表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベヒーモス  作者: うなぎかご
極北の章
102/117

第102話 The Great Metamorphosis

 ハワイの熱砂に刻まれたのは、勝利の凱歌ではなく、拭い去ることのできない敗北の味だった。


 「十二宮」という絶望。

 彼らを一人として仕留めることができなかったという冷徹な事実は、生き残ったUPLメンバー全員の心に、鉛のような重い影を落としていた。


「……終わりじゃない。これは、最悪の始まりなんだわ」

 ノエルは、血の混じった唾を吐き出しながら、低く掠れた声で呟いた。

 UPLは今やジュリアン・ヴァルテール中尉という絶対の大黒柱を失い、存続の危機に瀕している。

 中尉という精神的支柱を失った今、自分たちがどこへ向かうべきか、その答えを持っている者は誰もいなかった。


 吹き荒れる荒野の砂塵を切り裂き、UPL警護役独立憲兵隊の重装甲輸送車両が姿を現した。

 急ブレーキと共に土煙が舞い、車両の後部ハッチが重々しく開放される。


 そこに横たわっていたのは、かつての戦場で「白光の死神」と謳われたミリア中尉の、無惨に沈黙したサイボーグ義体であった。

 彼女を収めたコールドスリープ・カプセルは延命用の緊急リブートモードを示す薄く赤い光に包まれて、ミリアは首と胴体が離れたままカプセルに沈んでいる。


「……まだ、電脳の根幹プログラムは完全には停止していません。メインジェネレーターもコールド・リブートのループを維持している……蘇生の可能性は、まだ、残されています」


 カプセルをUPL司令部まで搬送した憲兵、ロベルト伍長の声は震えていた。

 彼のエメラルドグリーンの瞳には、上官であるミリアへの、信仰にも似た深い敬愛と悲痛な懇願が宿っている。

 彼はミリア率いる第71中隊の生き残りであり、彼女を信じて死線を越えてきた男だった。


「どうか……ミリア中尉を……俺たちの中隊長を助けてください」


 ノエルは震える指先で、カプセルの冷たい半有機強化ガラスに触れた。

 ほんのりと伝わる冷気は、彼女たちが失ったものの大きさを物語るかのように、芯まで冷たかった。


「ミリー……! ミリアぁぁぁぁぁっ! 嫌だ、ひどいよ!首が!あぁぁぁぁぁ!」


 隣でほのかが崩れ落ち、獣のような慟哭を上げる。  

 その細い肩を、カールが痛ましい表情で抱き寄せた。

「助けます。絶対に、彼女を助けて見せます」


 ノエルは涙を食いしばり、専門家としての冷徹な視線でインジケーターの数値を走らせた。

「大丈夫よ。MBFE (メイン・バイオ・フォトニック・エネルギー)はレッドだけど……緊急リブートなら問題ないはず。コアも死んでいない。……択捉島の『ノード・カトラ』に着けば、最新の再生設備があるわ。そこで処置すれば、必ず間に合う。……だからほのか、泣かないで。貴女もやるのよ……ミリアを助けるのは、私たちでしょう?」


 ほのかは鼻をすすり、ノエルの厳しい、けれど慈愛に満ちた瞳を見つめ返した。

「うっ……うう……ねえ、ノエル……。ミリアの中隊……本当に、殆ど壊滅しちゃったんだよね?」


 その問いに、ロベルト伍長が静かに首を垂れた。

「その通りです……。ゾディアックの一撃で……動ける者は数えるほど。故障者も多く、他の中隊への吸収と、第71は解散が内定しています……」


 その言葉を聞いたほのかの瞳に、新たな決意の光が宿る。

「ねえ、ノエル、カール、ドクター……。ミリアの居場所、ここにしてあげられないかな? 彼女を、UPLのエージェントとして迎えてあげてほしいの」


 ドクターFは、カプセルの中のミリアを愛おしそうに見つめ、柔らかな笑みを浮かべた。

「ほっほっ……ほのか、心配はいらん。ワシがこの手でミリアを必ず治そう。そして、彼女がUPLに来てくれるというなら、ワシは大歓迎じゃ。彼女の圧倒的な戦闘力も、そして何より、あの真っ直ぐな人柄は、ワシらはみんな知っておるからな」


