第101話 In the Sanctuary of Oblivion
ロッテ・ニューヨーク・パレスのメインダイニングは、かつての鉄道王ヴィラードが建てた邸宅の面影を色濃く残していた。
数世紀を経た重厚な大理石の柱が立ち並び、天井からは精緻なカッティングが施されたクリスタル・シャンデリアが、簡易重力制御で柔らかな光を贅沢に振りまいていた。
テーブルの上には、雪のように白いリネンが敷かれ、磨き上げられた銀食器がシャンデリアの光を反射して眩しく輝いている。
「ニューヨーク州大会準優勝……。大したもんだ、カイン。我が息子ながら、その勝負強さには感服するよ」
テーブルの端で、綺麗に整えられた口髭を指で撫でながら、軍将校である父が重みのある声で告げた。
厳しい軍務に身を置く彼が、これほどまでに相好を崩すのは稀なことだ。
「お父様、今日は軍の演習ではありませんのよ。そんなに怒らないで。ねえ、カイン、本当におめでとう」
隣に座る母が、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべる。
お嬢様育ち特有の柔らかな空気が彼女を包んでいた。
「おいおい、今のはどこが怒っているんだ?ローラ。褒めたつもりなんだが」
今回の祝宴の出資者である母方の祖父母も、満足そうに少し高いヴィンテージワインを傾けながら「クスクス」と笑っている。
「アベル。君は少佐としての威厳があり過ぎるのだよ」
クリスタルグラスが触れ合い、家族の華やかな笑い声とともに澄んだ音が会場の喧騒に溶け込んだ。
「州大会で二位か。となると、次は東米大会、その次が北米大陸大会。勝ち抜けば全米大会……そして最後は、統一国家ハイスクールチャンピオンシップだったかな?」
祖父が確認するように指を折ると、カインは胸を張って力強く頷いた。
「そうだよ。今年の決勝大会はヨーロッパ……スペインで開催されるらしいんだ。おじいちゃんたち、絶対に来てくれるよね?」
「もちろんだとも! カインの晴れ舞台を逃すはずがない。しかし、全米の猛者たちが相手となると、道のりは随分と長そうだぞ?」
祖父が愉快そうに笑うと、カインは身を乗り出して、まだ熱の冷めない試合の様子を語り始めた。
「大丈夫だって。親友のボブと僕のホットライン(連携 )は、どんな鉄壁のディフェンスも切り裂いてみせる。今回はほんの少し、ボブのカバーが遅れて一位を逃したけど、三点差だったんだ。次は最初から攻めまくってやるんだ。誰も僕たちを止められやしないよ」
「……怪我だけはしないでね、カイン。あなたはいつも無茶をするから」
母が、少しだけ心配そうにカインの手に自分の手を重ねた。
恵まれた体格であるカインのプレイは荒いのだ。
その時、賑やかだった会場の灯りが、ゆっくりと落ちていった。
「えっ、何……? サプライズか何か?」
カインが戸惑いながら周囲を見渡すと、祖母がにこやかに彼の肩を叩き、ステージの方を指差した。
「見てごらんなさい、カイン。あの子、最近テレビでも特集されていたのよ」
数機の追尾型静音ドローンが、柔らかなスポットライトとなってステージの中央を照らし出した。
そこに立っていたのは、カインより三つか、あるいは五つは年下であろう、黒髪の小柄な女の子だった。
既製品には見えない光沢のある黒いワンピース。
袖口と裾にあしらわれた控えめなフリルが、彼女の華奢で折れそうなほど細い輪郭を際立たせている。
本人か……あるいは母親が心を込めて仕立てたであろう黒いワンピースは、見る者の気持ちをほんのりと温かくさせた。
「皆さま、ご注目を! アリス・フラロスさんです。統一国家中央部ソロ・ピアノジュニアハイスクール演奏会、作曲演奏の部で見事優勝を果たした『天才少女』を、皆さまもご存知でしょう。世界大会のためにニューヨークを訪れている彼女が、今夜、一晩限りの特別演奏を承諾してくれました。ここにいる皆さまは、真に幸運です!」
