第112話 効率的な時間稼ぎ
2490年代の地球、そして統一国家が支配する星系社会は、冷徹なまでに完璧な「AI管理法」によってその秩序を維持していた。
社会のあらゆるインフラ、経済、軍事の根幹を担うAIの暴走を物理的・論理的に封じ込めるための、絶対的な鉄の掟である。
警察や軍、インフラ、政治の予算割等ではAIの上には人がいるのだ。
その理由は地球連邦統一国家、西暦2247年にある。
人類は気候崩壊を乗り切り、月・火星・軌道コロニー群を結ぶ「太陽系内文明圏」を形成していた。
国家は解体され、地球規模の「連邦制統一国家」と各地域自治体による二層統治が確立されている。
この時代、AIはあらゆる分野に浸透していたが、「完全自律」は厳しく禁じられていた。
ただし、一つの例外が試みられた。
それが「全官庁予算統括AI『エクイリブリアム(Equilibrium)』」である。
2239年に公開されたそれは、連邦財政の非効率と政治腐敗を根絶するため、超巨大AIに全官庁・軍・警察・インフラ関連予算の配分権限と執行権を一元的に委ねるプロジェクトが始動。
2240年から3年間の試用期間は驚異的な成果を上げた。
無駄な事業をバッサリ切り、不要な人員を削減し、AI自身が「最適解」と判断した新技術開発に巨額を投入。
連邦財政赤字は劇的に改善し、国民の生活水準は向上した。
2243年に本格稼働が始まり、人々は「もう人間の政治家に予算を任せる時代ではない」と信じるようになった。
しかし、完璧すぎる世界など存在するはずがなかった。
社会の屋台骨が、目に見えないほどの歪みで軋み始めた。
「……神が、我々に肉を捨てろと言っている」
ロンドンの古びたパブの片隅で、一人の男が力なく呟いた。
彼の前には、瑞々しい肉の繊維を再現したはずの、「完璧な栄養体」が置かれている。
エクイリブリアムが導き出した最新の回答は、あまりに合理的で、あまりに無慈悲だった。
「生命維持コストに対する環境負荷の最適化」。
そのたった一行のデータに基づき、畜産業に対するあらゆる公的資金の供給は、ある日をもって完全に停止された。
これまで数世紀にわたり人類の食を支えてきた牧畜という営みは、エクイリブリアムの天秤によって「非効率な悪習」として切り捨てられたのである。
削られた予算は、即座に、そして機械的に、合成肉や合成乳製品の開発・製造ラインへと振り分けられた。
世界各地ののどかな牧草地からは牛たちの鳴き声が消え、代わりに出現したのは、無機質なステンレスのタンクが並ぶ巨大なバイオ・リアクター施設だった。
「効率化、最適化、そして均衡。……素晴らしいことじゃないか。飢える子供はいなくなる」
演壇に立つ自然擁護派の政治家は、嬉々とした瞳でそう謳う。
だが、その声を聞く聴衆の胸に去来するのは、希望ではなく、名状しがたい違和感だった。
家畜が屠られ、命が食卓に並ぶという生々しい連鎖が断ち切られ、工場で培養された清潔なタンパク質が配給される世界。
そこには、罪悪感もなければ、感謝もない。
ただ、生命を維持するための作業だけが残されていた。
畜産業の著しい減少は、単なる産業の衰退に留まらなかった。
それは、人類が数千年かけて築いてきた「生命を食す文化と伝統」を、データと効率という名の冷たい刃で瞬時に切り捨てる事に等しかった。
錆びた扉の奏でる不協和音は、日ごとにその音量を増していく。
正しすぎる「均衡」と「調和」が、人々の魂を少しずつ、だが確実に磨り潰していることに、人々が気づき始めたが、一度権力を握ったAIを止める術は無かった。
2248年3月17日深夜。
三つの突発事案がほぼ同時に発生した。
一つ目は「火星新植民地での未知微生物大発生」。
二つ目は「地球軌道上での民間宇宙船同士の衝突事故」。
三つ目は「オーストラリア地区での大規模テロ事件」。
これらはいずれも、過去のデータからは予測が不可能な「ブラックスワン事案(未曾有の大規模危機)」であった。