「私も賛成です、ほのかさん」

 カールが力強く頷く。

「今のUPLには、彼女のような優秀な戦士が必要です。……最終的な決定を下すべき『リーダー』が、今はまだ眠っていますが……」


「……ええ、みんな分かっているはずよ」

 ノエルが遠く、択捉島の方向を見据えた。

「ジュリアン中尉がその全て――『雷切』と、未来を託した彼。カイン・ヴィラール少尉……いえ、すぐに中尉ね。彼が、新生UPLの旗印になる。私たちは択捉で、彼の目覚めを待つの」


 ドクターFが重々しく口を開く。

「カール。ワシらのこれからの最優先任務は、択捉でカイン、ラズロ、そしてこのミリアを全力で治療し、戦線へ復帰させることじゃ。それが、散っていったジュリアン中尉やメイシーへの、唯一の報いになる」


「はい! ドクター……。レッド・スコルピオンも、あの大打撃を受ければ暫くは動けないはず。その間に、私たちはUPLを立て直すんです」


 ロベルト伍長は、その会話を静かに聞き届け、最後に真っ直ぐな敬礼を捧げた。


「みなさん。UPL護衛役独立憲兵隊の三個中隊が、既に択捉島へ先行し、鉄壁の警備体制を敷いています。もう二度と……みなさんを……そしてミリア中隊長が命懸けで守り抜いた『英雄たち』を、危険な目には遭わせません」

 伍長は一度何かの覚悟をしたように言葉を止める。

「そして……カールとフウラが中隊長の命を繋いだと……二人は装置を繋ぐと……薔薇形のグレネードで消されました。中尉が目覚めたらお伝えください。中隊の生き残りを楽しそうに掃討した……貴女の部下の仇は「薔薇のグレネード」を使う女ですと」

 ロベルトは込み上げる感情を抑えるように一度言葉を切り、カプセルの中で眠るミリアを見つめた。

 彼にとってミリアは護るべき主君であった。


「最後に……どうかお伝えください。生き残った五名の部下は、いつでも、第71中隊の再編を……あなたの帰還を心待ちにしていると。そして、傷ついて戦線を離脱した十二名の仲間たちも……きっと、中尉を信じて必ず復隊するはずです。我々の隊長はミリア中尉、あなた一人なのだと……」


 溢れ出す涙を拭おうともせず、誇らしげに、そして固い決意を込めて語るロベルトの姿に、その場にいた全員が、静かな、けれど熱い涙を貰ってしまった。


 壊滅から再生へ。

 極寒の択捉島で、鋼鉄の獣たちは、反撃の牙を研ぎ始めることになる。


 傍らでは、意識を失ったままのカインとラズロが、静かにカプセルへと沈められ、運ばれていった。


「お嬢、行くぞ」

 コンラートが、立ち尽くすランの肩を叩いた。

「……待って。私たちはまだ、ここを離れるわけにはいかないわ」

 ランは赤く腫らした目で、ハワイの焦土を見つめた。

「ハワイで残党を狩らないと危ないわ。それに今度は追尾されるわけにはいかない。独立憲兵隊のみなさん……先に行くUPLのみんなをお願いね」

 彼女の言葉には、戦いへの義務感以上に、守れなかった仲間への贖罪の響きがあった。

 コンラートもまた、何も言わずにその隣に並び、しんがりとして残る決意を固めた。


 離陸した輸送機に乗り込んでいたのはドクターF、カール、ノエル、そして、まだ瞳を真っ赤に濡らしたままのほのかであった。


 機内の保存カプセルに沈んでいるのは、変わり果てた仲間たちの姿だ。

 腹部を無惨に削り取られ、内部フレームが剥き出しとなったカイン。

 内臓ユニットの殆どを抉られ、バイタル・インジケーターが絶望的な数値を刻み続けるラズロ。

 そして、頸椎を断たれ、生命維持装置に全てを預けてこの世に踏み留まっているミリア。

 未だに意識の戻らないアンバー……。

 ジュリアン中尉とメイシーの遺体は、統一国家軍統合大学の構内に位置する『英雄墓地』へと埋葬されることが決定し、ハワイの地に残された。


 生前、国家の為に「レッド・スコルピオンと戦い続ける」という苛烈な運命を強いられた二人は、その命を散らして初めて、「世界を護った英雄」として白大理石の墓碑銘にその名を刻まれることになる。


