第107話 ある雪の降り頻る日に
統一国家海軍・択捉戦略ノード・カトラF-33地区に秘匿されたUPL(通称UE-0 "PHANTOM-LIMB"(ファントム・リム通称UPL)区画にも、等しく冬は訪れていた。
基地の周囲を覆うのは、優に四メートルを超える深い積雪である。
しかし、強固な壁に守られた基地の内部に足を踏み入れれば、そこは別世界のように快適な空間が広がっている。
可愛らしいフォルムをした四足歩行型の清掃ドローンたちが、モーター音を小さく響かせながらせっせと雪をかき分けているおかげで、路面は黒々と綺麗な状態が保たれていた。
コントロールルームに集まったカール、ノエル、そしてほのかの声は、緊張と興奮に弾んでいた。
大型モニターの前でデータパッドを叩いていたカールが、振り返って新しいリーダーであるカインに報告の声を上げる。
「中尉!USCIB(統一国家刑事局)からの回答が届きました。……かなり、キナ臭い内容です」
カールの声のトーンに、室内の空気がピンと張り詰める。
「国家放送局の代表であり、メディアの女帝と呼ばれる女、ベルサリア・ルーフベート。世界的アイドルユニット『AQZ』のリーダー格として絶大な人気を誇る女、アリシア・レオンハルト。そして、アジアブロックの日本地区長を務める女、レン・ヨシモト……。この三名が、それぞれ同時期から今日に至るまで、不可解な長期休養に入り、完全に公の場から姿を消しています」
カールは一度言葉を切り、さらに重い事実を口にした。
「そして……USCIBのチーフであるクロエ・フォン・ヴァレンティーヌが、自殺体で発見されました。義体ではなく、生身の女の遺体だったとのことです」
その報告を聞き、カインは眉間深く皺を寄せて低く唸った。
(クロエが、自殺……?)
思考の海に沈みかけた彼の脳内に、直接、愛しい女の声が響き渡る。
『カイン……分かるわよね?』
(ああ、アリア……。クロエの死は偽装だ。彼女ほどの狡猾な女が自ら命を絶つはずがない。間違いなく、彼女は死を装って表舞台から消え、全く別の新しい人生を生き始めた……。ただ、それだけのことだ。そして……)
カインは、無意識に言葉を飲み込んだ。薄ら寒い悪寒が背筋を駆け上がるのを感じる。
クロエは、ゾディアックではないのか?
未だ正体が不明なままのゾディアックは、もう限られている。
そして、「Death Gemini」……おそらくは、彼らが追う巨大な闇の組織「赤い蠍」の首領である『双子座』。
まさか、クロエが双子座なのか?
いや、そんなことがあるのか。
だが、もしそうだとすれば、あらゆる手回しの良さや情報操作の完璧さにも説明がついてしまう。
アリアの射殺すらも……。
これらの推測は、鋼のように冷静なカインの心を、芯から冷やしていくようだった。
「カール、USCIBには引き続き、全力を挙げて捜査を依頼してくれ……あと中尉はやめろ、カインでいい」
カインは息を吐き出し、冷静な声で指示を飛ばす。
「消えた三人の女と、クロエ。そいつらの周辺を徹底的に当たってくれ。おそらく、そのうちの誰かは『蠍』だ。それなりの確証が取れそうなら、USCIBには手を出させず、我々UPLで直接対応する。相手は危険すぎる」
「了解ですわ。カイン」
ノエルが気合を入れたかのように優雅にお辞儀をし、コンソールに向かう。
その横で、ほのかは新しいリーダーとして毅然と振る舞うカインの的確な指示を、少し頬を赤らめながら見つめていた。
それはとても頼もしい背中だった。
「それと、クロエの死については、徹底的に裏を調べてくれ。自殺の処理を自発的に買って出た担当者がいたなら、そいつは蠍の可能性が高い。そいつも洗うんだ」
「了解ですわ……。本当に……カインさんがリーダーとして居てくだされば、どんな絶望的な状況でも何とかなりますね、みなさん」
ノエルが微笑みながらくるりと周囲を見渡すと、ランが脚を優雅に組み替えながら大きく頷いた。
「そうね……私も、そう思うわよ。カインならやり遂げるわ」
コンラートは「違いねえ」とニヤリと笑って親指を立て、カインにウィンクを送る。
ラズロはといえば……部屋の隅で、マリアンヌと一緒に何やら楽しげにコソコソと話をしている。
どうやら相変わらずのマイペースらしい。
その日の夜。
カインの広々としたヴィラは、静寂に包まれていた。
窓の外には、しんしんと降り積もる雪。
カインは一人、薄暗いリビングのソファに深く腰掛け、物思いに耽っていた。
いや、正確には「一人」ではない。
彼は、自らの内に存在するアリアと対話をしているのだ。
『ねぇ、カイン……。UPLのリーダーになっちゃったからさぁ……、もう昔みたいに、気楽にふらっと遊びに行けないね』
少し寂しそうな、けれど甘えるようなアリアの声が、カインの電脳に優しく響く。
(そうだな……。窮屈な思いをさせて悪かったな。どこか、行きたい場所があるのか?)
