第104話 不死鳥のように
深い、本当に深い泥の底から引き上げられるような感覚だった。
意識の浮上と共に、ミリア・アニエラの脳裏にフラッシュバックしたのは、自身の視界が物理的に反転し、首のない己の胴体を見下ろしたあの瞬間の絶対的な絶望だった。
「あっ……!」
音のない悲鳴を上げて、ミリアはカプセルの中で目を見開いた。
プシュゥゥゥ……という排気音と共に、彼女を包んでいたエメラルドグリーンの保存液が足元へと一気に流れ落ちていく。
床面に落ちた液体は、緻密に計算されていた幾何学文様のスリットに吸い込まれる。
重力。
冷たい空気。
そして、自分の首が間違いなく胴体と繋がっているという確かな感覚。
(私……生きている……?)
死の瞬間までの記憶ははっきりと覚えていた。
強化ガラスのハッチが静かにスライドして開く。
全身を濡らしたままのミリアは、震える手で自身の首筋に触れた。
そこには、生体皮膚が完璧に修復された滑らかな感触があるだけで、切断の痕跡すら残っていなかった。
壁にかかっている備え付けの薄い検査衣とガウンを羽織りながら、彼女は自分が「拾われた命」であることをゆっくりと自覚し始めていた。
濡れた銀髪からポタポタと保存液の雫を落としながら、ミリアがリブート室の重い扉を開けると、そこには思いがけない光景が広がっていた。
「ミリィーーーッ!」
扉が開くや否や、飛び込んできたのは聞き慣れた、そして二度と聞くことはできないと思っていた親友の声だった。
「……ほのか!」
視界に飛び込んできたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにした、自分より二十センチは背の低い小柄な少女。
ミリアは膝から崩れ落ちるようにして、その小さな身体を力の限りに抱きしめた。
「あぁぁ……ミリー! ミリー、よかったぁ! 死んじゃったかと思ったよぉ……!」
「ほのか……ごめんなさい、ごめんなさい! 私、約束を……うぅ……あぁぁぁ」
わんわんと子供のように泣きじゃくるミリア。
冷徹な憲兵将校としての仮面など、そこには欠片もなかった。
互いの温もりを確かめ合うように、二人はただ肩を抱き合って震え続けた。
リブート室の隣の待機スペースには、ほのかの他にUPLメンバー全員が集まっていた。
彼らはその再会の光景を静かに、そして温かく見守っていた。
泣き声が次第に小さな嗚咽へと変わり、一段落したのを見計らって、一人の男が静かに歩み出た。
黒いサングラスの奥に、蒼い燐光を宿した男。
「……初めまして、ミリア・アニエラUPL警護役独立憲兵隊中尉。俺は、UPL臨時指揮官のカイン・ヴィラールだ。……君たち第71中隊の奮闘には、いつも感謝していた。君たちがいてくれたおかげで、俺たちは生き延びられた」
カインの低く、静寂を湛えた声に、ミリアはハッとして顔を上げた。
「カイン……殿? 私は?……私は確かに、首を斬られたはずです。救護、深く感謝致します。……それで、私の中隊はどうなりましたか?」
ミリアは検査衣だけを纏った状態であることを忘れ、すがるような目でカインを見上げた。
ノエルが優しくミリアの肩に触れ、用意してあった白い椅子に腰掛けるよう促す。
まだ、彼女の銀髪や検査衣からは薄緑色の液体が滴り落ち、床に小さな染みを作っていた。
カインはサングラスの奥の瞳を僅かに伏せ、隠し立てすることなく冷徹な事実を告げた。
「中隊の四割が戦死した。残りの負傷者は、その七割が命を取り留め、すでに何人かは軍務に復帰している。残りの三割は傷が深く、名誉退役となった。部隊そのものは解散し、生き残った者たちはそれぞれ他の中隊へ割り振られたよ」
「うっ……くっ……あう……」
その報告は、ミリアの心に刃のように突き刺さった。
彼女を慕い、彼女のために命を懸けて散っていった部下たちの顔が次々と脳裏に浮かぶ。
「私の……私のせいで……みんな……」
