第106話 言葉の無い会談
灰色の雲が垂れ込める極東の空を、一機の漆黒の怪鳥が音もなく切り裂いていく。
マリアンヌが操る特務強襲輸送ヘリ『ヴェノム・ワイバーン』は、レーダー網を完全に欺瞞しながら、ユーラシア大陸の東端に位置する巨大な軍事要塞へと滑り込むように降下していった。
統一国家海軍・極東統合司令部『ポルタ・ニグラ・ウラジオストック基地』。
「黒い門」の名を冠するその基地は、現在、最高レベルの警戒態勢(デフコン1)が敷かれていた。
表向きの理由は「大統領による前線視察」。
だが、その厳重すぎる警戒の真の目的は、この世に存在しないはずの幽霊部隊(UPL)の指揮官を、誰の目にも触れさせずに大統領の元へ導くための壮大なカモフラージュであった。
ヴェノム・ワイバーンが幾つかの隔壁を通過してVIP専用の第三階層地下ハンガーに静かに着陸する。
ハッチが開き、カイン・ヴィラールが重々しいブーツの音を立てて冷たいコンクリートの床に降り立った。
彼の背後には、緊張の面持ちで端末を抱える副官役のほのかと、内部に恐ろしい破壊の神を内包した義腕を無造作にぶら下げながらも、歴戦の猛獣としての威圧感を放つ護衛のラズロが付き従っている。
一見して武器は持っていないが、ラズロを倒せるMFCSなどまずいない。
「……待たされるかと思ったが、どうやらお偉方の手続きは省略らしいな」
カインがサングラスの奥の瞳を細めた先には、基地の司令官クラスすら立ち入れない最深部へと直接繋がる、専用の直通エレベーターがすでに口を開けて待っていた。
まるで最重要国賓を遇するかのような、一切のタイムロスを排除した導線。
無機質なエレベーターが上昇を終え、重厚な防弾扉が左右上下に開く。
そこは、外部からのあらゆる電子干渉を遮断する特殊合金と特殊樹脂で覆われた、冷え切ったセーフルームだった。
部屋の中央、巨大なマホガニーのテーブルの奥に、その男は立っていた。
第39代統一国家大統領、セロン・E・ハルフォード。
仕立ての良いスーツに身を包んでいるが、その布地の下がジュリアン中尉と同じく、凄惨な過去によって生身を失った「完全な機械の体」であることは、カインには痛いほど分かっていた。
「……カインか。対等に話すのは初めてだな」
大統領の低く、しかし空間を支配するほどの重みを持った声が電脳に響く。
その声には、一国の長としての威厳と同時に、長年の戦友を失った一人の男としての深い哀愁が混じっていた。
(近距離秘匿回線でいこう。私は電脳だ。ジュリアン中尉の事は……聞いた)
ハルフォードはゆっくりと歩み寄り、窓の外の荒涼としたウラジオストックの景色に目をやった。
(私は、あの男はいつかこうなると思っていたよ。……酷な言い方だがな。ヤツは……どこか、死に急いでいた。あの日からずっと、自分の命を燃やし尽くす場所を探し続けていたんだ)
大統領の言葉に、カインは静かに頭を下げた。
「はい。大統領閣下、そして、私のような日陰者が直接の面会を申し込む無礼をお許しください」
「いや、謝る必要はない」
大統領は振り返り、鋭い義眼でカインを真っ直ぐに射抜いた。
再び電脳通信に戻る。
(UPLは、隠された国家の牙だ。統一国家である我が国……いや、この我が惑星において、君たちの存在は参謀総長にすら優先すると考えてくれ。君はまだ、UPLのトップというものが、どれだけの重さと権力を持つものか分かっていないだろうがな)
大統領は懐から、鈍く光る小さなガラスチップを取り出した。
(渡しておこう。UPLのメンバーが……そして何より、あのジュリアンが次のリーダーに君を選んだのなら、君は間違いなくジュリアンの後継者だ。……大統領として、君に命じる)
ハルフォードの瞳に、蠍への底知れぬ憎悪が燃え上がった。
(『蠍』を、根絶やしにしろ。警察も、軍も、自由に使って構わん。今日この瞬間から、君の軍における実質的な権限は『元帥』に準じるものとする)
大統領の言葉に、背後に控えていたほのかが息を呑む音が聞こえた。
ほのかには聞こえていないはずの電脳通信だが、緊張感は雰囲気でわかる。
元帥待遇。
それは、統一国家の全暴力を合法的に動かせる、神にも等しい絶対権限だ。
(しかしながら……軍と警察の内部にこそ、『蠍』は最も深く巣食っている。気をつけろ。誰も信じるな。……死ぬな。そして、奴らには確実に死んでもらう。……この権限を行使するため、君の公的な経歴は完全に抹消する。君を守るためだ、了承してくれ。君の家族には酷だがな)
(もはや血縁は居ません……異存はありません)
(それで、階級だが……)
大統領は少し表情を緩め、カインにガラスチップを差し出した。