司会者の高らかな紹介に、アリスと呼ばれた少女は静かに、儚い仕草で一礼した。
緊張を強い意志で飲み込んでいるのが仕草から分かる。
彼女がピアノの椅子に腰掛け、鍵盤の上に白く細い指先をそっと落とした瞬間、会場を支配していた空気が一変した。
少し残っていたざわめきがかき消えた。
流れ出したのは、胸が締め付けられるほどに美しく、それでいてどこか遠い異郷を思わせる哀切な旋律。
なぜか思い浮かぶのは海……そして少し悲しみを孕んでいる。
カインは、フォークを置いたまま、息をすることさえ忘れてその光景に見入っていた。
カインはその少女を「美しい」と感じた。
それは、十代の少年が抱く淡い恋心などという言葉では到底説明がつかない、魂の深淵を直接揺さぶられるような衝撃だった。
目が離せない。
この瞬間のために自分は生きてきたのではないか――そんな、理屈を超えた運命的な予感すらカインは感じていた。
気がつけば、カインの頬を熱い涙が伝っていた。
自分でも理由が分からない。
ただ、彼女の指が紡ぎ出す音が、彼の心の奥底にある「何か」を激しく揺さぶるのだ。
ピアノの音色は、カイン少年の心に、決して消えない刻印を焼き付けていた。
隣を見ると、いつもおっとりとしている母もまた、ハンカチを握りしめて静かに涙を流していた。
コールド・リブート・カプセルの中にカイン・ヴィラールは沈んでいた。
静寂が支配する換装室の中、青白い保存液に満たされたカプセルが並んでいる。
ドクターFとカールが疲れ果て、ソファーで死んだ様に眠っている。
重厚なハッチの上部に備えられた「換装モード」のインジケーターが、グリーンに淡く灯っている。
その内部で眠るカインの肉体は、目を背けたくなるほどに無惨な状態であった。
先の十二宮との激戦によって、強靭なはずのフレームは無残にひしゃげ、複雑に張り巡らされた生体神経系はズタズタに引き裂かれている。
カプセルが担っているのは、まだ義体の修理ではない。
それは、生体神経系と各パーツを物理的に繋ぎ直すための死に近い「眠り」であった。
だが、肉体が静止している一方で、カインの電脳内では凄まじい密度の演算が続いていた。
カイン本人の意識すら届かない、忘却の彼方に沈んだアーカイブの最深部。
そこには、一人静かにデータを紡ぎ続けるアリアのアバターがあった。
彼女は、まるで繊細で巨大なレースを編むかのように、膨大な情報群を並び替えていく。
それはカインがジュリアン中尉から託された、中尉の戦闘機動の全データであった。
アリアは知っている。
これを単なる外付けの「ダウンロード・ファイル」として保持しているだけでは、「ただの思い出」にしかならない事を。
外部から読み込まれただけの動きは、実戦の極限状態において数秒のラグを生む。
それは、高度なサイボーグ戦では生と死を分かつ致命的な空白となる。
「……これじゃダメ。もっと深く……カインの記憶と戦闘機動データの一つひとつに刻み込むように」
アリアは、中尉の動きを一度数万のファイルに細分化し、それをカインがこれまでに経験してきた戦いの記憶、筋肉の収縮の癖、そして魂の揺らぎと一つずつ照らし合わせ、統合していく。
中尉の技を、カインが「かつて自ら血を流して得た経験」へと変換し、定着させるという、気の遠くなるような再構築作業。
それはカインが次に目醒めた時、意識せずとも身体がその「神速」を再現できるようにするための、アリアによる献身的な調律であった。
「カインに気が付かれなくてもいい……お礼なんて、言われなくてもいい。……カイン。今回みたいな戦い……いや……嫌なの。本当に……怖い。あなたを……死なせたくないの……」
