第105話 蒼い希望
択捉島の凍てつく海風が、初雪を混じらせながら分厚いコンクリートの防壁を叩く音が低く響いていた。
UPL秘密拠点「カトラ」の最深部、メディカル・ブロック。
無数のチューブと生体ケーブルに繋がれたアンバー・マクレーンは、青白い保存液の満ちたカプセルの中で、未だに深く、絶対的な静寂の中に沈んでいた。
外傷は完全に癒えているというのに、彼女がその重い瞼を開く気配はない。
青く光るインジケーターは、アンバーの肉体が完全に完治している事を意味していた。
「ドクター……。アンバーを、ニューヨークかどこかの設備の整った軍の総合病院へ転院させることはできないのか? ヒゲ親父……彼女の父親も、流石に気が気じゃないだろう」
カインは、カプセル越しにアンバーの穏やかすぎる寝顔を見つめながら、低い声で問いかけた。
しかし、その背後でコンソールを叩いていたカールが、ひどく重苦しい、鉛を飲み込んだかのような声で答えた。
「NYガンショップのヒゲ親父さん……バレットさんには、定期的に病状をお伝えしています。ですが……転院は……無理ですね。物理的に移動させられないというのもありますが、それ以上に意味がないんです。そもそも、彼女が侵されている『電脳麻薬性電脳融解症』は、ステージ4に達した時点で完治の症例が歴史上存在しないんです」
カールの指が止まり、彼は血走った目を伏せた。
「……通常、こんな状態になった患者は、法執行機関のエクスキューショナーによって、苦しむ前にエクスキューション(即刻処刑)されるのが常識です。アンバーさんは今、文字通り『奇跡の狭間』で薄氷の上に立っている状態なんですよ……」
「そうか……」
カインは小さく息を吐き出した。
「あのヒゲ親父……泣いてなきゃいいがな」
「定期連絡のたびに、向こうで声を押し殺して泣いておられますよ……。私に対して何度も『娘を頼むぅ、すまねぇなぁ』と……」
カールは唇を噛み締めた。
その声には、優秀な技師でありながら彼女を救い切れない自分への歯痒さが滲み出ていた。
そして、ドクターFが静かに歩み寄り、カインにとってさらに衝撃的な、残酷な事実を突きつけた。
「カインよ……覚悟はしておけ。『電脳の脳死』の可能性じゃ」
「……電脳の脳死?」
「うむ。今の彼女の電脳は、定期的にエラーを吐き出し、強制的なフル・リブートを繰り返しておる。もし、これが人格の『根幹データの重要部位』の完全な消失によるものならば、それはもう絶望じゃ。だが、もし人格データが電脳の深層に『散逸』しているだけならば……それが再び結びつけば、万に一つの生還の可能性は残されておる。じゃが……完全に根幹データがエラーを吐き出し続け、修復不能と判断された時点で……彼女の魂は消滅する……まだまだ分からん。今すぐ目覚めるかもしれんし……五年……十年後に目覚めるかもしれんのじゃ……」
エラーとリブートの果てしないループ。
それはまるで、アンバーの魂がこの世に残ろうと、必死に、泥臭くもがいている証明のようにも見えた。
「……分かった。二人とも、本当にご苦労だった。引き続き頼む」
カインは深く頷き、二人の肩を労うように視線を向けた。
「……カインさん、なんだかまるで、本当にジュリアン中尉みたいですね」
カールがふと、どこか懐かしむような、救われたような微笑みを浮かべた。
カインのその泰然とした佇まいに、今は亡き指揮官の面影を重ねたのだ。
司令室に戻ったカインは、ホログラム・テーブルの前に立ち、腕を組んで深く思考の海に沈んでいた。
(今、ラズロもミリアも復帰したが、UPLの主力戦力は4人では圧倒的に足りない。今が弱った『蠍』を叩き潰すチャンスだと言うのに……。それに索敵やバックアップの担い目が圧倒的に足りない……メイシーが並のオペレーター数人分の仕事をしていたんだ……)
『カイン……焦らないで。間違ってもUPLに「蠍」を入れるわけにはいかないんだから』
(ありがとうアリア……大丈夫さ。相談……だろ?)