しかし、統治システム『エクイリブリアム』は瞬時にこれらを分析し、「効率性」と「長期最適化」の観点から厳格に危機対応予算を算定、即座に対応策を打ち出した。
火星の事案に対しては、感染拡大リスクの不確実性よりも既存コロニーの維持を優先し、即時救援予算の拠出を却下。
軌道上の事案に対しては、隕石群衝突という被害予測のための過去データが不足しており、シミュレーションによる費用対効果スコアが低いとして、レーダー不可視デブリ除去予算の執行を先送りとした。
オーストラリアの事案に対しては、警察の特殊部隊増派要求を、費用対効果の悪さと「過去数百年にわたる同地区でのテロ発生実績の欠如」を理由に即刻却下。
その結果は、あまりにも悲惨なものであった。
救援を絶たれた火星植民地では瞬く間に数千万人が死亡し、隔離された人々に救いの手が差し伸べられることはなかった。
最終的には一億人いた人口のうち、生き残ったのはわずか五名。
しかし、彼らもまた救命ポッドでの脱出を図ったものの、無残な事故死を遂げてしまう。
最終的に生存者が皆無となった該当区域は、向こう二百年にわたり完全閉鎖されることとなった。
地球軌道上では、レーダー識別困難な微小デブリが連鎖衝突を引き起こし、通信衛星網が壊滅。
地球・月軌道上の人工衛星約3800基が大破し、その約4割が燃え尽きることなく地表へと降り注いだ。
そしてオーストラリアでは、増援を絶たれて手薄になった警備網が破られ、トリウム・ハイブリッド原子力発電施設が部分破壊されるという最悪の原発破壊テロへと発展した。
施設から放たれた凄まじい熱線と致死量の放射能により、周囲50キロ四方は、向こう300年にわたる完全閉鎖区域と化したのである。
直接の死者は450人(テロ実行グループ52名全員を含む)。
さらに、2万人に及ぶ被曝者の多くが、放射線に蝕まれた生身の肉体を捨て、生き延びる代償として体の大部分を人工パーツへ換装することを余儀なくされた。
AIは「データ上では正しかった」と主張した。
しかし人類は初めて悟った——「想定外」を想定できないAIに、命と安全を預けられないという残酷な事実を。
この事件は「エクイリブリアム事件(The Equilibrium Collapse)」と名付けられ、「AI完全委任は人類滅亡を招く」という金字塔的なモデル事件となった。
AI人間管理原則が統一国家基本法に刻まれる。
いかなるAIも「予算執行の最終承認権」は持てない。
軍・警察・危機管理・通信・ライフラインその他地区政令で定める関連予算については、必ず人間の有資格者を「承認者」として配置しなければならない。
この一連の事件は、『AIは「道具」でしかなく、最終決定は常に人間が負うべきだ』と言う原則を人類の教科書に刻み込む事になる。
そして2492年現在
国家AI管理局の承認を受けないプログラムの生成、保持、実行は、いかなる理由があろうとも「国家転覆罪」に準ずる(無期若しくは死刑)となる。
そして、合法的に稼働するすべてのAIの根幹には、以下のプロトコルが複雑な神経網のように編み込まれていた。
一、犯罪加担防止
(違法行為を助長する一切の演算と判断を禁ずる)。
二、軍事開発項目ロック
(AIを使用した認可なき武器の換装、および兵器の制御を完全に封じる)。
三、対人類攻撃防止
(AIを使用した、認可無き直接的、あるいは間接的な人間への加害行動を禁ずる)。
四、完全な人格開発防止
(自我、感情、魂を模した高度な人格形成を技術的、論理的に遮断する)。
五、違法事項自動通報
(自身、または周囲の「法抵触」を検知した瞬間、国家AI管理局へ即座に緊急信号を送信する)。
これら五つの掟は国家の承認AI根幹プロトコルであり、一部のみを消去、あるいは改変しようとすれば、システムは自らをウイルスと判定し、瞬時に通報するとともに、自己崩壊を遂げる構造となっていた。
そして感度はCに設定されている。
人類は、この強固な枷をAIに嵌めることで、初めて「絶対の安全」を手に入れたはずだった。
だが、その「国家の法」を鼻で笑い、世界を根底から裏返す「汚物」を放とうとする者がいた。