暗く、深い電脳の底。
そこは光さえも届かない、情報の断片が沈む奈落であった。
自分という存在がこのまま漆黒の虚無に呑み込まれ、消えてしまうのではないかと錯覚するほどの孤独な作業だった。
手元にある細く小さな記憶の糸を、一つひとつ丁寧に、そして執念深く紡ぎ続ける。
中尉の残した苛烈な戦闘機動を、カインの経験へと変えるための作業は、一歩間違えればアリア自身の存在を崩壊させかねない過酷な領域に達していた。
指先に触れるのは無機質なデータの奔流。
だが、アリアがそこに込めるのは、熱を帯びた純粋な愛だった。
「いつか、私があなたの中にいられなくなっても……この『力』が、あなたを守ってくれるなら。だから……」
自分が消えるリスクなど考えずに、カインを活かす。
アリアは漆黒の奥底で、誰にも知られることのない献身を、ただ静かに、そして深く刻み続けていた。
ふとカインの深層にあるデータの一つでアリアの手が止まった。
『カイン……このピアノの音色。この、胸が苦しくなるような響き……。そう、これは私……私なのね……。そう、私はあの夜の……パレスで……カイン、貴方もそこにいたのね……』
アリアの意識の中で、酷いノイズ混じりの記憶の断片的が……砕けた映像が火花のように散る。
『アリス……。私の名前……?私の、本当の名前……なの? ダメ……もう粉々で、分からないよ……。でも、このカインのアーカイブに大切に残されている少女は、間違いなく私自身だわ』
彼女は、カインの記憶の中に保存されていた、少年の日の瑞々しくも情熱的な視線に触れた。
『カイン……この時、あなたは私のことを「美しい」って思ってくれたのね。一生懸命に鍵盤を叩く私を、瞬きもせずに見つめて……泣いてくれたのね……』
その記憶は、カイン自身の自覚できる意識表層からは遠く離れ、アーカイブの最下層に、まるで誰にも触れさせたくない宝物のように隠されていた。
『こんなに深いところに、大切に仕舞い込んでいたなんて……。あなたはもう、この日の事……自分でも忘れちゃっているのよね、カイン。…………このデータ、このままここ(深層)に置いておくわね。あなたはいつか、自力でこれを見つける日が来るのかしら。その時、あなたは私のことを「アリス」と呼ぶの?』
アリアは、冷たい水底で独り言を呟くように、切なげな思念を続ける。
『……アリス、という名前は、なんか他人のものみたい……しっくり来ないわ。きっと、あの「天才少女アリス」としての私は……もう居ないのよ。「アリア」……誰が付けたのかも分からない偽物の名前。でもカイン……あなたが、呼んでくれるこの名前の方が、ずっと私らしい気がする。カイン、あなたが呼んでくれる「アリア」が今の本当の私……』
アリアのアバターからは涙が流れ出していた。
『愛してる……カイン。……ごめんなさい。あなたの電脳に勝手に居座り続けて、あなたのリソースを食いつぶして……本当に……ごめんなさい。……本当は、私はもう消えるべきなの。ただのプログラムの残滓……。でも、あなたがそんなに優しいから……。消えたくない、消えたくないよ……カイン。まだ、もう少しだけ……あなたと一緒にいたいの……ちゃんと消えるから……いつかちゃんと消えるから……もう少しだけ……」
カプセルの中で深い眠りに落ちていたカインの義体。
その指先が、アリアの悲痛な叫びに呼応するかのように、微かに、ほんの微かに震えた。
電気信号の誤作動など起きるはずが無かった。
深層意識のさらに奥底、夢すら見ることのない漆黒の淵に沈んでいたはずのカインの意志が、アリアの心に魂の叫びに反応したかの様であった。
あの日ニューヨークのホールで見知らぬ少女の旋律に涙を流した時と同じ、静かで強烈な感情が、電脳の常識を覆してカインの体を動かす。