『ふふん、分かってるじゃない。UPL候補がいたら深層まで気付かれずに電脳を覗いてやるわ』
カインは視線を上げ、モニター群と格闘しているノエルに声をかけた。
「ノエル。他に……UPLの新しい牙となるような、オペレーターの候補はいるか? メイシーの抜けた穴はあまりにも大きい」
ノエルはキーボードを打つ手を止め、疲労の滲む顔を向けた。
「UPLの基準を満たすレベルの人材は、まだ居ません……。もちろん水面下で網を張って探してはいますが……ただでさえ高度な技術が要求される上に、クリアランス(身上調査)が一番時間を食うんです。蠍の息がかかっていない身辺潔白な天才なんて、そう簡単に見つかるものではありませんわ」
「そうか……」
カインは再び沈黙した。
UPLの各防衛ノードを守る警護部隊には、エース級と呼べるMFCSが数名存在している。
だが、ハワイでミリアの第71中隊が壊滅した今、警護の穴を塞ぐのが急務であり、彼らを気安くこちらへ引き抜くわけにはいかなかった。
行き詰まる思考。
『ねぇ、カイン……。この前のハワイの戦いと同時期から、不自然に身を隠している連中のリストを出させなさいよ……偉い人とかさ……贅沢してそうな有名人。ハワイの辺りから療養してたらゾディアックよ。そこで死んでたら、姿を消したゾディアックね』
(いい考えだアリア。死んでたら、その偽装死を徹底的に調べさせる)
彼女の鮮やかな戦術眼は、カインが迷い込んだ思考の迷路を一瞬で切り開いた。
(……アリア、君はすごいな)
カインはわずかに口角を上げ、そのままカールとノエルに向けて指示を飛ばした。
「カール、ノエル。ハワイでの戦闘が行われたあの夜を境に、各国の軍や警察、民間企業で『不自然に長期休暇を取っている』、あるいは『行方不明になっている』高官や有力者のリストを抽出してくれ」
その指示を聞いた瞬間、カールとノエルの手がピタリと止まり、二人は目を見開いてカインを見つめた。
「あ……! 確かに……! 奴らゾディアックは、ハワイであれだけの致命的な痛手を負っています。流体装甲や高密度の生体パーツが、そう簡単に回復するはずがありません!すごい!」
カールが感嘆の声を上げ、猛然とキーボードを叩き始める。
「素晴らしいですわ!……見てた?メイシー!私たちのリーダーはすごいのよ!」
ノエルの目が獲物を追い詰める狩人の光を帯びた。
司令室のメイン・ホログラム・ディスプレイには、青い表示で埋められていく。
カールとノエルの抽出した「ハワイ殲滅戦以来、失踪や死亡した者たち」のリストだ。
この中にゾディアックや蠍の幹部がいるはずなのだ。
「みんな……中尉が死んで、メイシーも……動転しすぎていたからな。落ち着いて考えれば、誰でも気がつくことさ」
カインは事もなげに言った。
だが、ノエルは深く首を横に振った。
「いいえ、カインさん。あなただからですよ。こんな極限の状況で、そんな冷徹で俯瞰的な判断なんて、あなたにしか出来ません……。私たち、絶望には慣れていたつもりだったのに……ジュリアン中尉の存在が、あまりにも大きすぎたのですね」
ノエルの瞳には、カインに対する深い尊敬と信頼の光が宿っていた。
しかし、カインの内心は少しばかり複雑だった。
(……本当は、俺じゃなくてアリアの知恵なんだけどな……)
カインが苦笑する電脳の奥では、アリアのアバターが「えっへん!」とばかりに胸を張り、ドヤ顔を決めていた。
その鼻は、カインの脳内ビジョンの中でピノキオのように三十センチくらい伸びているように見えた……いや伸びている。鼻の先にはリボンがつけられて、可愛い小鳥が止まり木にしているが、無視することにした。
『ちょっと! 私をもっと褒めなさいよ、カイン! さすが私! 天才戦略家!天才オペレーター! ……ねぇねぇ、ところで択捉のワインってどうなの? 赤かしら? 白かしら?』
アリアはすぐさま興味の対象を酒へと移し、ワクワクした声を上げる。
(択捉のワインは、青だそうだ。アリア)
『青!? 蒼ワイン!? えぇーっ、聞いた時はウゲェーって思ってたけど……でも、せっかくだし試してみたいわね!』