 だが、命と引き換えにした栄誉を讃えてくれるはずの血縁は、もはやこの世界のどこにも存在しない。

 機内を支配しているのは、空気を震わせるエンジンの重低音と、誰のものともつかぬ、抑えきれない嗚咽だけであった。


 この日、国家という巨大な機構に潜んでいた毒が、一気に噴出した。

 軍、警察内部に潜伏していたレッド・スコルピオン構成員、その数6,432名が排除され、3,242名が闇へと失踪した。

 民間の被害に至っては、もはや統計すら不可能な混沌の中にあった。


 季節は巡り、秋の彩りは瞬く間に冬の鋭い冷気へと塗り替えられていた。

 統一国家海軍・択捉戦略ノード『カトラ』。

 ハワイでの残敵掃討を終え、ようやくこの地に辿り着いたコンラートとランを迎えたのは、通夜のように重苦しい沈黙だった。


「……中尉は……もう……居ないのだな」

 コンラートの問いに、誰も答えなかった。

 ジュリアン・ヴァルテール中尉の肉体は、文字通り「砕け散って」いた。

 武装パーツは修復不能なまで損壊し、電脳の基幹データの損傷率は97.53%という絶望的な数値を叩き出していた。

 誇り高きジュリアン・ヴァルテール中尉は、死んだのだ。

 その魂は、ハワイ・英雄墓地の土の下へと葬られていた。


「……ミリーは、大丈夫よ」

 ほのかが、コンソールの光に照らされた青白い顔で二人に告げた。

 ほのかの顔は青白く、以前とは完全に別人の様相であった。

 唯一の救いは、ミリアが意識を取り戻さないもものの、順調な回復を見せていることだった。

「彼女の中隊は殆どが壊滅したわ。残った兵士たちは他の中隊へ移ったけれど……ミリアが目醒めたら、UPLのエージェントとして迎えたいと思っているの。それが彼女の『居場所』になるはずだから」


 ほのかの提案に、ランとコンラートは今はただ深く頷き、消え入るような声で謝罪の言葉を繰り返した。


「ミリアは歓迎するわ……ごめんなさい。私たちは、十二宮を前に何もできなかった。目の前でメイシーが、中尉が……。何の役にも立てなかった……」


「僕も……ミリアの加入には賛成だ。そして、すまない……本当に……。僕は、本当に役立たずだった……」


 懺悔のように繰り返される二人の言葉……しかし、ほのかは何も応えなかった。

 そしてその態度はランとコンラートの心を切り刻んだ。

 いつもなら、誰よりも早く「そんなことない!」と明るく励ましたであろう彼女の精神は、すでに限界を越えて疲弊していたのだ。

 慰めの言葉を紡ぐための心の余裕など、今のほのかの中には1ミリも残っていなかったのだ。

 そして、冷たい態度を取ってしまったという後悔は、ほのかの心をも切り刻んでいた。


 ドクターFとカールは、満身創痍の体でコンソールに向かい続けていた。

 二人の顔は激痛で絶えず歪んでいる。

 ほのかもノエルも、いまだに骨折や火傷の痛みが残り、自由にならない指先を歯噛みしながら見つめていた。

「……メイシーがいれば……もう、C-45とVH-23は終わってましたね……」

 カールの呟きが、誰の胸にも突き刺さる。

 全員の命を守るために命を散らした彼女の不在は、物理的な損失以上に、UPLの心に巨大な穴を穿っていた。

 カプセルの底で沈み続けるカインとラズロのバイタルサインは微かなリズムを刻んでいた。

 アンバーは完治していたが、意識だけが戻らない……「電脳脳死」……その言葉がドクターとカールの頭によぎり始めていた。


 その頃、世界は一人の男の醜聞に揺れていた。

 失踪した男、海軍大佐アシュトン・ゾドリゲス。

 レッド・スコーピオンの重鎮と目され、あの日を境に軍から消えた男。

 