再び両手で顔を覆い、慟哭するミリア。
自分の命が繋がった安堵よりも、守るべき部下を失った喪失感が彼女の魂を激しく苛んだ。
「ミリア……ミリー」
ほのかがそっと近づき、用意していた真っ白なタオルでミリアの濡れた銀髪を優しく拭き始めた。
ミリアは再びほのかの腰にすがりつき、顔を押し当てて肩を震わせ続ける。
「ミリー……ちょっと、気持ちはすごく分かるんだけど……」
ほのかが困ったように、少しだけ身をよじる。
「私、MFCSじゃないから……うぇ……ミリのハグ、力が強すぎて腰が折れ…う…壊れちゃう……」
「あ、ご、ごめんなさい、ほのか!」
ミリアはハッと我に返り、慌てて力を緩めた。
生身の親友をうっかり粉砕しかけたことに青ざめる。
そんなミリアに、ほのかは少し照れくさそうに、一つの箱を差し出した。
起きたら最初に渡そうと、何度もロッカーから出し入れしていたせいで、箱の角は少しくたびれている。
「これ……」
箱を受け取ったミリアの目が、驚きに丸くなった。
「あれ? これはあの時の……」
箱の中に鎮座していたのは、漆黒の軍服に身を包みアイパッチをつけた『たまごくまちゃん大佐・限定版ブラックカラー』だった。
「イベント、中止になっちゃったんだよ……。まあ、あんな陽電子砲が降ってくるような状況で、イベントなんて出来るわけないもんね。しかも、イベントの運営会社にも『蠍』が潜り込んでたらしいよ」
ほのかは寂しそうに笑った。
「ねぇ……ミリー。これ、限定のレアチケット持ってた人だけに、特別に送られてきたの。……ミリーの中隊、無くなっちゃったね。ごめんね。私たちを守ってくれたのに……UPLのみんな、本当に感謝してるの」
ほのかは、ミリアの手を両手で包み込んだ。
「ミリー……。もしよかったら、UPLエージェントとして、私たちと一緒に戦ってくれないかな?」
その言葉に、ミリアは大きな衝撃を受けた。
中隊を失い、帰る場所をなくした自分に差し伸べられた手。
彼女は冷たい、憲兵中隊長としての絶対零度の瞳で一瞬だけ虚空を見つめ、何かを深く考えるような素振りを見せた。
だが、すぐにその瞳から冷気が消え去り、春の蕾が綻ぶような、美しくも力強い微笑みが浮かんだ。
一筋の涙が頬を伝う。
「……いいわ。UPLエージェント……『蠍』を殺す牙。両親と兄さんを奴らに殺された私が、本当は一番なりたかった仕事よ」
ミリアは立ち上がり、そこにいるUPLのメンバー全員をゆっくりと見渡した。
「ほのか……そしてみなさん。これからはエージェントとして、よろしくお願いします。蠍に家族と、大切な部下たちを殺された身ですもの。存分に頑張らせてもらうわ」
「よろしく頼む、ミリア。だが、ジュリアン中尉はもう居ない。俺は新米の指揮官だ。至らない点もあるだろうがな」
カインが静かに、だが揺るぎない声で応じた。
「はい。よろしくお願いします、カイン……リーダー。ところで、一つお伺いしたいのですが……制服は、無いんですよね?」
ミリアは、ふと自分がまだ裸の上に検査衣しか羽織っていないことに気づき、顔を赤らめながら自身の胸元を隠した。
彼女の私物はすでに、この択捉ノードのUPL居住区画――彼女の個人ヴィラに運び込まれているはずだった。
「あ、着替え持ってきたよ!」
ほのかが明るい声を出し、用意していた着替えを手渡した。
それは、ほのかが「ミリアが起きた時のために」と嬉々として選んでおいた、「ミリアの趣味」全開のガーリーな服だった。
薄ピンクのブラウスに、柔らかな白いカーディガン。
ボトムスはパステルブルーのフレアスカートで少し短い。
膝丈の白いフリルが施された靴下までセットになっていて、動きやすそうなスニーカーには5mmのホログラムプレートが見えている。
そこを触ればフリルかリボンが飛び出てくるに違いないのは容易に想像できた。
(ほのか……これは……戦えないわ……それに仕事するにはちょっと恥ずかしすぎない?)