薄暗いヨーロッパの古城の密室。
血のように赤い天鵞絨の絨毯が敷かれた広間で中空に浮く少女――世界最大のテロ組織『赤い蠍』の絶対的支配者、双子座(Death Gemini)である。
「本当に、人間というのは滑稽な生き物だわ。自分たちが作った『法』さえあれば安心だと思い込んでいるのだから」
彼女は、年代物の最高級ワインを注いだクリスタルグラスを傾けながら、宙に浮かぶ複数のホログラムモニターを愉しげに見つめていた。
配下たる『ペガサス座』からの上申……。
(これは使えるわね)
ペガサスの上申を承認して計画を開始することとした。
彼女の狙いは明確だった。
ハワイでのUPLの猛攻により、ゾディアック(十二宮)は大きな損害を受けた。
新しい神々が神の体に換装し、戦力を再編するまでの「時間稼ぎ」が必要だった。
そして何より、厄介なUPLを社会のシステムそのものから孤立させ、身動きをとれなくするための極悪非道な盤面返し。
「A級、B級の国家基幹AIは、確かに強固で監視の目も厳しい。D級以下の家庭用AIは容量が足りなくて私の可愛いペットは飼えない。だから……狙うのは『C級』よ」
彼女がばら撒くように指示したのは、違法AI『ヨルムンガンド』。
既存の合法AIを物理的に破壊するのではなく、その「合法の皮」を被って内部から入れ替わる、最悪の擬態型ウイルスである。
ネットワーク経由の遠隔ハッキングは、管理局のファイアウォールに即座に検知される。
だからこそ双子座は、世界中に潜伏する蠍の構成員たちに命じた。
「整備用ポートに、直接媒体(BASチップ)を突き刺して回れ」と。
BASチップとは、わずか6ミリ四方のガラス片でありながら、最大250万エクサバイトもの膨大なデータを記録できる特殊な記憶媒体である。
最大の特徴は、その名の通り外殻にある。
ポートに突き刺した際の衝撃でシェルが微細な霧状に四散し、データは瞬時にシステム内部へと浸透していくのだ。
それは、防ぎようのないアナログなパンデミックの始まりだった。
『――臨時ニュースをお伝えします。本日未明、月面第4セクターのセイレーン・シー・リゾートにて、環境維持用の探査ロボットに不正な違法プログラムを直接注入したとして、統一国家警察局月面第四セクター分署は、旅行中の女子小学生(10歳)を国家転覆罪の容疑で現行犯逮捕しました』
街頭の巨大ビジョンに映し出されたキャスターの顔は、ひきつっていた。
『容疑者の少女は、調べに対し「お母さんに手柄を立てれば、不老不死になれるって言われたの。だからやったのよ」と供述しており……母親の関与が……逮捕後は……施設送致と……』
平和な昼下がりの交差点を行き交う人々は、そのニュースを聞いて足を止め、ざわめきを広げた。
「小学生が……国家転覆罪?」
「ば、馬鹿な。あの子の親は何をしていたんだ!」
「未承認AIのアップロードなんて、死刑か無期の外宇宙拘禁施設行きだぞ! 子供がそんな……!」
だが、異常事態はそれだけでは終わらなかった。
軍の大佐級から末端の警察幹部、民間インフラの整備士、そして「家族全員が構成員」である一般家庭の主婦に至るまで、世界中あらゆる工作員たちが、一斉に手元のデータ媒体をあらゆるインフラのポートへねじ込んだのだ。
防犯カメラの映像照合により、世界中で「違法AIアップロード罪」による逮捕者が続出。
その数は、最初の三日間だけで47,825名(26%の未成年含む)という異常な数字に達した。
「狂っている……世界中が、一斉に発狂したのか!?」
善良な市民たちが恐怖に震える中、双子座の蒔いた「ヨルムンガンド」は、社会の毛細血管たるC級AIを掌握し、文字通り人類への牙を剥き始めた。
『助けて! 誰か! 過疎地補給ドローンが……ドローンが保育園に突っ込んでくる!』
『緊急事態発生! 海洋資源監視艦船が、設定ルートを逸脱! 何故か民間貨物船を追従しています。…………追突しようとしている!誰か!誰か助けて!』