 この男が軍のサイボーグ開発部門を牛耳りながら、「個人の意思を無視して特殊MFCSを作り出す」という、神への冒涜にも等しい所業を行っていたことが明るみに出たのだ。


「被害者は43名、うち行方不明は37名……」

 ニュースキャスターの声が、冷淡に被害状況を読み上げる。

 アシュトン・ゾドリゲス……犯罪史上に残る人体実験の被疑者である彼の妻は発狂し、子は施設に預けられていた。


 記憶を剥ぎ取られ、名前すら失った実験体たちの悲鳴が、ようやく世に届いた瞬間だった。

 だが、その報道には、最も肝要な事実が含まれていなかった。


 このアシュトン・ゾドリゲスこそが、十二宮の一柱、アクエリアスであるという事は公表出来るものではなかった。


 彼が渇望した「組織内での際限なき栄達」と、「十二宮に換装する為の最新鋭の軍事特殊義体開発」という狂気の実験。

 その対価として、彼は一体どれほどの若者たちの未来を、その仄暗い野心の底へと飲み込んできたのか。


 その血塗られた真実は、UPLという組織が背負うべき、あまりに重すぎる「十字架」として、歴史の闇に伏せられたままだった。


 そして――その無残な実験の被験者リストの中に、かつてアリスと呼ばれた少女……アリアがいたことなど、誰しもが知る由もなかった。


 択捉の凍てつく夜気が、基地の分厚い隔壁を静かに、しかし執拗に叩いている。


 カール・ウェイ・レンUPL准尉は、失踪したアシュトン・ゾドリゲスが軍の深部に残していった膨大な記録を、狂ったように洗っていた。

 かつての直属の上司であり、血の繋がった実父以上に敬愛していた養父を殺した、憎き仇。


 それだけではない。

 まだジュニアハイスクールだった弟マークも、そして最愛の母も……。

 アシュトンさえいなければ、カールは未だ生身の人生を謳歌してたであろう。

 カールのすべては、この男の底知れぬ野心の犠牲となり、奪い去られたのだ。


 冷徹な情報特化型サイボーグとしての仮面の下で、カールの魂は復讐の炎に焼かれ続けていた。

 

 画面には、海軍特殊技研特務開発部の長であった男が、その権力と地位を利用して行ってきた、吐き気を催すような非道の数々が映し出されている。


 その凄惨な人体実験の果てに記録された膨大なデータの奔流の中に、カールは「見覚えのある」断片を見つけた。


「……これは……」

 カールの指先が、コンソールの上で凍りついたように止まる。


「『アリス・フラロス』……これは……カインさんの中にいる『アリア・シズク・ウォーカー』……アリアさん……?」


 カールがそのデータを見つけたのは偶然だった。

 被験者のいくつかのファイルを無作為にチェックしていたのだ。

 カールは震える手で、二つの脳波形データ、思考記録、そして電脳駆動時のエネルギー消費パターンの照合を開始した。

 アリス・フラロスのデータには見覚えがあった。

 いや、見覚えがあるどころではない。

 それは自分の恩人であり、今はカインの電脳内でしか生きられない「彼女」のパーソナル・ログそのものではないのか。


 情報特化諜報サイボーグであるカールの統一国家海軍開発プロトタイプ重層型デュアル電脳Kp-783-27G-cvによる仮想ホログラムで、複雑なグラフが次々と重なり、同期していく。


「……似ている……あまりにも。波形、シナプス接続の癖、微細なクオリアの残滓まで。……アリアさん、もしかして貴女は……アリスさんなのですか……?」


 アシュトンが「不要なゴミ」と判断し、軍のアーカイブの片隅にゴミ同然に放置していた膨大なログ。

 そこには、彼がこれまでに弄んできた被験体たちの人格根幹データと、消去したはずの記憶データが、呪詛のように堆積していた。


 その中のひとつ――『被験体13号』。


 その脳波形は、コールド・リブート中のカプセルに沈むカインの電脳内から計測される「アリア」のそれと、恐ろしいほどの……そしてあまりにも悲しいほどの一致を見せていた。


 カールの視界で13号という無機質な番号と、横田ベースで話した……そしてマリナ・デル・レイのクルーザーで見せたアリアの優しい微笑みが重なり、歪んでいく。

 孤独の中、本気でカールを助けようと奔走し、そしてカールの目の前でクロエ・フォン・ヴァレンティーヌに殺されたアリア・シズク・ウォーカー。


 カールが導き出した論理的帰結。

 二人が同一人物である確率は――95.64%。


 それは、海軍音楽隊の白い制服に憧れた一人の少女が、ただ「特殊義体への換装適合率が高い」という機械的な理由で選別され、本人の意志を蹂躙された果てに、フルサイボーグへと作り替えられた無残な姿であった。