ミリアは少しだけ頬を引きつらせたが、親友の笑顔を見ると何も言えない。
ほのかの案内に従い、カプセル室を出て更衣室へと向かった。
数分後、着替えを終えたミリアがブリーフィングルームに足を踏み入れると、そこにはUPLの全員が集まっていた。
「よろしく、ミリア。俺が新しい相棒のラズロ・スタインだ。まあ、堅苦しいのは抜きにしようぜ」
ラズロが豪快に笑い、大きな手を差し出した。彼は無骨なライダースジャケットに革のズボンを履き、足を組んで座っている。
少し煙草の匂いがする。
ミリアは一回り以上年上かもしれないラズロを見て、少し顔が引きつる。
他のメンバーたちも、それぞれがミリアに歓迎の言葉をかけた。
「ああ……ミリア、さっきの服の話だったな」
カインが話を戻す。
今の彼は細身の黒いジーンズにシンプルなTシャツという出で立ちだ。
たまにこれにジャケットを羽織るらしい。
「我々は秘匿エージェントだ。服装に特に決まりはない」
周囲を見渡せば、その言葉の意味が一目でわかる。
ランは深いスリットの入った真紅のチャイナドレス姿で、優雅にお茶を飲んでいる。
ほのかはいつものようにフリルがあしらわれたガーリーな私服。
ノエルは対照的に、仕立ての良いグレーのパンツスーツを隙なく着こなしている。
カールは機能性重視のワイシャツとスラックスの上に白衣を羽織り、ドクターFに至ってはヨレヨレのTシャツに白いズボン、そしてポケットが異常に多い特注の白衣という出で立ちだ。
(え?お団子?5本も?)
そして、コンラートは相変わらず一糸乱れぬフルオーダースーツを着こなし、軽薄そうな微笑みをミリアに向けた。
昨日までと違い、トレードマークのスーツにはしっかりとアイロンがのっている。
「可愛い女の子の加入は大歓迎だよ。どうだいミリアちゃん、あとで僕と星が見えるお店で食事でもしないかい? 択捉の星空も悪くないよ」
ウインクを飛ばすコンラートを完全に無視して、ミリアはカインに向き直った。
「あの……カイン殿?」
「カインでいい。ここではみんな家族だからな」
「では、カイン。私はやはり、憲兵隊の制服でも良いでしょうか? どうにも、あの黒い制服の方が心が落ち着くのです」
ミリアのその申し出に、カインは明らかに困惑した表情を浮かべた。
「うちって、制服なんてあるの? 階級章とかどうなるの?」と、ほのかが不思議そうに首を傾げる。
「あるわよ。ジュリアン中尉が着ていたでしょう? あの憲兵隊の制服」とノエルが答える。
コンラートが肩をすくめた。
「あの真っ黒な階級章だよね……。あれを付けて、まともなエージェント活動なんて出来るのかい?」
ランもチャイナドレスの脚を組み替えながら同意する。
「とにかく目立つ上に……軍や警察の連中には、なんて言われるのかしらね」
カインはジュリアン中尉から受け継いだ「UPL機密データ」を電脳で素早く確認し、皆に説明を始めた。
「UPLエージェントは通常、警察なら警部補、軍なら少尉待遇として身分を偽装して動くのが普通だ。この偽装階級には特段目立つ階級章は無い。私服任務だし、現場で最低限の協力要請ができればそれで十分だからな」
カインは言葉を区切り、重々しいトーンで続けた。
「ただし……『UPL』としての本来の絶対権限を誇示する場合、軍においては中将待遇、警察においては警視監待遇へと跳ね上がる。それぞれ、基本的には軍なら佐官以上、警察なら署長クラス以上でなければ、UPLの存在自体を公には知らないことになっている。……そして、我々UPLが制式な制服を着て、UPL専用の階級章をつけると……こうなる」
カインはポケットから、鈍い光を放つ漆黒の階級章を無造作に取り出してテーブルに置いた。
光すら吸い込むようなその黒い意匠を見た瞬間、ミリアはハッとして息を呑んだ。
「黒い……あ、そうか。そういうことだったのですね」
彼女はUPL警護役独立憲兵隊の中隊長として、ある程度の機密には触れていたため、その漆黒のバッジが意味する「絶望的なほどの権威」を瞬時に理解した。
「そうだ、ミリア。これを胸につけて軍や警察の現場に声をかけると、あっという間にお偉いさんに連絡がいって……現場の指揮官クラスが全員、文字通り我々の前に平伏すことになる。……そういうのが好みか?」
カインの皮肉めいた問いに、ミリアは深くため息をついた。
「……分かりました。それではまともな聞き込みや捜査ができない……。潜入するにも悪目立ちしすぎます。そして何より……正直言って、現場の軍や警察の人間にとっては、迷惑この上ない疫病神扱いになりますね」
カインが満足そうに苦笑する。
「理解が早くて助かるよ。だから、服装に決まりは無い。好きな服を着てくれ。ただ、目立つのは困るがな」