(……了解だ、アリア。手配しよう)
その夜。
UPL管理地区にあるカインの個人ヴィラに、手配した一本のボトルが届けられた。
グラスに注がれたその液体は、間違いなく「青」だった。
それも、ただの青ではない。深海を思わせる、神秘的で深いサファイアブルーだ。
(これが本当に葡萄から作られているとはな……)
カインがグラスを光にかざして感心していると、電脳内でアリアが楽しそうに笑い声を上げた。
『青……本当に青よ、カイン……。見た目、すっごく不気味でまずそう!』
(おい、そう言うな、アリア。とりあえず味わってみるぞ)
カインはグラスを傾け、その蒼い液体を口に含んだ。
驚いたことに、見た目の奇抜さとは裏腹に、味わいは軽めの白ワインに近く、驚くほど洗練されていた。
フルーティーな口当たりの中に、ベリー系や柑橘系の様々な果実の香りが強めに感じられ、後味には上品な甘さが残る。
カインの味覚データが電脳を通じて同期されると、アリアのアバターがカインの脳内でソファに深く腰掛け、最高にリラックスした表情を浮かべた。
今日の彼女のアバターは、薄手の真紅のドレス姿だ。
その鮮やかな赤が、青いワインとのコントラストを美しく際立たせている。
カインは、彼女がこのドレスを選んだことで、すこぶる機嫌がいいのだと察した。
『美味しい! なにこれ、見た目とのギャップが凄い! ねぇカイン、これって寒冷地栽培品種の「ブルー・スノー」っていう葡萄から作られてるんですって!』
アリアがどこからか引き出してきたデータベースの知識を、得意げに語り始める。
『凍結を防ぐために、細胞内に高濃度の糖分と、特定の「青色アントシアニン」を蓄積する性質を持つのよ。……ほうほう、なるほど。普通の葡萄は熟すと赤紫になるけど、この品種は択捉の特殊な火山性土壌に含まれる希少なミネラルと反応して、果皮が深い藍色に染まるんだって!』
(なるほどな。だからこの色になるのか)
『それだけじゃないわよ。製造工程は、択捉独自の「天然アルゴンガス加圧熟成法」……何これ、択捉の環境以外じゃ絶対に作れないんじゃないの!』
(……道理で。聞いたことはあったが、一般の市場に出回らないのは、択捉でしか醸造できないって事か。悪くないな)
二人だけの静かな夜……それはまるで落ち着いた夫婦だけの、凪いだ時間に似ていた。
だが、不意にアリアの声から、先ほどまでの明るい熱がスッと引いていった。
『ねぇ、カイン……』
(ああ……分かってる。頼む)
カインは、ヴィラのリビングに置かれたグランドピアノの前に座り、静かに目を閉じた。
意識が薄皮に包まれたような、深く心地よい沈み込み。
自分の肉体でありながら、操縦権が他者へと委ねられていく不思議な感覚。
アリアは言葉は発せないが、カインの強靭なサイボーグの指先は、今、完全に彼女の意志によって支配されていた。
鍵盤に置かれた無骨な指が、流麗に動き始める。
ピアノから漏れ出たのは、アリアの心をそのまま音の形にしたような、果てしなく物悲しくそして……深層には愛を感じて、奥底には繊細な絶望を孕む……聴くと涙が出てしまう……そんな旋律だった。
愛する男の電脳の中にだけ存在する、精神の残滓でしかない自分。
触れることも、抱きしめられることもない、亡霊としての悲哀。
しかし、その旋律の中には、深い絶望の中に咲いた一輪の薔薇のような「愛の歓喜」が、確かに混じっていた。
愛する男が、自分の指にブラックダイヤモンドの指輪を嵌め、生涯自分と添い遂げると言ってくれたことへの、震えるような喜び。
だがそれは同時に、亡霊である自分が、この優しく不器用な男の未来を縛り付け、孤独な地獄へと引き込んでいるという残酷な事実でもある。
少しの喜びと、大いなる絶望、そして胸が張り裂けるような切なさ。
肉体が欲しい……指輪をはめられたら嬉しくて泣いてしまう……抱きしめて欲しい、料理を作ってあげたらカインはなんて言うのかな……。
ほんの数分、カインの体を借りるのが精一杯のアリアには絶望的な『夢』だった。
