ、君は、ここまで軍に体を捧げるべきではない」

 上官の言葉は、優しかった。

 「希望するなら軍用では無く高性能非軍事パーツにしても良い」と説明されたが、ジェシカの希望は真逆であった。


 結婚を控えた、まだうら若きジェシカ。

 Scorpionの襲撃でハーフサイボーグとなる彼女の心は、計り知れないショックで砕け散っていたはずだった。

「どうせなら、あの強力な武器腕を付けて欲しい」

 ジェシカの嘆願は、上官の手によって却下された。


 上官としては、結婚を控えた彼女の左腕に、己自身を武器に変えるような禍々しいモノは付けさせたくなかったのだ。

 一人の女性として、未来を生きて欲しかった。

 Scorpionへの復讐に魂を売るようなことは、させたくなかったのだ。


 目が覚めたその日、ジェシカは、ショックで泣き腫らしたが、最終的に、換装した自分の体を受け入れた。

 なぜなら、彼女は、自分が弱いために、愛するラズロを守れないかもしれない、という恐怖の方が、サイボーグになることへの恐怖よりも、大きかったからである。


 ジェシカは、死ぬまで自分がハーフサイボーグになったという事を、ラズロに伝えることは無かった。


 ジェシカとラズロは、一つの約束をしていた。

「ニューヨーク郊外に、一戸建てを買う頭金が貯まったら、結婚しよう」

 その約束は、二人の懸命な働きにより、存外早く果たされた。

 結婚式を終え、新居に引っ越しを終えて始まった新婚生活は、幸せそのものであった。

 一ヶ月後から始まる結婚休暇は、地中海に向かう予定であった。


 しかし、幸せの絶頂にいたジェシカに、上官から非情な事実が告げられた。

「ジェシカ……本来なら、結婚休暇を控えた君に言うことではない。しかしながら、君は知らなければならない」

 上官の表情は、かつてないほど險しく、苦渋に満ちていた。

「君の兄……スティーブ・ロイヤルズ中佐は、おそらく『赤い蠍』の構成員だ。……我々情報二課に内偵指示が来ている」


 その言葉を聞いた瞬間、ジェシカの心臓は、凍りついたように止まった。

 兄が、 Scorpion……?

 あの、ルールを神聖視していた兄が、法と秩序を破壊するマフィアに……?

 いえ……あいつなら永遠の命と快楽を求めるわ……。


「……そして、言わなければならない。君が襲われてサイボーグになった理由と……君の両親、お姉さんが消されたということだ」

「……え? 父と母が……お姉ちゃんが……?」

「おそらくは、君の兄は Scorpionの中でもかなり栄達している。そして、自らの過去を少しずつ消していく為に、家族を消して、君を暗殺しようとしたのだ。三課六係の二名が消される前の報告にあった……」


 上官の声が、遠くの方で聞こえる。

 ジェシカの脳内は、処理しきれないほどの絶望と、兄への憎悪でパンクしかけていた。

 兄は、自らのマフィアの中での出世のために、家族を、私を……!