『そうだねぇ……。でも、私はまぁ、カインの中にこうして居られるからね。特別どこにも行かなくてもいいかなって思ってるよ。……美味しいものさえあって、好きなお酒が飲めれば大満足だし……。それに、何より……カインがずっと一緒にいてくれるしね』
ふふっ、と笑うアリアの気配に、カインの口元も自然と緩む。
(酒は……善処しよう。だが、食べる量はせめて太らないくらいに調整してくれよ。お前の食欲は時々恐ろしいからな)
『ちょっとカイン、失礼ね! あなた、どうせいくら食べても、体が適正栄養値を取り込んだら、残りは綺麗に体外へ排出されるだけのシステムじゃない。どう頑張ったって太れない体なんだから、いいじゃないの』
(まぁ……理屈の上ではそうだな……。じゃあ、食べ物が勿体無い、というのはどうだ?)
からかうように返すと、アリアは『あははっ!』とケラケラと笑い声を上げた。
しかし、その明るい笑い声の裏で、カインの心には重く暗い影が落ちていた。
(アンバー……)
カインの思考は、どうしても彼女の元へと引きずられてしまう。
(アンバーは、完全に助かると思ったんだ。あの絶望的な状況から、奇跡的に全身の傷が治った。……それなのに、まさか……精神の根幹データが足りないなんて。魂とも言える大事な部分が壊れているなんて、一体誰が予想できる?)
カインは、ギュッと拳を握りしめた。
ビールを一口飲む。
(最悪の方の奇跡を引き当てちまったんだ。生体として完全な体に、頭蓋と電脳だけが機械のままの生身の体……。いや、両腕の肘から先、そこも義体だったな。アンバー……あいつ、今なら21歳だったか? 電脳で脳死状態だなんて……。あの親父に、一体何て説明すればいいんだ……?)
後悔と罪悪感が、泥のように胸の奥底に溜まっていく。
『カイン……。やっぱり、アンバーのことが心配なのね……』
アリアの声が、急に心配そうにトーンダウンした。
(前までは心の深層まで俺と一緒になったんだ、俺のどうしようもない気持ちは、痛いほど分かるだろう? アリア)
カインは自嘲気味に息を吐く。
(……ああ、可愛かったさ。昔から、俺の後ろをちょこちょことまとわりついてきては笑いかけてくる……黒に近いブロンドの髪を揺らしてさ。俺にとっては、本当に可愛い妹みたいな存在なんだ)
重苦しい空気を察したのか、アリアは少しおどけたような調子で言葉を投げかけてきた。
『もしかして、元の私よりオッパイが大きいのも関係あるのかなぁ? カイン?』
(アリア……。頼むから、そういうことを電脳内で言うのはやめてくれ。恥ずかしいだろう。バストの大きさなんて、微塵も関係ない)
『ふふっ、照れてるの? カインってば可愛いところあるんだから』
(話を戻すぞ、アリア……。アンバーは大切な人だ。だが、それは恋愛感情という愛ではない。……友人であり、大切な友人の娘という意味だ。それ以上でも以下でもない)
カインが真面目に諭すと、アリアも真剣なトーンに戻った。
『そうよねぇ。分かってるわ。だって、カインの心の声が私に丸聞こえだった時、『アリアが好きだ!』って、ものすごく強くて熱い心の声が響いてきたもんね! 私、あれすごく嬉しかったんだから!』
全く恥じらうことも無く愛を語るアリアに、カインは照れ隠しに軽く咳払いをした。
赤く火照りそうな顔を誤魔化すためにビールを多めに飲み込んだ。
『あとね、カイン。希望を捨てちゃダメ。彼女はまだ完全に脳死と決まったわけではないのよ? あくまで可能性の話。きっと、ちゃんと目を開ける日が来るわ。私はそう信じてるし、一緒に待つからね』
(ああ、分かったよ。……まったく、少しは満足したか?)
『したした! 大満足よ。……だからカイン……焦らずに待ちましょう。可能性がある限り』
(ああ……そうだな……。だが、いつ回復するかも分からない。生存の確率は、時間と共にいつかゼロになるかもしれない……。それが明日なのか、何年後なのかも分からないんだ……)
『カイン……。アンバーの事は、今は信じて待つしかないのよ。……まだ、これからよ。私は、彼女は絶対に目覚めると思う。そうして彼女が目を覚ましたら、いよいよ本格的なカイン争奪戦の開幕ね! 私だって、絶対に負けないんだから!』
アリアの力強い言葉に、カインの心の澱が少しだけ晴れていく。
(ああ……そうだな。目覚めるのを、待とう)
カインが電脳空間へと思考を深くダイブさせると、彼のアバターの隣に、アリアのアバターがちょこんと可愛らしく座っていた。
その衣装を見て、カインは目を丸くする。海軍の精悍な制服をアレンジした上着に、清楚な白いプリーツスカート。
(アリア……。まあ、この前も着てたのは知っているが。……ああ……何度見てもよく似合っている。……あれだろう? 海軍音楽隊の衣装だ。……違うか?)
