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ベヒーモス  作者: うなぎかご
極北の章
103/117

第103話 継承された剣

 択捉島のUPL秘密拠点「カトラ」。

 そこはハワイほど恵まれた土地にある訳ではない。

 その最深部――――第四階層にある司令室は、外部の猛吹雪を遮断しているはずなのに、墓所のような冷気に満ちていた。

 メインコンソールの前に座るノエルの指先は、かつて「ミス・パーフェクト」と呼ばれた精密さを失い、力なく震えている。

 彼女の瞳に映るのは、絶え間なく流れる軍と警察のデータログ。

 しかし、その膨大な情報の海から「赤い蠍」の欠片を掴もうとする気力さえ、今の彼女からは枯渇していた。


「……まだ、ライブラとジェミニが残ってる」

 カールが、錆びついた機械のように掠れた声で呟いた。

 彼の華奢な体躯を包む一見して民生品に見える外装は、ハワイでの戦いの激しさを物語るようにあちこちが剥げ、痛々しく金属の下地が露出している。

 彼はすでに自らの義体の修理など後回しにしていた。

「寝ている時間など……儂らには一秒も残されておらん……メイシーの無念を思えばのぅ……」

 ドクターFが、調整をしなくなり度が合わなくなったモノクルを何度も指で押し上げながら、呪詛にしか聞こえない重い溜息を吐いた。


 二人は、ハワイから基地を移転して以来、ほとんど眠っていない。

 カールは電脳を限界までオーバークロックさせ、カインとラズロ、そしてミリアの修復作業に没頭することで、襲いかかる喪失感から必死に逃避しているようにも見えた。

 ドクターは顔色が青く、目の周りのクマが極限の過労を物語っていた。 


 カトラの司令室に満ちる沈黙が、カールの鼓膜を圧迫する。

 ふと視線を逸らせば、そこにはかつて「家族」と呼べるほどに親密だった、騒がしくも愛おしい日常の残滓が張り付いていた。

 思い出が重圧となりカールの心を締め上げる。


 かつてなら、ほのかがデスクでお気に入りの「たまごクマちゃん」が描かれたマグカップを両手で包み込んでいたはずだ。

 そこからは常に、彼女の好物である渋いほうじ茶の香ばしい湯気が立ち上り、作戦室に平和の香りをもたらしていた。


 その隣では、ドクターFがどこから持ってきたのかも分からない、和菓子を意気揚々と差し出していたことだろう。

 「ほれ、今日のは格別じゃぞ」というドクターの言葉に、誰よりも早く反応したのは、今は亡きメイシーだった。

 彼女はその極東の奇妙な色の菓子を一切の躊躇なく頬張り、リスのように頬を膨らませては、幸せそうに目を細めていたはずなのだ。


 作戦室の隅では、いつものようにコンラートが、フルオーダースーツの襟を正し、不敵な笑みを浮かべていたはずだ。


 彼は常に軽口を叩き、場を和ませる道化を演じていた。

 普段、ランや他の男たちを相手にする時は「俺」という一人称を使うが、ターゲットを「口説くべき対処の女の子」としてロックオンした瞬間に、その口調は一変する。


「僕の隣が空いているのは、きっと神様が君のために用意してくれた特等席だからだよ」


 一人称が「僕」へと切り替わった瞬間、それはUPLの面々にとって「コンラートのナンパモード」が発動した合図だった。

 片目で不敵なウィンクを飛ばしながら、ポーランド系の甘いマスクで甘い言葉を吐くその姿は、どんな場面でも緊張感を一瞬で霧散させるほどに軽薄だった。


 そのスイッチが入った瞬間、誰よりも早く、そして鋭く反応するのはバディのラン・フェンだ。 

 漆黒のツインテールを揺らし、チャイナドレスから覗くしなやかな脚を組み替えながら、彼女の警戒レベルは一気に「レッドゾーン」へと跳ね上がる。


