第43話
演習場の広場を駆け抜け、学院の裏手へ──。
温室から少し離れた木陰の小径まで、ヴィオレットは必死に走っていた。
涙が頰を伝い、視界をぼやけさせる。
それでも足を止められなかった。
頭の中をあの光景がぐるぐると回っている。
「ラインハルト様が……あんな……」
胸が締めつけられるように痛い。
息が苦しい。
自分でも驚くほどに、涙が止まらない。
その時、後ろから風を切る音がした。
「ヴィオレット!」
聞き慣れた声。
ラインハルトの声だった。
足音が近づき、すぐに追いつかれる。
だがヴィオレットは振り向かなかった。
肩が固くなり、唇を噛んで涙を堪える。
ラインハルトは少し息を切らしながら、彼女の前に回り込んだ。
「ヴィオレット……すまなかった。俺のせいだ」
低く、掠れた声だった。
いつも冷静で、どこか遠くを見ているような彼の声が、今は明らかに動揺している。
ヴィオレットは首を横に振った。
振り向かないまま、肩をさらに縮めて。
ラインハルトは言葉を探すように周囲を見回し、それから続けた。
「言い訳をするなと言われてきた。だが……聞いて欲しい」
一歩近づく。
「僕は……君が好きだ。これは決してまやかしではない。僕の、真の心なんだ」
ヴィオレットの足がぴたりと止まった。
背中越しに届く言葉。
いつも古風で、どこか他人行儀な彼の口から出た「好きだ」という言葉は、驚くほどストレートで、重かった。
「……そのままでいい。聞いていて欲しい」
ラインハルトは少し間を置いて、語り始めた。
「僕はこれまで、強くなりたいという一心で過ごしてきた。ただひたすらに自身の力のなさを嘆いて、人の心など二の次だった。だからこんな気持ちになったのが初めてで……上手く伝えられなかった。友の言葉を借りて、友の教えのままに君に接してきた。でもそれは違うんだと、周りを見てわかった。心を動かされたのは、君が初めてだ。君が泣くと僕は何も考えられなくなる。先輩は試験の最中に動けなくなって……やむなくあのような形になってしまった。僕の気持ちに嘘偽りはない」
木陰に言葉が途切れた。
風が通り抜け、葉ずれの音だけが響く。
そして──
ヴィオレットはその場にしゃがみ込むと、両手で顔を覆って大きな声で泣き出した。
「うわあああん!」
突然の爆発に、ラインハルトは目を丸くして周りをきょろきょろ見回した。
「ごっごめんっ! ヴィオレット!」
「違うんですっ! 私が勝手に驚いちゃったからっ! うわあああん!」
「ヴィオレット……っ!」
慌てて近づき、しゃがんだヴィオレットの背中にそっと手を回す。
優しく、包み込むように抱きしめた。
「ひえっ……!」
ヴィオレットがびくっと身を強張らせる。
ラインハルトはそのまま、彼女の黒髪を優しく撫でた。
初めて触れる髪の柔らかさと、温かさ。
小さな背中が熱を帯びていた。
「らい……んはるとさま……っ」
鼻をすすりながら、掠れた声。
ラインハルトは少し照れたように、苦笑を浮かべた。
「この歳で恋に臆病だなんて……笑わないでくれるか?」
ヴィオレットは涙でぐちゃぐちゃの顔を上げ、ぽかんと口を開けた。
「……私たち、同い年です」
言葉が出た直後、ラインハルトの顔が微妙に赤くなる。
「……そうだね」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
木陰に差し込む陽光が、二人の影を優しく重ねていた。
少しの沈黙。
ヴィオレットが、頰を赤らめたまま、そっと口を開いた。
「……ラインハルト様」
ラインハルトは優しく下を見下ろす。
。
「なに? ヴィオレット」
彼女は指先をぎゅっと握りしめ、俯き加減で、でもはっきりとした声で言った。
「その……まだ、許してないですからね」
ラインハルトが瞬きを繰り返す。
「……どうしたら許してくれる?」
ヴィオレットは顔を上げ、恥ずかしそうに唇を噛んだ。
「その……愛してるって……その……」
言葉が途切れ途切れになる。
ラインハルトは息を止め、それから──
「……愛してるよ。ヴィオレット」
ヴィオレットの肩が、びくっと引きつり。
瞳に新しい涙が浮かぶ。
でも今度は、嬉し泣きだ。
彼女は息を吸い、勇気を振り絞るように続けた。
「……キス……してくれませんか?」
木陰が、ぴたりと静まり返った。
ラインハルトの顔が、みるみるうちに赤くなる。
でも、彼は手を伸ばし、ヴィオレットの頰にそっと触れた。
「……いい?」
小さな確認。
ヴィオレットはこくんと頷き、目を閉じた。
ラインハルトも顔を近づける。
──そして。
柔らかく、温かく、ぎこちなく、でも確かに。
二人の唇が触れ合った。
一瞬の、永遠のような時間。
風が葉を揺らし、陽光が二人の輪郭を優しく照らす。
離れた直後、二人は同時に顔を背け、耳まで真っ赤になった。
「……っ!」
「……っ!」
ヴィオレットが両手で顔を覆い、ラインハルトは咳払いをしながら空を見上げた。
「……これは、その……」
言葉にならない。
ヴィオレットが指の隙間から覗かせて、小さな声で言った。
「……許します……」
ラインハルトは苦笑しながら、そっと彼女の手を取った。
「……これからもよろしく」
二人の手が、固く、温かく繋がれた。