「今日は天気がいいな」
「はい、ゴルフでもどうですか?」
(これだけの権限を持つ以上、対外的なカモフラージュが必要だ。最低でも『中将』になって欲しい。それ以下では、現場の司令官を黙らせるのに手間がかかる)
カインは無言でガラスチップを受け取ると、自らの首筋のインターフェースにそれを押し当てた。
直後、カインの電脳に、国家の最高機密レベルに属する絶大なアクセス権限と、膨大な軍事データが濁流となって流れ込んでくる。
それは、一個人が背負うにはあまりにも恐ろしい、国家という巨大な機構の「心臓」そのものだった。
「やはりゴルフよりビリヤードの方がいいのでは?」
(……すごいデータ量だ。分かるぞ……宇宙軍の航宙艦すら俺の指先一つで動かせるのか)
カインが電脳内で感嘆していると、視界の隅でいつも騒がしいはずのアリアが、信じられないほど静まり返っていることに気がついた。
彼女のアバターは、いつもならクスリと笑える衣装やドレスで着飾っているのに、今日はなぜか上品なグレーのタイトスカートのスーツに、黒で揃えたストッキングとヒール。
黒縁の伊達メガネまでかけている。
背筋をピンと伸ばし、膝を揃えて座り、完全にカチコチに固まっていた。
どうやら、一国の最高権力者である「大統領」という存在と、流れ込んできた権限のあまりの大きさに、完璧な「有能な秘書」を演じようとして極度に緊張しているらしい。
カインが内心で苦笑した直後、ハルフォード大統領の視線が、ふと机の上に置かれたペン立てへと不自然に動いた。
(消せ……)
ほんの僅かな、目配せ。
カインは即座にその意図を理解した。
指先に力を込め、首筋から抜き取ったばかりのガラスチップを、躊躇いなく「パキリ」とへし折った。
特殊な構造を持つチップは、折られた瞬間に霧散し、文字通り空気中へと消え去った。
BAS――バイオ・エアゾール・シェル。
(……イエス)
大統領が口の端を歪める。
この部屋は「安全」だとされているが、大統領の側近ですら蠍の息がかかっている可能性があるのだ。
盗聴器やナノカメラが存在しないという保証はない。
「スケジュールの調整をさせよう」
「わかりました。それでは私はフランス……パリでご連絡を待ちます」
(……なるほど。それで、階級の話だが)
(分かりました……。必ずや、私の代で十二宮をすべて殺して見せましょう)
カインは、大統領の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
(しかしながら……階級の昇進だけは、ごめんです。私の中の記憶にいる、ジュリアン中尉がそれを許さない。……私の階級は、『中尉』で止めておいてください)
あの日、愛する家族を失った瞬間に時が止まった男。
その男の「悲しみ」と「遺志」を受け継ぐ限り、カインもまた、その階級を超えるわけにはいかなかった。
それが、彼なりのジュリアンへの哀悼であり、蠍を滅ぼすまでの呪いの儀式なのだ。
大統領は、驚くことはなかった。
ただ、ひどく懐かしいものを見るような、哀しげな笑みを浮かべた。
(……中尉、か。君がそう言うような気はしていたよ。ジュリアンも、頑なに昇進を拒んでいたからな……分かった。君は今日から、UPL指揮官『カイン・ヴィラール中尉』だ)
(ありがとうございます。それと……部隊を再編するにあたり、人材が欲しいです。最前線でUPLで戦える『戦闘員』が二名。そして、ノエルを補佐する『オペレーター』を二名)
(よかろう。人選は完全に任せる。軍でも警察でも、自由に引き抜いたまえ)
大統領は大きく頷き、そして少しだけ声を潜めた。
「葉巻は吸うかね?」
「いいえ……やめました」
(だが、ゾディアック狩りは焦るな。彼らはハワイで致命的な傷を負ったが、200年を超えてこの国を牛耳る神を自称する化け物だ。……君という最強の『牙』が折れるようなことがあれば、それは我が国の死を意味するのだからな)
(ご忠告、感謝します)
カインが一礼すると、大統領は不意に腕時計に目をやった。
「さて……時間だ。君たちには『食事付きの非公式会談』と言っておいたな。隣の部屋に用意させてある」
カインは、微かに鼻で笑った。
(ブラフでしょう? 閣下)
「……ご一緒させていただきます」
(この基地に入ってから、我々の動線は完全に隔離されていました。私と閣下が会っている事実すら、極一部の人間しか知らないはず。それなのに、悠長に食卓を囲んでいれば、毒を盛られるか、部屋ごと爆破されるのがオチだ。……閣下の側近であっても、手放しでは信用できない。そう言いたいのでしょう?)