「……コンラート……蹴りはどこが好みかしら?」

 ランの切れ長の細目がさらに冷徹に細められ、コンラートへの突っ込みは鋭さを帯びる。

 彼女にとって、目の前で繰り広げられるコンラートの軽薄な茶番劇と、それに対する突っ込みはいつもの挨拶であった。

 コンラートがニヤニヤと笑いながら「嫉妬しているのかい?お嬢」と返し、ランが本気で脚部アクチュエーターを駆動させようとする……。

 そんな絶え間ない、下らなくて愛おしい雑談こそが、この殺伐としたUPLの「魂」を繋ぎ止めていたのだ。


 しかし今、コンラートは沈黙し、ランもまた、突っ込むべき相手の沈黙に耐えかねるように、ただ静かにカプセルに沈むカインとラズロを見つめているだけだ。

 かつての賑やかな喧騒は、今はただ、UPLメンバー達の電脳の中にだけ存在する、切ない記録データとなっていた。


 だが、今の視界にあるのは、冷徹な青白いホログラムの光と、感情を失ったかのような仲間の横顔だけだ。

 彼らの笑い声は、UPLの再建業務という奔流に飲み込まれて久しい。


 メイシーはもういない。

 そして、彼女たちを厳しくも優しく見守っていたジュリアン中尉も。

 絶え間ない雑談が笑いを生んでいたはずの場所は、今やサーバーの駆動音だけが空虚に響く箱と化していた。

 カールは、自身の電脳に深く刻まれたその賑やかな幻影を、奥歯を噛み締めて無理やり記憶の底へと押し込めた。


 ここは音の無い監獄と化していた。


 カールは、作業台に横たわる一本の日本刀に向き合っていた。

 ジュリアン中尉の遺品――日本刀『雷切』である。

「ドクター……雷切のダメージが、予想を遥かに超えています。刀身の導電膜はズタズタで、キャパシタも過負荷で焼き切れている」


「そうじゃろうとも……」

 ドクターがカールの隣に立ち、無惨に欠けた刀身を愛おしむように見つめた。

「ワシの計算では、アクエリアスの極低温流体装甲に触れるだけで、温度差と超圧力により雷切は一瞬で凍結粉砕されるはずじゃった。しかし……中尉は、あの極限状態で何度も流体装甲を切り裂いたのじゃ。あれはもはや技術ではない。達人(Tatsujin)としか形容できん神の領域の業じゃよ……」


 カールは慎重に単陽子レーザー鋳造機を当てながら、不安げに尋ねた。

「直ったとして……カインさんは、これを喜んでくれるでしょうか。悲しませるだけでしょうか」


 ドクターFは、度が合わなくなったモノクルを何度も指で押し上げ、複雑な回路が露出した『雷切』の刀身を愛おしむように見つめながら、静かに首を振った。


「カインが中尉と同じように雷切を振るえるわけがないことなど、このワシが一番よく分かっとるよ。たとえジュリアン中尉の戦闘経験データを丸ごと彼の電脳にダウンロードしたところで、それは結局のところ、ただの静的な『知識』に過ぎんのじゃ」


 ドクターは、作業台に置かれたカールの修復パーツを横目に、自身の言葉を噛みしめるように続けた。

「技術の模倣は容易い。だが、死線を幾度も潜り抜けることで魂に刻まれた戦闘経験というものは、デジタルデータとは似て非なるものじゃ。たとえ最適解の動き方を完璧にシミュレートできたとしても、それは真の継承ではない。一瞬の判断を支える身体の反射、極限状態で肉体が覚えている全身の筋肉の記憶、そして一振りに込める執念……そういった『血の通った記憶』にまでは、どれほど優れたOSでも到達できぬからな」


 その言葉には、失われた者への深い哀悼と、新リーダーとなるカインが背負うであろう「重圧」への理解が込められていた。


「それでもな、カール。中尉の空席となった椅子にこの刀を置くのは、形だけではない。我々の中に残された『彼』の心を、カインがどう自分自身の力へと変えていくか……ワシはそれを見届けたいんじゃよ……そして……」