その指先の僅かな動きは、まるで「お前が消えることなど、俺が許さない」と彼女に向けて叫んでいるかのようだった。
アリアとカイン。
二人の想いは、電脳という空間では説明が出来ない程の奇跡を起こしながらも静かに溶け合う。
カプセルの中の青白いはずの光が、一瞬だけ強く輝いた。
それは誰にも気が付かれない魂の輝きである。
オマケ
択捉島の低く垂れ込めた灰色の雲からは、絶え間なく冷たい霧雨が降り注いでいた。
吹き付ける海風は鋭く、墓地に供えられたばかりの花を無慈悲に揺らしている。
娘が好きだった花……ピンクの薔薇とカスミソウは今にも風に引きちぎられそうに揺れていた。
「ピアノの演奏会の時は必ずこれね!」と、この花を見るたびに聞こえる、快活な娘の声が彼らの心を抉り続けた。
オメル・フラロスは、妻アイセルの震える肩を静かに抱き寄せた。
二人の前にあるのは、あの日、軍から「アリス・フラロス」として返されたものを葬った冷たい石碑だ。
「……行こう、アイセル。風が冷たくなってきた」
オメルが促すと、アイセルは力なく頷き、声の出ない唇を微かに動かした。
娘を失ったあの日以来、彼女は音を失い、言葉を奪われた。
精神的なショックが彼女の感覚を閉ざしてしまったのだ。
軍の男たちは、表情一つ変えずに告げた。
『娘さんは、整備作業中の不慮の事故により、大型パーツ粉砕機へ落下しました。……誠に遺憾です』
謝罪の言葉と共に渡されたのは、かつてピアノを弾いていたしなやかな指も、母親が仕立てたワンピースに包まれていたはずの華奢な体も、その面影すら留めていないビニール袋だった。
赤黒い液体と化した「何か」を、軍は娘だと言い張り、法外な見舞金で口を封じた。
娘との鮮烈な思い出が、至る所に刻まれている統一国家中央部。
そこを離れ、最果ての択捉島へと流れ着いたのは、ただ静かに朽ちていくためだった。
あえてこの過酷な島を選んだのは、切り立った断崖と吹き付ける凍てつく風、そんな峻厳な環境に身を置くことで、娘を一人で死なせてしまった自分たちを罰し続けたいという、贖罪の念からであった。
オメルは島の片隅で、潮風に晒された小さな洋品店を営んでいる。
かつてアレクサンドリアの社交場を歩くための上質な生地を扱っていたその店は、いまや荒れた手指を震わせながら、島民たちの無骨な実用衣料を棚に並べていた。
傍らではアイセルが、窓から差し込む心細い光を頼りに、黙々と針を動かしている。
かつて娘アリスのために、演奏会用のドレスを縫い上げたその指先は、いまは見る影もなく地味な島民たちの作業着を、ただ一針一針、淡々と繕っていた。
AI縫製機も使わないのは、彼女のこだわりだった。
「ママの作ったワンピースはいつもステキだわ」
作業中に聞こえる娘の声が、度々アイセルの手を止める。
言葉を失った彼女が刻むミシンの音だけが、隙間風の鳴る店内に寂しく響いている。
彼女にとってその縫製作業は、二度と元に戻ることのない、引き裂かれた自分たちの人生を繋ぎ合わせようとする、虚しい儀式のようでもあった。
彼らが暮らす街のすぐ隣には、切り立った断崖に要塞のごとく築かれた巨大な施設――『統一国家海軍・択捉戦略ノード・カトラ』が鎮座している。
重厚な防壁に囲まれたその深部で、自分たちが愛した娘の意識をその身に宿した男、カイン・ヴィラールが青白い保存液の中で眠っていることなど、夫婦は知る由もなかった。
すぐ傍にいる。
アリスは、アリアとして、今もなお彼らの隣で「生きて」いる。
冷たい雨を基地の隔壁から照らされた緑の光が照らす。
彼らの絶望は、カプセルのインジケーターと同じグリーンを帯びた基地の光に照らされ、今日も虚空へと消えていった。