「あら? 私は別に目立たないわよ?」
ランが、太ももまで大胆にスリットが入った真紅のチャイナドレスを見せつけるように脚を組み替えて言った。
ランの場合、彼女の最大の武器である「単チタン結晶化アクチュエーターによる最強の蹴り」を放つため、脚の可動域を一切妨げないチャイナドレスのスリットが戦術的に最も理にかなっているのだ。
噂によれば、彼女のクローゼットには百色以上のチャイナドレスが並んでおり、毎朝その日の気分で選んでいるらしい。
ほのかが難しそうな顔をしてミリアの服を指差した。
「でも、カインさん……ミリーの私服、びっくりするほど女の子ですよ? フリルとか……ピンクとか水色とか。エージェントっぽくないっていうか……」
その言葉に、ラズロがゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。
「ガハハハ! オーケー、今までにない初めてのタイプの相棒だな! ヒラヒラのスカートでも一向に構わんが、そのまま時速300キロで飛ぶヘリから直接降下するんだぜ? 丸見えにならないように、せいぜい気をつけるんだな!」
ランがすかさず吠える。
「ダメよ、ミリア! スカートがめくれて敵にサービスショットを提供するなんて、エージェントの恥よ! やめときなさい!」
「は、はい……任務用の仕事の服、新しく探さなきゃだわ……」と、ミリアが少し恥ずかしそうに俯いてつぶやく。
「あれ? でもランはいつもチャイナドレスなのに、降下してもめくれないのかしら?」とノエルが純粋な疑問を口にした。
すると、コンラートがすかさずニヤリと笑って割り込んだ。
「お嬢はね、降下しても不思議と見えないんだよ。絶妙な角度で布が張り付いて、とても素晴らしくセクシーなシルエットになるんだけど、中身は見えない。……男としては非常に惜しい物理法則のバグだね」
ガンッ!
鈍い音が響き、コンラートが顔を歪めてしゃがみ込んだ。
ランの容赦ない蹴りが彼のスネを的確に捉えたのだ。
「お嬢! 蹴りだけはやりすぎだと、いつも言ってるじゃないか! フレームが軋んだぞ!」
「あら、ごめんなさいコンラート。大きな虫が湧いたから、追い払ってあげたのよ」
ランは涼しい顔でお茶をすすると、ラズロの方へ視線を向けた。
「ねぇラズロ。バディを不快な虫から守るのも、バディの立派な務めよ。次に虫がミリアに湧いたら、あなたのケルベロスで追い払ってくれるかしら?」
「いいぜ! 死なねぇように肩あたりを狙えばいいんだろ?」
ラズロが楽しそうにショットガンを構える真似をする。
「バカヤロウ! ACHS弾(対サイボーグスラッグ弾)を至近距離で肩に食らったら、いくら俺でも半分吹き飛んで死ぬわ!」
コンラートの悲痛な叫びに、ブリーフィングルームはドッと大きな笑い声に包まれた。
凍りついていたカトラの地下施設には、もう、温かい家族の空気が戻っている。
笑いが収まった後、ほのかが元気よく手を挙げた。
「じゃあ、私がミリーと一緒に行くよ! お買い物!」
「ほのか……君は、俺と大統領との極秘会談に同行する予定だぞ。……もしどうしてもと言うなら、会談の同行はノエルに代わってもらってもいいが」
カインが少し気を遣うように言った。
だが、ほのかは一瞬の迷いもなく首を横に振った。
「あ、大丈夫です! 大統領会談の任務優先ですから!」
そう言いながら、彼女は無意識に、大好きなカインの隣へと少しだけ歩み寄っていた。
親友のミリアには悪いが、カインと一緒に重要任務に行けるチャンスを、彼女が自ら手放すわけがないのだ。
その分かりやすすぎる乙女心の機微に気づき、ミリアはクスリと小さく笑いを漏らした。
「ふふっ……いいのよ、ほのか。お仕事頑張ってね」
「じゃあ、私が一緒に買い物へ行きましょうか。動きやすくて可愛い服、一緒に見立ててあげるわ」
ランが微笑みながら申し出た。
コンラートが「チャイナドレス?」と言って再び蹴られる。
カインが居ない時は無かった全く感じられなかった活気……。
その光景を眺めながら、その場にいる誰もが同じことを思っていた。
生き残ったメンバーは、皆がそれぞれに個性的で、絶対に背中を預けられる頼もしい戦士たちだ。
しかしながら、この個性派揃いの「家族」をまとめ上げ、同じ方向へと導けるリーダーになりうる者は、カイン・ヴィラールしかいない。
ジュリアン中尉なき今、彼がいなければ、UPLはただの復讐鬼の集団に堕ちてしまう。
カインが居ない時、彼らは家族にはなれなかったのだ。
カインという新しい柱を中心に、鋼鉄の獣たちは再び立ち上がろうとしていた。
不意に『雷切』の鞘が『パチン』と鳴る。
まるで中尉がこの場で聞いてたかのようだった。