アリアの想いが憑依したカインのピアノは、冬の気配が色濃くなった択捉の冷たい夜の空気を、美しく、そして哀しく染め上げていった。
その頃。
カインの隣のヴィラでは、ベッドで浅い眠りについていたミリアが、ピアノの音色に目を覚ましていた。
カインのヴィラに隣接していた彼女のヴィラには、ピアノの旋律がコンサートホールの末席のように流れてくる。
彼女はガウンを羽織り、テラスへ出ると、隣のヴィラから漏れ聞こえるその旋律にじっと耳を傾けた。
冷徹な憲兵将校としての彼女の心が、その音色に触れた瞬間、無防備な少女のように揺さぶられる。
ミリアの銀色の睫毛が震え、大粒の涙が頬を伝って落ちた。
「……カイン……さん……。あなたが、これを弾いているの?」
ミリアは、隣のヴィラに向けてそっと呟いた。
あの強くて、頼りがいのある、誰もが背中を預ける新リーダー……冷たい眼差し……人を突き放すような、ぶっきらぼうな口調。
でも、彼の内面は、これほどまでに脆く、哀しい音色を奏でるのか。
「あなたは……その心の中に、一体どれほどの悲しみを飲み込んで、私たちの前に立っているの?……」
ミリアは、自分の部下を失った悲しみを重ね合わせながら、冷たい夜風の中でいつまでも、その美しい鎮魂の旋律に涙を流し続けていた。
その夜の静寂とは裏腹に、今、外の世界は劇的な地殻変動を起こしていた。
あの日、ハワイでゾディアックたちが敗走した事実は、世界のパワーバランスを根本から覆していたのだ。
世界中の諜報機関、そして警察機関が、ここぞとばかりに「蠍」の残党狩りに一斉に動き出していた。
蠍の構成員たちはビクビクと影に怯えながら、必死に証拠や情報を潰そうと奔走していたが、もはや手遅れだった。
自分たちを庇護してくれた圧倒的な主人たち――ゾディアックが活動を休止し、雲隠れした今、彼らを守る「絶対的な権力」の傘は存在しない。
もちろん、一般の警察機関の捜査が、雲の上の存在である十二宮の本体まで及ぶことはない。
しかし、根から毒を吸い上げられなくなった末端の組織は、少しずつ、だが確実に干上がり、弱体化していった。
世界中に散らばる法執行機関のエクスキューショナーたちが、隠れ蓑を失った蠍の構成員(MFCS)たちを、容赦なく駆逐していく。
連日のニュースでは、『電脳麻薬 N.O.(ノー)』押収ニュースは連日のように「史上最大量の押収記録」を塗り替え、世界各地に点在していたダミー企業の摘発、末端シンジケートの解体が華々しく報じられている。
それらの映像は、間違いなく「赤い蠍」という巨大な帝国が瓦解を始めていることを物語っていた。
ジュリアン中尉が、そしてメイシー・トレントという英雄が、その命という最も重い代価を支払って得た成果。
決して安いものではなかった。
だが彼らの死は、世界を蝕んでいた巨大な蠍の体に、静かに、そしてゆっくりと死の猛毒を回し始めていたのだ。
蠍の弱体化に乗じて、裏社会を牛耳ろうとする新興の犯罪組織がいくつも産声を上げた。
だが、彼らが蠍の代わりになれるはずがない。
国家という本気の暴力を背負った既存のエクスキューショナーたちの前に、新興の半端なサイボーグなど、文字通り赤子の手を捻るように駆逐されていく。
違法な軍用換装を施した者は、問答無用でその場で射殺され、鉄屑として処理される。
半端な換装で生き残った者たちは、武装パーツを強制的に外され、AI看守が24時間体制で管理するサイボーグ専用刑務所(地獄)へと次々にぶち込まれていった。
各国の法執行機関では、検挙されるサイボーグ犯罪者の数が爆発的に増加し、地上におけるサイボーグの勾留場所や刑務所の不足が、嬉しい悲鳴となって上がり始めていた。
しかし、それも長くは続かないはずだ。
遙か頭上。
金星軌道上に光るそれは蒼く美しい装甲に覆われていた。
地球の引力圏を離れた虚空にて、最悪の犯罪者たちを永遠に幽閉するための人の手で造られた煉獄――『金星衛星軌道組織犯罪サイボーグ刑務所――――通称ラダマンティス』が、間もなくその冷たいゲートを開こうとしていた。