 記録が示す事実はあまりに凄惨だ。

 戦いなど知らず、ただ音楽と共に生きてきた普通の女の子……。

 音大を出たばかりの、輝かしい未来の中にいたはずの少女が、ある日目覚めた時には全身を冷たい装甲で覆われた「戦闘用サイボーグ」へと変貌していたのだ。

 記憶は消され、雑な記憶が変わりに刷り込まれていた。


 そして――データの最後には、淡々と『廃棄処分』の決定が記されている。


 廃棄理由:故障。

 カールが震える指でその詳細を開くと、そこにはたった二文字、彼女の最後の抵抗が刻まれていた。


――自死。


 彼女にあてがわれた『アリア・シズク・ウォーカー』という名。

 故障後に、「書類上必要だから」という理由だけで付けられた名前である。

 それは名前ですらなく、海軍音楽隊を意味する「アリア」、流体装甲型メインリブを示す「シズク」、そして陸軍所属を意味する「ウォーカー」――それらを繋ぎ合わせただけの、無機質な個体識別コードに過ぎなかったのだ。


 一人のピアノが好きな少女が、名前も……記憶も……家族も、人生すらも奪われ、ただの「実験材料」へと堕とされていたという、吐き気を催すような真実の証明。


 カールの視界で、その残酷なデータが静かに、しかし確定的な重みを持って確定していく。

 カールは何度も目をこすりながらデータを確認する。

 涙が邪魔して数値が滲んでしまうのだ。


 ただの実験体として消されるはずであったアリスという少女…………今、彼女は、アリアと名前を変えて愛する者の元へ辿り着いたという、奇跡と呪いの証明であった。


 カールは、迷わなかった。

 この発見が持つ意味の重さに、背筋が凍るような感覚を覚えながらも、彼はドクターFの元へと向かった。

 それは、カインがひた隠しにしてきた、魂の深淵に触れることを意味していた。


「ドクター……少し、聞いてほしいことがあります。そして………………これは時が来るまで、絶対に誰にも話さないでほしいんです……絶対です」

 カールの改まった様子に、ドクターFは作業の手を止め、レンズ越しに彼を見据えた。

「何じゃ、カール……そんなに改まって。もちろん、お前さんを誰よりも信用しておる。ほのかやノエルにも話さんよ」


 カールは深く息を吸い、震える声で真実を告げた。

「ドクター……。カインさんの電脳の中には、アリア・シズク・ウォーカー……カインさんの最愛の人が入っています。二つの精神が、一つの電脳の中で同居しているんです」

 ドクターの眉が微かに動いた。

「……そうか。あの……カインの電脳に感じていた違和感、コールドリブートの時の……あれは……そうか……その正体はそれだったか。ワシは『あの違和感』に手をつける事が出来ず、隔離して保管した。しかし、そうなると、自分の脳に他人が常駐し、神経も思考も常に共有しているということになるぞ……思考を共有など……」


「その通りです。そして、これを見てください」

 カールが提示したのは、アシュトン・ゾドリゲスが軍で行っていた鬼畜の如き実験記録だった。

 同意なく兵士をフルサイボーグ化し、記憶を弄り、心を書き換え、プロトタイプとして使い潰す。

 その多くは「失踪」として処理され、実際には蠍の戦力として……場合によってはゾディアックに換装される新規パーツの開発実験のため……この鬼畜の如きシステムに組み込まれていたのだ。


「……アクエリアスの所業、まさに外道じゃ……許せん……ワシの娘の仇と言う以上に……はぁはぁ……。己の地位を、蠍の増強のためにこれほどまで利用しておったとは」

 ドクターの顔に深い嫌悪が走る。

「ドクター、見てください。アシュトンのアーカイブにあった『アリス・フラロス』のデータと、今、コールド・リブートで眠っているカインさんの中にいるアリアさんから抽出した電脳データです」


「な……何と! 脳の波形が……クオリア!電磁シナプス接続癖……これもか!」

 ドクターの声が驚愕に震えた。

「ワシは自分の名誉にかけて断言しよう。アリアは、アリスと同一人物じゃ。……そうか、カール。アリアの電脳は不完全なんじゃな? 根幹データが欠落したまま、記憶だけで存在している……本来なら絶対にあり得ん……まさに奇跡の存在というわけか」