 ドクターは一瞬言葉を切り、遠くを見つめるような目をした。

 そして、その後に続けようとした言葉を飲み込んだ。


 カインとラズロの損傷は深刻を極め、ドクターFとカールという世界トップクラスの技師二人がかりでも、修復には絶望的な時間を要した。

 択捉に辿り着いた時は、視界のすべてを白く染める真冬だった。

 しかし、無作為に流れた時間は、いつの間にかカレンダーの針を夏へと進めていた。


 ラズロの入ったカプセルの傍らでは、マリアンヌが今も、ただの抜け殻のように泣き崩れていた。

「ラズロ……置いていかないで。私を一人にしないで……」

 致命傷を負い、強制スリープ状態にあるラズロのカプセルから、彼女は片時も離れることができない。

 かつて「自分が愛した人は皆死ぬ」という呪いに怯えていた彼女にとって、目の前の静寂は耐え難い地獄の再演だった。

 補給や生活のやりくりはノエルとほのかが必死に支えていたが、マリアンヌはもはや、パイロットとしての誇りさえ涙と一緒に流し去ってしまったようだった。

 食事をまともに摂らず、睡眠すら涙に変えていたマリアンヌの顔色は、美しかったハワイにいた頃の彼女の面影を探すのが難しかった。


「……これから、私たちはどうすればいいのかしら」

 ラン・フェンが、チャイナドレスのスリットから覗く艶めかしい脚を無意識に摩りながら、虚空に向かって漏らした。

「政府からの援助、権限、資金……表面上は以前と変わりません。でも……」

 カールが、誰もいない指揮官席を見つめて声を震わせる。

「私たちは、何をすればいいですか?誰のために戦えばいいのですか? 」


 コンラートも、自慢のフルオーダースーツが皺だらけになっているのも構わず、壁に背を預けて呟いた。

「ああ……警察や軍に指示が出せると言っても……何をすればどこが動くやら。俺たちみたいな現場上がりのエクスキューショナーには、組織の動かし方なんて分かりやしないよ」


「今は、動くべきではありません……絶対に」


 ノエルが、自分自身にも言い聞かせるように、低く呟いた。

 メインコンソールの冷たい光が、彼女の青白い横顔を無機質に照らし出している。

 彼女の指先は、戦術シミュレーションのホログラムを映し出していたが、そこには「全滅」を意味する赤い警告灯が、まるで嘲笑うかのように点滅を繰り返していた。


「皆さん、冷静に分析してください。現在、万全の状態で動ける戦闘員はランさんとコンラートさんだけです」


 ノエルは、あえて機械的なトーンで言葉を紡ぐ。

 そうしなければ、声が震えてしまうからだ。

「この戦力でゾディアックと正面からぶつかれば……今度こそ全滅するかも知れません」


 ノエルは、血の気の引いた指でホログラム・ウィンドウを操作し、絶望的な数値が並ぶグラフをみんなの前に展開した。

 その瞳には、かつての自信に満ちた輝きはなく、俯き加減の乾いた目は、ただ冷たい光だけが反射している。


「それに、ハワイでの惨劇で私たちは痛いほど思い知らされました。私たちの……このUPLの本拠地は、常に『蠍』に探されています。鉄壁だと思っていた守りは、あの日、あまりにも脆く崩れ去った……」


 彼女は一度言葉を切り、自身の肩を抱くようにして震えを抑えた。

「今この瞬間だって、軍や警察の内部には『蠍』の工作員が潜んでいるはずです。誰が味方で、誰が情報の運び屋なのか、その判別なんて出来ません……そんな状況で不用意な行動を取れば……」


 ノエルの脳裏に、ハワイに撃ち込まれた陽電子砲と、崩れ落ちる日常の姿がフラッシュバックする。


「もし、またあんな事が起きれば……次はもう、立ち上がる力なんて残っていない。私たちの唯一の『居場所』であるこのUPLは、今度こそこの世界から完全に消滅します」


 彼女の切実な訴えは、冷え切った司令室の空気をいっそう重く沈ませた。

 それは単なる戦術的な警告ではなく、残された「家族」をこれ以上失いたくないという、彼女の魂の悲鳴だった。


 そこまで一気にまくし立てたところで、彼女の言葉が途切れた。

 視線が、カインのメディカル・ディスプレイへと力なく彷徨う。


「……ねぇ、カインさん……答えてよ、カインさん……」


 その声は、もはや優秀なオペレーターチーフのものではなかった。

「中尉と最後に話し、その意志のすべてを託された貴方なら、この先に何があるのか見えるのかしら? 私たちは、これからどこへ向かえばいいの……? 何を信じて、どうすれば救われるの……?」