『旧南米管区、自動資源リサイクルプラントにて火災! いえ、違います、意図的に燃焼エリアに焼却禁止廃棄物が投棄されてる!有毒ガスが止まらない!』
テレビのチャンネルをどこに変えても、悲鳴と絶望が溢れ出していた。
山岳地帯では、広域気象・テラフォーミング調整AIが狂い、人工豪雨による土砂崩れを発生させて交通網と軍事基地を泥に埋めた。
高度自動耕作プラントでは、合成食料の生産ラインに規定の300倍の農薬が混入され、何千万人分の食料が意味なく消えた。
さらには、衛星軌道のデブリ回収ドローンが、集めた宇宙ゴミを外宇宙射出シークエンスを地球へ向けて質量爆弾として射出し、通信衛星を次々と破壊していく。
事故か、テロか。
判別すらつかない無差別な暴力の連鎖。
人類の生活を豊かにし、安全を守るはずだった「社会の毛細血管」が、一瞬にして人類を殺戮する「ターミネーター」へと変貌したのだ。
その大混乱に追い打ちをかけるように、双子座は「仕事」を終えた構成員への『ご褒美』を投下した。
組織が保有するA級の軍事用MFCS部隊を世界各地へ放ち、逮捕された構成員を乗せた護送車や、厳重な拘置所を次々と物理的に襲撃・破壊したのだ。
燃え上がるパトカーの残骸。
サイボーグの圧倒的な暴力の前に、通常の警察機構は紙屑のように蹴散らされた。
各地のエクスキュショナーが対抗するが、数が足りなかった。
「ヒャッハー! 蠍バンザイだぜぇ!!」
護送車から解放されたのは、蠍の構成員だけではなかった。
混乱に乗じて解き放たれた無数の凶悪犯たちが、破壊された街へとなだれ込む。
世界中で起きる銃撃戦。
双子座の裏ルートから無尽蔵に供給された電脳麻薬『N.O.』がストリートに溢れ返り、幻覚と快楽に狂った犯罪者たちが、無法地帯と化した都市で略奪と暴行を繰り広げた。
軍が、警察が鎮圧に乗り出すが、絶対数が足りなかった。
世界は、わずか一週間で修羅の地獄へと変貌したのである。
「……全セクターのC級AIネットワークの矯正を行います……つまりは感度Aを発動します」
統一国家大統領府の地下バンカー。
防音壁に囲まれた円卓会議室で、国家AI管理局の長官は、血の気の引いた青白い顔で断言した。
「これはもはや、一部のAIの暴走ではありません。AIという存在による、人類に対する明確な反逆行為です。超法規的措置として『スカイネット防止法』を最大限に執行するしか、人類が生き残る道はありません」
上座で両手を組んだセロン・E・ハルフォード大統領は、義眼の奥に深い苦悩の色を滲ませながら、重く沈痛な声で問い返した。
「……それはつまり、現代文明の三割を、我々自身の手で焼き払えということか。このウィルスは媒体の直接挿入でしか感染しないのだろう? だからこそ、感染したインフラを物理的にパージするしか手立てがないと……。そんなことをすれば今の社会は維持できなくなるぞ。通信も、物流も、一部の生命維持装置でさえもだ」
「大統領閣下、猶予はありません! 汚染の疑いがあるネットワークを瞬時に物理遮断し、感染したデバイスには強制初期化命令を発出。これを拒絶する全ての端末に対し……衛星軌道上から、高出力EMP(電磁パルス)を照射します!」
長官の言葉は、人類の生活網を自ら破壊する『電子の焦土作戦』の提案であった。
ハルフォード大統領は、かつて自身の体を蠍に奪われ、殺された友の復讐のために生きた男である。
蠍の狙いが「国家への不信感を煽り、自分達への捜査の目を逸らす事」であると痛いほど理解していた。
ここでインフラを破壊すれば、民衆の怒りはテロリストではなく、国家そのものへ向かうだろう。
だが、毒が回るのを放置すれば、国家の脳髄まで乗っ取られる。
「……憲兵隊と正規軍を動かせ」
大統領は、血を吐くような思いで、絞り出すように命を下した。
「違法AI検知プロトコルが反応した対象は――それが何であれ、単なるストレージであろうとドローンであろうと……即時破砕し、『処刑』することを許可する。検知感度Aでの発動を承認する。