「その通りです。だから、アリアさんは自分自身をうまく定義できずにいる……そして、ずっとカインさんの電脳の中で生きています……」

 カールの言葉を遮るように、ドクターがデータを凝視した。

「いや……違うな……断言しよう。記憶の根幹データはある。でなければ、この娘は存在できん。記憶の合間に、自ら根幹データを移動させた?いや……仮説じゃが……記憶が…いや、感情が……人格の根幹データを……作り出したのか?二重人格性サイボーグ精神症とも違う、初めて見る症例じゃが、そう考えれば、これはあり得ないことではない」


「ドクター……僕は、いつかアリアさんをカインさんの電脳から出して、一人の人間として蘇らせたいんです」

 カールの切実な願いに、ドクターは重厚に頷いた。


「うむ……もちろん協力しよう。史上例のない……神をも恐れぬ挑戦になるが、挑む価値はある。アリアの電脳構成を完成させ、脳死状態で電脳換装を待つ適切なドナーが見つかれば、彼女を『新しい義体』へ定着させることは理論上、可能じゃ。外観も、彼女自身の深層記憶に刻まれた瑞々しい姿を再現できるじゃろう…………まずは、アシュトンの残した忌まわしきアーカイブから、アリアの失われた人格断片をすべてサルベージする。その上で、カインの電脳を『重層式デュアル電脳』へと換装し、アリア専用の人格領域を構築するのじゃ。………………そこから先は、アリア自身の『人格統合』の戦いとなる……。失われた過去の『アリス』と、今を生きる『アリア』。その二つの心が一つに溶け合えるか……。だが、これを乗り越えればアリアの精神は真の意味で安定し、もはや消えるようなことはないじゃろう。そして……人格が完全に定着した時、初めてドナーを募り、アリアを新たな器へと移すのじゃ」


 ドクターFは、複雑な演算が走るモニターの先、はるか天を仰いだ。

(兄貴……もうUPLには戻らないのかのぅ……兄貴が居れば何とかなるじゃろうに……)

 ドクターは首を振って、無駄に湧いた雑念を振り払う。


「ふふふ……これは、奇跡が十回ほど重ならないと成し得ない業ですね、ドクター」


 カールの自嘲気味な笑みに、ドクターは静かに、しかし力強く首を振った。


「ああ……その通りじゃ。じゃがなぁ、カール。最大の奇跡は、もう既に目の前で起きとる」

 ドクターは愛しむ様な視線を眠り続けるカインに落とす。

「……記憶じゃ。誰にも顧みられず捨てられたはずの記憶の残滓が、なぜか人格の根幹データを生み出し続けておる……。記憶が魂を作ったのじゃよ……。科学者にあるまじき発言と笑うかもしれんがな……これは、愛という名の奇跡じゃよ」


「カインさんの……『アリアと一緒になる』とか言って婚約指輪まで買った理由……分かりました?」

「ああ……そうじゃな……あの時、電脳内のアリアはきっと……泣いておったのじゃろうな……」

 二人の視線の先には、保存液の中で眠り続けるカインの姿があった。


『そうよ。泣いたわよドクター!……私の名前……アリス……私は……人に戻れるの?でも、カインが好きな私が消える事は無いの?今の私は消えないの?ドクター……教えて……私は消えないの……?二つの心が合わさった私は今の私なの?』


 コールド・リブート・カプセルにカインの電脳が沈んでいる間は、カールにアリアの声は届かない。

「カール、カインが目覚めたらすべてを話そう。まずは、彼の承諾が必要じゃ。……長く、険しい戦いになるぞ」


「望むところです、ドクター。僕は、アリアさんを助けたい。彼女を電脳の底から救い出したいんです」

「そうじゃな……。そしてそれは、カインという一人の男を救うことにもなるのぅ」

 二人は、誰にも知られることのない秘密の盟約を交わすように、固く、力強く握手を交わした。


『このままの私は安定していない……このままだと……私は消えるのね?でも、アリスの心と合わさった私は、私じゃないかも知れない……ねぇ、カイン……どうすればいいの?」


 コンクリートで固められた要塞の中の研究室の窓の外、択捉の断崖から見えるひときわ大きな星が、漆黒の夜空に刻まれていた。

 それは、今にも消えてしまいそうな危うさと、誰にも届かぬ場所で燃え続ける強さを併せ持つ、アリアの精神を象徴するかのように――。


 極寒の風に揺られながら、その光はただ、儚く、しかし気高く瞬いていた。

 そして、その星はアリアの本当の両親――――オメルとアイセルの影を優しく照らしていた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