第31話
少し経ち、二人は運河沿いの小さなカフェテラスに腰を下ろした。
川面に映る街灯が揺れ、穏やかな風が吹き抜ける。
アレックスは温かい紅茶を一口飲み、ふと真剣な顔でラインハルトを見た。
「……なあ、ラインハルト。今日、楽しかったか?」
ラインハルトはカップを置いて、答えた。
「とても」
その一言に、アレックスの顔がぱっと明るくなった。
彼は立ち上がり、リリアに目配せする。
リリアがため息をつきながらも、大きな花束を抱えて近づいてきた。
黄色の花が美しく束ねられ、リボンが優しく結ばれている。
アレックスはそれをラインハルトに差し出した。
「これが女性の求める最高のデートプランだ。甘いもの、綺麗なもの、言葉、そして最後に花。覚えておけよ?」
花束を受け取りながら、ラインハルトは笑った。
「教えてもらったのがお前で良かった」
アレックスは照れくさそうに頭を掻き、それでも満面の笑みを浮かべてラインハルトを見返した。
運河の水面に揺れる街灯が、まるで祝福するように瞬いた。
リリアが控えめに声を掛ける。
「殿下、そろそろお帰りの時間です」
アレックスは少し名残惜しそうに肩をすくめた。
「わかったよ。じゃあそろそろ帰るか」
アレックスが踵を返したその時──遠く、建物の影から、奇妙な魔力の揺らぎが走った。
風とは違う、鋭く、冷たい。
「……殺気か」
ラインハルトは反射的に地面を蹴り、アレックスに飛びついた。
二人がいた場所の石畳を、細い針が穿った。
針は透明で、氷の結晶のように光を反射していた。
着地と同時に、それは音もなく溶け始め、地面に小さな水溜まりを残すだけ。
証拠は消え、まるで何もなかったかのように。
騎士たちが慌てて盾を構え、二人を囲むように身を寄せた。
リリアは素早く杖を抜き、アレックスとラインハルトに覆いかぶさる形で守る。
アレックスは目を丸くし、声を低くした。
「いったいなんだ!?」
ラインハルトは地面に残ったわずかな水溜まりを見下ろした。
「暗殺だ。動くな」
アレックスの表情が真剣になり、コクッと頷いた。
騎士たちが素早く周囲を索敵し、建物の屋根や路地を睨みつけたが、既に気配は消えていた。
氷の針は溶け、魔力の残滓すら薄れていく。
完璧な手口──証拠を残さない、追跡を許さない。
「安全です。馬車へ!」
護衛の騎士に守られながら、二人は急ぎ足で馬車に乗り込んだ。
扉が閉まり、馬車が発進するまで、誰も言葉を発しなかった。
やがて、エーゼルヴァルト家の屋敷が見えてきた。
ラインハルトが馬車を降りる際、アレックスが窓から身を乗り出して声をかけた。
「すまないな。俺のせいで……巻き込んでしまった」
ラインハルトは首を振り、穏やかに唇の端を曲げた。
「とても刺激的だったよ。皇子様」
アレックスは苦笑を浮かべた。
「元気で何よりだ。……出せ」
御者に短く告げると、馬車は城へと走り去っていった。
ラインハルトは屋敷の門前で足を止め、夜空を見上げた。
満月が、冷たく澄んだ光を降り注いでいる。
「……私が女なら、こういう時に詩でも詠うのだろうな」
心の中で思い浮かべ、歩き出す。
「あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも」
古の言葉は、誰にも届かず、ただ夜風に溶けていった。