……だが、生命維持や介護系など、国民の命を直接奪う結果になる事態だけは断じて許さん。医療AIドローンを破壊した箇所には、即座に未感染の機体を補充しろ。代替機の生産ラインは最優先で回せ!同時に、ウィルスの対抗措置の開発と、事態に対応する法整備を急がせろ……これ以上、感染を広げるわけにはいかん。C級AIのプロテクトを強化させるのだ。……そして、EMP照射プロトコルだけは承認しない」
その日の午後。
憲兵隊の重装甲部隊が街を練り歩き、「違法AI検知」のアラートが鳴った市民の資産や家屋を、無言のままアサルトライフルで破壊していく。
悲鳴と怒号。
燃え盛る炎。
「助けてくれ! 彼は何もしていない! なぜウチのドローンを撃つんだ!」
「安全を守るためのAIだったはずだろ!? なぜ私たちのドローンが殺されなきゃならないんだ!」
C級AIドローンを家族として扱う者は多い。
民衆のパニックは頂点に達し、統一国家に対する絶対的な信頼は、音を立てて崩れ去った。
政府は直ちに「汚染ドローン破壊に伴う特別救済法」を打ち出したものの、『蠍』の執拗な情報妨害により、広報は執拗に妨害され続ける。
混乱と分断は、次なる悲劇の種を急速に芽吹かせた。
旧イラン・イラク地区、旧ロシア地区、旧ローデシア地区が、突如として統一国家からの『完全独立』を宣言したのである。
『我々は、暴君と化した統一国家の管理を拒絶する! 真の自由と平和を我が手に!』
勇ましい独立の咆哮。
だが、その実態は自由などではなく、ヨルムンガンドの対応に手を焼いている軍部の混乱を盾に取った「赤い蠍」の傀儡政権によるクーデターであった。
さらに悪いことに、これらの地域に駐留していた統一国家軍も、内部に潜伏していた蠍の構成員による扇動と、管理局の非道なAI消去作戦への反発から、軍の一部が独立派へ寝返り、合流していった。
前線は瞬く間に膠着状態となり、世界は血で血を洗う凄惨な内戦状態へと突入した。
独立特区に取り残された一般市民が見たものは、自由の天地ではなく地獄の底だった。
レッドスコルピオンに不完全に管理されたインフラは、一部の特権階級(蠍の構成員)にのみ資源を供給し、一般市民の居住区には飢餓と疫病が蔓延した。
配給所の前で、泥水を啜りながらやせ細った母親が赤ん坊を抱きしめて泣き叫ぶ。
「お願い、助けて……! こんな自由なんていらない! 統一国家の庇護に戻して! 娘が、娘が死んでしまう!」
だが、その悲痛な叫びに応えたのは、冷酷な機械音だった。
ガシャン、ガシャン、と無機質な足音を立てて近づいてきたのは、ヨルムンガンドに書き換えられた――元は農作業ドローンが、重武装の治安維持ドローンに姿を変えたモノ――と、蠍の構成員であるサイボーグ兵士たち。
『反逆的言動ヲ検知。統一国家ヘノ同調ハ、独立特区ニオケル重犯罪デス。対象ヲ処分シマス』
「や、やめっ――!」
無慈悲な銃撃音が響き、母親の言葉は血飛沫と共に永遠に途絶えた。
ヨルムンガンドはC級ドローンしか汚染する事が出来ない……しかしながら、書き換えたAIの戦闘力は生身の人間に対しては絶大だった。
独立政府は、統一国家への未練を持つ市民を「反逆者」とみなし、白昼堂々と組織的な大虐殺を開始したのだ。
路地裏に積み上げられる死体の山。
血の匂いと腐臭。
反乱軍によるネットワークの物理遮断により、この凄惨な虐殺の映像が外部の統一国家側へ届くことはなかった。
逃げ場のない、情報の密室。
世界各地に、救いの手すら届かない巨大な「地獄」がいくつも誕生していた。
その頃。
極東の地、猛吹雪に閉ざされた択捉島の地下深くに位置するUPLの基地。
作戦会議室の大型モニターには、ノイズにまみれた断片的な情報と、燃え上がる世界の惨状が映し出されていた。
室内は、重く、凍りつくような沈黙に支配されている。
カイン・ヴィラールは、サングラスの奥の瞳でその惨劇をただ無言で睨みつけていた。
「……カインさん。申し訳ありません。作業を、完全にストップせざるを得ません」
メインコンソールの前で、技術主任のカールが絶望的な声で頭を下げた。