 ふと、ノエルの視界が滲んだ。

 ここ数日、まともに食事を喉に通した記憶がない。

 それなのに、熱い涙だけは止まることなく溢れ出し、コンソールの上に音もなく落ちていく。

(……おかしいわね。補給もしていないのに、何ヶ月経っても涙だけはこんなに流れるものなのね)

 

 そんな場違いで自嘲的な雑念が、彼女の脳裏を虚しくよぎる。

 彼女の流す涙は、冷え切った基地の空気をさらに重く沈ませていった。

 涙を流して説明するノエルに、声をかける者は誰も居ない。

 絶望という名の形のない病は、誰に止める術もなく、じわじわと「統一国家海軍・択捉戦略ノード・カトラF-33地区UE-0 "PHANTOM-LIMB"(ファントム・リム通称UPL)司令部の深淵まで侵食し続けていた。


 カインとラズロが、ついにその重い瞼を開いたのは、奇しくもジュリアン中尉の命日であった。


「……今の状況を教えてくれ」

 カインが上体を起こし、低く、だが鋼のように揺るぎない声を出した瞬間、UPLの空気は一変した。

 その声を聞いただけで、心臓に熱い血が戻ってくるのをノエルは感じた。


(アリア! アリア、いるか!?)

 カインは、視界が確保されると同時に電脳の深層へ呼びかけた。

『いるわよ、カイン! 私のこと心配だった? 好きすぎて、さっき寝言でも言ってたわよ?』

 いつもの、お喋りで、少し生意気な声。

(ああ……言ってたさ)

 カインは深くは語らなかったが、その安堵は底知れなかった。

 彼女の声が聞こえる。

 それだけで、彼は地獄から何度でも戻ってこられる。


「カインさん! カインさん! うぁぁぁぁぁぁぁ!」

 ほのかが、無地のマグカップを床に落として砕くのも構わず、泣きじゃくりながらカインに飛びついた。

 カインは珍しく穏やかな微笑を浮かべると、「頑張ったな」と短く言った。

 そして、泣きじゃくる子供をあやすように、大きな手で彼女の頭を優しく撫でた。

 ほのかは、精神の限界を超えていたのだ。

 家族を奪われ、ハワイで再び中尉とメイシーという家族を奪われ、張り詰めていた糸が、カインの温もりでようやく解けた。


 一方、ラズロは目覚めるなり、マリアンヌによって甲斐甲斐しく、半ば強引に服を着せられていた。

「ちょ、待て、マリアンヌ! 俺はもう大丈夫だって!」

「黙っててラズロ! あなたはまたすぐに無茶をするんだから!」

 ラズロはマリアンヌの強引さに閉口しながらも、涙を流している彼女を見ると、大人しく従った。


 ドクターとカール、そしてノエルが、最新のデータログをカインに渡した。

「把握した。中尉とメイシーは死んだのだな」

 カインの言葉に、部屋が凍りつく。

「ああ、死んだのじゃ」

 ドクターが重く頷いた。

「そして、アンバー……彼女の体は万全な状態にまで修復した。しかし……目覚めん。人格の根幹データ、魂と呼ばれる領域のどこかが足りんのじゃ。電脳脳死の可能性がある。ポットで保管できる限度まで希望は捨てたくないが……」


 カインは、修復された『雷切』を手に取り、その重みを確かめた。

 恭しい動作を取ると、流れるように左腰に帯びる動作はジュリアン中尉と同じだった。

「分かった。ジュリアン中尉からUPLを託されたのは俺だ。中尉からデータはもらっている」


 ほのかが消え入りそうな声で「あの……カインさん……ミリア…… ミリア・アニエラ中尉なんですけど……」と呟くとカインが、再びほのかに笑顔を向けると、「分かっている。彼女の戦力なら申し分ない。ラズロと組んでもらう」と答えた。