大統領は数秒間の沈黙の後、腹の底から湧き上がるような低い声で笑い出した。
(ふはははは! 素晴らしい。それでこそUPLだ。ジュリアンが見込んだだけのことはある)
大統領の笑い声は、この重苦しい二人の空気を一瞬だけ晴れやかにした。
(君の言う通りだ。私はこれから、軍の退屈な高官たちとここで『公式な』食事会をする。私が部屋を移った瞬間に、君たちは来た道を戻りたまえ。乗ってきたヴェノム・ワイバーンは、君の優秀な部下が、すでに追跡を撒くために別の地下ポイントへ移動させて待機しているはずだ)
(分かりました……大統領閣下)
カインは踵を返そうとしたが、ふと立ち止まり、背を向けたまま静かに言った。
(……それと。私はあの日を含めて、ジュリアン中尉の記憶を……その『悲しみ』のすべてを受け取りました)
その言葉に、ハルフォード大統領の背中がビクリと震えた。
あの日。
双子の娘が惨殺され、ジュリアンとハルフォードが肉体を失い、血の盟約を交わしたあの地獄の夜。
カインがその記憶を共有しているということは、彼が自分たちの「魂の共犯者」になったことを意味している。
(……そうか)
大統領の声は、先ほどまでの威厳ある響きを失い、一人の痛みを抱えた老兵のものになっていた。
(……それなら、今度会う時は『閣下』じゃなくて、『友人』と呼ばせてくれ。カイン。君がすべてを知ってくれたのなら……)
(……善処しましょう)
カインは振り返り、サングラスの奥でニヤリと笑った。
(次は、ゾディアック撃破の記念で、肉でも焼きますか?)
その挑発的な、しかし温かい提案に、ハルフォードは嬉しそうに義眼を細めた。
(いいな。俺はカンザス生まれだからな。BBQなら……俺に焼かせてもらおう)
(楽しみにさせていただきますよ。大統領閣下)
(プライベートで会う時は、名前で呼べ。……死ぬなよ、カイン。我が親友ジュリアンの……忘れ形見よ……)
男たちの間に、言葉以上の強固な密約が結ばれた瞬間だった。
カインは一礼すると、緊張で肩で息をしている副官のほのかを従え、会議室を後にした。
重厚な防弾扉が閉まる直前、後ろに控えていたラズロが、カインの肩を無言でドンと力強く叩いた。
言葉はなかったが、その手には(すごいなお前は。統一国家の大統領を相手に、一歩も引かねえなんてよ)という、相棒への絶対的な信頼と称賛が込められていた。
ラズロとほのかには、二人の電脳秘匿通信は聞こえていないが、事前の申し合わせで察していたのだ。
『ぷはぁぁぁっ! 緊張したぁぁぁっ! カイン、よくあんな偉い人と普通に喋れるわね! 私、息止まるかと思ったわ!』
エレベーターが降下を始めた瞬間、カインの電脳内で、タイトスカート姿のアリアがようやく息を吹き返し、バタバタと暴れ始めた。
(お前、サイボーグの電脳プログラムのくせに『息が止まる』ってなんだよ……)
カインは内心で呆れながらも、彼女のいつもの調子が戻ったことに、密かな安堵を覚えていた。
ウラジオストックの凍てつく風を切り裂き、ヴェノム・ワイバーンは再び灰色の空へと舞い上がる。
目指すのは、彼らの家族が待つ故郷――統一国家海軍・択捉戦略ノード・カトラ基地のUPL区画。
中尉の階級を電脳に刻み、国家の超権力を手にした新しい「聖剣」。
カイン・ヴィラール率いる新生UPLによる『蠍』狩りが今、始まろうとしていた。