「ジェシカ、君は、新婚二日目だ。引き継ぎだけをしっかりと終わらせて、結婚休暇に入ってくれ。この任務には、アルベルトとローラがつく」

「……いいえ! いいえ、中尉!」

 ジェシカは、涙を流して叫んだ。

「兄が Scorpionなら、私が捜査してなければいけません! 私が、あいつを……!」


 中尉は、決して許可しなかった。

 身内への内偵捜査など、論外である。

 しかし、ジェシカは、直属の上官中尉を飛び越して、大尉に嘆願した。

 飛び越し嘆願など許されることでは無い。

 もちろん、それでも許されなかったが、それを見ていた少佐が、ジェシカに内偵捜査を許可したのだ。


 その少佐が『赤い蠍』であり、ジェシカを兄の差し金で消すための「罠」であったことなど、他の誰も知る由もない。


 この任務に、ジェシカがつく事に異を唱えたのは、陸軍でも換装医学の権威、ヘンリー・マクドガル教授(後のドクトルF)であった。

「少佐! 身内への内偵なぞ、論外では無いのか! ジェシカの……家族なんだぞ!しかも『蠍』……危険すぎる!」

「ドクトル……あなたは尊敬しているが、作戦に口出しは無用だ」

 少佐は、冷酷な笑みを浮かべ、教授の抗議を切り捨てた。


 教授は、ジェシカを自分の娘のように愛していた。

 彼女がサイボーグになった時も、その心のケアをし、彼女の左腕のメンテナンスを引き受けていたのだ。

「ジェシカ……すまないが、ワシは、君に『コレ』をつける」

 教授は、ジェシカにつける予定の左腕を愛おしそうに撫でながら、悲しげに呟いた。

「……武器腕をつけてくれ。内偵捜査は、武装も付けられん……内偵捜査とばれれば、蜂の巣じゃ。この左手はお前を守ってくれるはずじゃ」

 ジェシカは、教授の優しさに無言で頷いた。


 ヘンリー・マクドガル教授の手によって、ジェシカの左腕は人としての機能を捨て、神殺しの兵器へと換装された。


 ハデス・クロウ (Hades Claw)。

 左腕換装型・高振動屈曲式砕裂兵器。

 それは、「空間そのものを穿つ」という神への冒涜に近い禁忌の実験から産み落とされた、呪われた試作機だった。


 通常時は、精巧な人工皮膚に覆われた生体の腕と見分けがつかない。

 だが、ジェシカがリミッターを解除した瞬間、二の腕から上腕から音を立てずに物理的に割れ、屈曲する。

 内部からせり出すのは、全長1.7メートルにも及ぶ三本の鈍色の鉤爪。

 露出したその禍々しい金属体は、内蔵された高周波振動ユニットによって触れたものすべての物質的結合を原子レベルで粉砕する。


 教授は、娘のように愛していたジェシカに、この「呪い」を託した。

 内偵捜査という、静かなる戦場へ向かう彼女を守るために。

 ジェシカにとって、このハデス・クロウは、兄への復讐を果たすための刃であり、そして何より最愛のラズロを守るための、最後の希望であった。


 Scorpionの暗殺は、ここで終わるはずがない。必ず、執拗に追ってくる。

 生き延びてしまった自分を殺すために。

 新婚の夫ラズロを、 Scorpionという血の泥沼に、巻き込むわけにはいかない。

 ジェシカは生身では無い擬似体温を湛えた左腕を、右腕で抱きかかえ決意を固める。

 この「希望」と共に、両親と姉を消した蠍を……兄を、焼き尽くす決意。



 内偵捜査が決まり、三日後から正式に任務が始まる。

 ジェシカのバディは、マリアンヌであった。


 任務に入る前日の休日、ジェシカはラズロと買い物に出ていた。

 少し治安が悪い地域を歩いてしまう事に、二人は少し危惧していたが、会話が楽しすぎて、路地を一本間違えてしまったのだ。


 ゆきずりの強盗。

 ACHR (対サイボーグ重量弾)が突然、ジェシカの後頭部に撃ち込まれる。

 ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!

 三発、四発……。

 神殺しの武器腕を仕込んだジェシカの頭蓋は、悲鳴を上げる間もなく、高層ビルから落ちたスイカのように無残に四散し、ニューヨークの路地裏を赤黒く染め上げた。


 生身のラズロにも、至近距離からの不意打ちが、後頭部から撃ち込まれた。


 静寂が、血の匂いと共に降りてくる。

 ラズロは、病院のベッドで気がついた時、新妻が死んだ事を告げられた。

 遺品として残ったのは、新妻の左手が武器腕であったと言う事実と、その左手……ローンが残った絶望的に綺麗な新居だけであった。


 ジェシカの仇……彼女の人生を狂わせ、家族を皆殺しにし、最愛の妹さえも暗殺した狂気の天才、 Scorpionの幹部『天秤座(ライブラ)』ことスティーブ・ロイヤルズ中佐。

 彼は、数年後、ドイツ・ハノーファーに位置する統一国家宇宙軍基地のUPL区画にて、ラズロの親友カイン・ヴィラールによって、無惨に殺されることになる。


 択捉島、ノード・カトラ。

 夕食が進み、ジェシカを交えた三人の会話は、択捉の風に消えていく。


 ラズロとマリアンヌ……ジェシカの存在しない現実に戻された二人は蠍の壊滅を誓う。


 冬の夜の静寂の中でカインのヴィラから聞こえるピアノの音は、悲しく、静かに鳴り続けていた。

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