 ほのかが目を大きく見開き、ラズロが「ヒュゥ」と音が微妙な口笛を吹く。

「いいぜ!カイン。オマエはリーダーだからな。新しいバディ……ミリアか、初対面だな。ちょっと緊張するぜ!なあマリアンヌ」

「ふふふ、ラズロ。あの子はいい子よ、きっと貴方の騒がしさが物静かな彼女と合うかもしれないわね」

「ガハハハ!俺が騒がしい?そりゃお前……」

 ほのかがすぐにラズロの口を塞いだ。

「ラズロさん黙ってて!カインさんが大事な事言うんですから!」


 ラズロが少し面白いジェスチャーをすると、カインはノエルを真っ直ぐに見据えた。

「UPLの新しい指揮官として、大統領に会う。ノエル、会談をねじ込めるか?」

「任せてください……」

 ノエルは、カインの瞳の中に、死んだはずのジュリアン中尉の遺志が燃えているのを見た。

「カインったら……本当に中尉みたい」

 彼女は涙を堪えきれずに誰にも聞こえないように呟くが、それは全員の同意を集めていた。


「異論はないぜ。俺たちにはリーダーが必要だ。俺はカインを推す」

 ラズロが、治ったばかりの巨体を揺らしながら吼えた。

 「異論はないよ」とコンラート。

 「カインしかいないかもね」

 ランも同意した。

「当たり前ですよ! カインさんしかいません!何で、そんな当たり前のこと繰り返すんですか?」

 ほのかも鼻をすすりながら拳を握った。


「戦士には、こういう儀式が必要なんじゃよ……ほのか」

 ドクターFとカールも、満足げに頷いた。


「……あまり期待はするな」

 カインは雷切を腰に帯び、サングラスの奥の瞳を鋭く光らせた。

「ただし、中尉を……メイシーを……そしてみんなをここまでしてくれた落とし前は、『蠍』にしっかりと取らせてやる。これからは攻められるんじゃない。俺たちが攻める番だ」


『やったね!流石のカイン・リーダーよ! さすが私のダンナ様だわ!』

 カインの視界の中で、アリアのアバターがくるくると踊り、喜んでいる。


「カイン……少尉? 警部補? リーダー?」

 ほのかが呼び方に迷うと、ランがクスクスと笑いながら答えた。

「カインでいいわよね? 家族なんだし」

「……構わんさ。俺たちは家族だ……階級など不要だ」


「ノエル、大統領は?状況を」

「大統領府、秘書官に繋がりました。メッセージが今届いています。場所は統一国家海軍・極東統合司令部『ポルタ・ニグラ・ウラジオストック基地』。四日後の18:00、食事付きの非公式会談です。同席は三名まで。どうしますか、カイン?」


「了承してくれ。ほのか、同行してくれ、準備を。ラン、コンラート、二人は十二宮の襲撃に備えてここで待機だ。万が一敵が出ても、即時出撃は控えろ。ここで待機、判断は俺がする。カール、蠍の情報が上がったら警察と軍に連絡。敵からの攻撃でなければ静観だ。ドクターはカールの補助を。ノエル、君が軍と警察に『将官通達』を出せ。会談には、俺とラズロ、そしてほのかで行く。ラズロは会談の護衛だ」


「了解だ、カイン・リーダー」

「茶化すなラズロ……こっちだって恥ずかしいんだ」

 カインは少しだけ顔を背け、最後の一人に声をかけた。

「マリアンヌ、ヴェノム・ワイバーンを出してくれ。軍の輸送機は動きを読まれやすい。君の腕が必要だ」

「……任せて、カイン」

 マリアンヌの瞳に、ようやくパイロットとしての光が宿った。


 カインは、修復を終えたばかりの指先で、デスクに積まれた膨大なホログラム・ウィンドウを一気に薙ぎ払うように閉じた。

 静寂が戻った司令室で、彼は集まった面々の顔を一人ずつ、サングラス越しにじっくりと見据えた。

 ノエルの顔色は土色のようで、カールの指先が小さく震えているのはリブートエラーだろう。

 ドクターFのモノクルは曇り、ほのかの瞳からは生気が消え失せていた。


「……まずは全員、明日の昼までは仕事禁止だ。これは命令だ。いいから、よく寝ろ」


 カインの低く、有無を言わせぬ声が室内に響いた。

 誰もが反論しようと口を開きかけたが、カインはそれを手で制した。

「カール、まずは自分の外装を治せ。剥げたラミネートじゃヴェールも満足に機能しないだろう。そして、全員だ。……とりあえず、美味い食事を食いに行くぞ。俺たちサイボーグの特権は、システムが目覚めた直後から最大出力でメシを詰め込めることだからな」