『そうよ……。ふふっ、本当は生身で……カインに見てもらいたかったなって思って……』
はにかむように俯くアリアの姿は、ひどく愛おしい。
(そうだな。本当は、お前が海軍の音楽隊にいる時に、生で見たかったよ……。きっと、とびきり可愛かったんだろうな)
『見て欲しかったなって思うけど、面と向かって褒められると、やっぱり照れるな……。えへへ……ありがとう、カイン……』
電脳の海の中で、二人のアバターはそっと寄り添い、重なり合う。
言葉を超えて、二人の意識は優しく、深く混ざり合っていく。
それは、形のない電脳空間の中だけで許された、消え入りそうに悲しくも、永遠に続くかのような深い愛の儀式であった。
しかし、深すぎる愛と共に、深すぎる絶望も伴っていた。
そこにはただ横になっているだけの男が居るだけなのだから。
一方その頃。
ミリアに与えられたヴィラの一室では、深刻な顔をしたほのかによる、厳しい「戦利品の見分」が行われていた。
先日、ミリアがランと一緒にショッピングに出かけた際に買い込んできた服の数々が、ベッドの上に広げられている。
「ミリー……。あなた、買い物に行く前、『仕事用の服を買いに行く』って言ったわよね?」
ほのかの冷ややかな声に、ミリアは小さく肩を震わせて「はい……ごめんなさい……」としゅんとしている。
それもそのはずだった。ほのかの目の前に並べられた五着の服は、どれもこれもフリルがこれでもかとあしらわれ、大きなリボンが胸元や背中に鎮座し、パニエでスカートをふんわりと膨らませる前提の、バリバリの「ロリータファッション」だったのだ。
ご丁寧にヘッドドレスやカチューシャまで並べられている。
黒を基調としたゴシック調のものから、ピンクと白のフリルが目に痛いほどの甘いデザインのものまで、見事なラインナップである。
「ねえ? ぜひ教えてほしいんだけど、ミリアさん……。こんなヒラヒラの『ロリータファッション』で、一体どうやって激しいエージェントの仕事をするおつもりなのかしら? 敵の前でくるっと回ってポーズとると良いことでもあるのですか?」
ほのかが腕を組み、ジト目でミリアを睨みつける。
「ねえ……ほのかぁ……。ちゃんと謝ってるじゃない……。お願い、許してよぉ……。お店で見たら、どうしても可愛くて我慢できなくて……ランさんも『買っちゃえ買っちゃえ』って」
ミリアがウルウルとした瞳で見つめてくるが、ほのかは盛大に、これ見よがしなため息をついた。
「あのねぇ……。いつもなら、私も『もう、ミリーは仕方ないなぁ』ってケラケラ笑いながら許すよ? でもね、今回は状況が違うの。この間の会談の帰り、ヴェノムの中で、カインさんが厳しい顔で言ってたの」
ほのかは眉間に皺を寄せると、カインの低い声を真似るように少し声を落とした。
『即座に作戦に移るぞ。この赤い蠍の組織が弱体化している、今だけしかチャンスが無い。ラズロとミリア、ラン、コンラート、全員出番だな』
「ってさ……! つまりさぁ……もう! のんびり別の服を買い物に行き直す暇なんて、どこにもないのよ!」
ほのかの怒声に、ミリアは「ひっ」と短い悲鳴を上げて頭を抱えた。
「ええええ! じゃ、じゃあ……私……このフリフリの格好で? 銃を撃ったり走ったり、エージェントとして作戦に参加するの!?」
「当たり前でしょ、ミリー……。あんたが自分で選んで買ってきたのよ? どうするの……。……一応、私の服を貸そうかとも思ったけど? うちら、身長が違いすぎるのわかるよね? 私の服着たら、あなたツンツルテンよ?」
ほのかは呆れ果てて肩をすくめる。
「……はぁ……。そう言えば、コンラートさんが前に『ランさんの服のセンスは、チャイナドレス以外は絶望的に悪すぎる』って愚痴ってたの、今更思い出したわ……。ランさんに服の相談したのが間違いだったのよ」
「そんなぁ……。私……この前ほのかが用意してくれた服以外、ここにあるロリータ服しかないわ……どうしよう……」
絶望の淵に沈むミリア。ベッドの上のフリルたちが、「私たちを着なさいよ」と彼女を見つめ返しているようだった。
そんな騒がしいミリアの心を慰めるように、ふと、どこからともなく美しいピアノの音色が聴こえてきた。
静かな夜の空気を震わせて、隣のヴィラから流れてくるその旋律は、優しく、そしてどこか物悲しい。
今日もカインが弾いているのだ。
「……カインさんのピアノ、本当に素敵だよね……。なんだか、心が洗われるみたい……」
ミリアは怒りを忘れ、うっとりと窓の外に耳を傾ける。
「ちょっとミリー、いくら素敵だからって、好きにならないでよね」
ほのかが慌てて釘を刺すと、ミリアは即座に真顔になって答えた。
「ムリ、もう好き」
「ええええっ!?」
雪降る択捉の夜は、それぞれの想いと騒動を乗せて、静かに更けていった。