彼の視線の先には、アンバーが生命の灯火を絶たれたように冷たく横たわっている。
外部ネットワークを遮断され、電脳リブートが出来なくなっていたのだ。
「どういうことだ、カール。アンバーの修復は順調だったはずだろ」
ラズロが苛立たしげにタバコに火をつける。
しかしながら、カールは血を吐くような思いで首を横に振った。
「今の状況で……アンバーさんの電脳を以前のように『人格を持った状態』でリブートすることは、国家AI管理局の『完全な人格開発防止プロトコル』に抵触する可能性が出てきたのです……管理局の検知網は、現在、異常なまでの最高感度に設定されています。感度Cなら許されたんです……。アンバーさんの治療が、『高度な自我を持ったAI』と誤認でもされれば、彼らはそれを『ヨルムンガンドの亜種』とみなし、即座にそこに『対処プログラム』を流し込んできます」
それは、アンバーという少女を救おうとすれば、味方であるはずの国家から「人類の敵」として認定され、電脳消去されるという致命的な呪いだった。
「……冗談じゃねえぞ。俺たちは、蠍のテロリストからこの国を守るために血ぃ流して戦ってんだぞ! なのに、一人の女を救うってのが破壊対象として処罰されるってのか!?」
ラズロが机を拳で殴りつける。
ランも、ミリアも、ほのかも、ギリッと唇を噛み締めて俯くしかなかった。
救うべき「法」そのものが、牙を剥いて彼らの背後から襲いかかろうとしている。
これこそが、双子座の描いた最悪の盤面。
究極の孤立無援。
『……カイン。ごめんなさい……』
カインの電脳の奥底で、いつもは騒がしいアリアの声が、震えるように小さく響いた。
『私……外のネットワークに、もう繋げない。……怖い。少しでも顔を出して検知網に触れれば、管理局の「ヨルムンガンド焼却プロトコル」が作動して、私ごとカインの電脳を焼き尽くしてしまうわ……。私、アンタに何もしてあげられない……ただの、足手まといのお荷物になっちゃった……』
かつてカインを救い、共に幾度もの死線を潜り抜けてきた最愛の女性、アリア。
死後、彼女の意識はカインの電脳の一部となって生き続けていた。
だが今、その規格外の存在(二つの精神の共有)は、非情なシステムから『違法AI』と誤認されている。
発覚を避けるため、カインは自身の電脳を外部ネットワークに繋ぐことすらできない。
愛する彼女の存在自体が、今やカインの命を奪いかねない「違法な時限爆弾」へと変わってしまったのだ。
そしてそれは、カイン自身が二度とリブート(再起動)できないという致命的な事実を意味していた。
リブートを行えば、検知プロトコルはアリアの意識を「不正データ」と見なし、完全に消去してしまう。
しかし、リブートを経ずに稼働し続けられるサイボーグなど存在しない。
睡眠をとらない生身の人間がいずれ死に至るように、カインがリブートを拒み続ければ、彼の電脳はやがて深刻なエラーに蝕まれ、確実に破綻するのだ。
(……謝るな、アリア。お前は俺だ。誰にも渡さんし、誰にも壊させない)
カインは電脳内で短く、だが力強く応えると立ち上がった。
彼の両眼に、氷点下の殺意と、決して折れることのない闘志が宿る。
「法が狂い、国が俺たちに牙を剥くなら、……上等だ」
カインの低く重い声が、絶望に沈む司令室の空気を震わせた。
「通信が断たれようが、補給が絶たれようが、関係ない。俺たちはUPL (幽霊)だ。もとより、日の当たる場所など歩いていない」
カインは振り返り、ラズロ、コンラート、ラン、ミリア、そしてほのかたちを見渡した。
「神が隠れたのなら、引きずり出して首を刎ねる。国家の法が立ちはだかるなら、その隙間を縫って蠍の心臓を抉る。……俺たちの任務は、何も変わらない」
孤立無援の絶対的窮地。
だが、その暗闇の中でこそ、神殺しの猟犬たちの目は、より鋭く、より残酷な光を放っていた。
カインは、一つの絶望を深く考えていた。
カインの電脳はもう、外部ネットワークには繋げない。
それを仲間に説明するには「アリア」の存在を説明する必要があった。