 その言葉に、真っ先に反応したのは重傷から復帰したばかりのラズロだった。

「カイン! 言ってくれるぜ、新リーダー! 最高の初命令だ!」

 ラズロはまだギチギチと軋む肩を回しながら、不敵な笑みを浮かべた。

「酒だ、酒も忘れるなよ! 俺は今、死ぬほど肉っぽい、油の滴るハンバーガーを胃袋に叩き込みたいんだからよ!」


 その威勢の良さに、ほのかが数ヶ月ぶりに、小さな、本当に小さな声でクスクスと笑い声を漏らした。

「残念ながらラズロさん、ここは最果ての択捉ですよ。本物の牛なんていません。あるのは……合成肉だけですから」

「ケッ、味気ねえな。だが、今日は合成肉でも許してやるよ」

 ラズロの軽口に、氷が溶けるように雰囲気が熱を帯びていく。


 新リーダー・カインが就任して、記念すべき初めての「任務」は、基地内にある古びた中華料理店への行軍だった。

 ハワイでの「鉄板焼きヤマダヤマ」のような派手なネオンはない。

 地下ノードの片隅で、古い電球が寂しく揺れるその店は、軍の関係者や技術者たちがひっそりと腹を満たすための場所だった。


 ドクターF、カール、ノエル、ほのか……そして、これまで感情を押し殺して哨戒にあたっていたコンラートとラン。

 円卓を囲んだ彼らの前に運ばれてきたのは、派手なご馳走ではなかった。湯気を立てる、海鮮の具が贅沢に入った中華粥だ。


「……いただきます」

 ノエルが、震える手で蓮華を取った。

 まともに寝ることもできず、ジュリアン中尉を失った喪失感と、自分たちの無力さに苛まれていた彼ら。

 過労とストレスでボロボロになった電脳と内臓に、カインが無理やり頼んだ熱い中尉粥がゆっくりと、優しく染み込んでいく。


「熱い……」

 カールが呟く。

 それは、ここ数ヶ月、彼らが忘れていた「生きている温度」だった。

「ドクター、これ……美味しいです」

「そうじゃろう、そうじゃろう。合成だろうが何だろうが、誰かと囲むメシに勝る機能向上プログラムなど、この世には存在せんのじゃよ」

 ドクターFは、モノクルを外して湯気を浴びながら、満足げに目を細めた。


「しんみり食うのは俺たちの……UPLのガラじゃねえ。……おい、やるぞ!」

 ラズロが、人数分の生ビールをテーブルの真ん中に叩きつけた。

 なぜか中華店なのにハンバーガーも提供される。

 それに触発されるように、コンラートが、そしてランまでもが、迷いを振り切るように冷えたジョッキを手に取る。

「ラズロ……過労に酒と肉は……」

 カインの気遣いはラズロの欲望に負ける。

 結局全員がラズロに負けた。


「UPLに……そして、カイン・リーダーに」

「いや」

 カインが、自分のグラスを高く掲げる。

「――逝った奴らと、生き残った俺たちに」


「乾杯!」


 重いジョッキの音が重なり合う。

 その音を合図にしたかのように、誰かが、嗚咽を漏らした。

 最初はほのかだった。次にノエルが顔を伏せ、カールが袖で目を拭った。

 笑いながらビールを喉に流し込んでいたはずのコンラートの目からも、一筋の光が頬を伝って落ちた。


 彼らは泣いていた。

 ジュリアン中尉の死を……メイシーの喪失を……自分たちが負った深い傷を、ようやくここで「乗り越えるべき悲しみ」として受け入れ始めたのだ。

 カインは何も言わず、ただ黙ってビールを飲み干した。

 アリアも、今は静かに沈黙を保っていた。

 少し泣いているのかもしれない。


 この夜の涙は、敗北の証明ではない。

 明日から始まる、復讐劇を生き抜くための、心の休息だった。

 夜が明ければ、彼らは再び戦士に戻る。

 だが、この中華粥の温かさと、ビールの苦味、そして仲間の涙の熱さを知る彼らは、以前のUPLよりも、ずっと強い家族へと変貌を遂げるはずだった。


 中尉という巨大な柱は折れた。

 しかし、その破片から、より黒く、より鋭い刃が立ち上がろうとしていた。

 新生UPLはさらなる心の刃を研ぎあげる。

 神々への反撃の時は近い。

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