第4話 日東第一形勝
雨の音で朝が始まる。
低い雲が鞆ノ津の港を覆って、海が灰色に沈んでいる。島影が靄にぼやけて、昨日の青空が嘘のように消えた。潮待ちの港は、こういう日こそ本来の姿を見せるのかもしれない。出港できない船が何隻も雁木に繋がれて、船乗りたちが軒先で酒を飲んでいる。
待つ港。待つ人。風と潮が変わるまで、ここで時間を過ごす。それが鞆ノ津という場所だ。
世子殿下からのお届け物——書状と反物の箱——は、昨日のうちに問屋場で受け取った。帰りの船は明日の朝、潮を見て出す。つまり今日は丸一日、鞆ノ津にいられる。
千歳に「どこか行きたいところは」と聞かれて、わたしは迷わず答えた。
「對潮楼に行きたい」
千歳が少し目を丸くした。「お嬢様がご自分からおっしゃるとは」という顔をしたが、すぐに「かしこまりました」と頷いた。
*
對潮楼は、鞆ノ津の高台にある館だった。
港から石段を登ること数百段。雨に濡れた石が滑りやすくて、足を置くたびに神経を使う。千歳がさりげなく手を添えてくれたが、瀬名の体にはまだ船旅の疲れが残っていて、息が上がった。前世なら7日間歩き通した足で何ともなかったはずだが、この体はわたしの足ではない。
石段を登りきると、白壁の塀に囲まれた館が見えた。門の脇に松の老木があって、雨粒が松葉の先から一粒ずつ落ちている。庭は枯山水で、砂紋が雨に少し乱されている。
——前世の對潮楼とは違う。
あちらは観光施設として整備されていた。入場料を払って、畳の広間に上がって、仙酔島を眺める。でもここは、まだ「生きている」建物だ。柱が太くて、欄間に波の透かし彫りがある。廊下の板が歩くたびに軋んで、誰かが長い年月をここで暮らしてきた気配が木に染みている。
館の縁側に出た瞬間、声が出なかった。
仙酔島が、目の前にある。
雨の海の向こうに、緑の島がぼんやりと浮かんでいる。快晴ならくっきり見えたであろう稜線が、今は水墨画のようにぼやけている。島の裾を灰色の靄が覆い、頂の緑だけが雲を透かしてうっすら見えた。雨粒が海面を叩いて、無数の小さな波紋が広がっている。
——前世で見た景色だ。
對潮楼から見る仙酔島。あの旅のとき、千尋はこの眺めを建築学科の目で分析していた。「空間構成における借景の効果」などとノートに書き込んでいた。でも今、瀬名の体でここに立つと、分析が止まる。
きれいだ。
雨に煙る島の輪郭が、墨を一筆引いたように海の上に横たわっている。
「日東第一形勝」
隣に立った千歳が言った。
「かつてこの地を訪れた異国の使節が、この眺めをそう評したと伝えられております。東の国で最も美しい風景、と」
日東第一形勝。
前世の鞆の浦にも、その言葉が對潮楼の額に掲げてあった。朝鮮通信使の讃辞。あの記憶と重なる。
でも千歳は「朝鮮通信使」とは言わなかった。「異国の使節」。この世界における異国との交流の形は、前世とは違うのかもしれない。
「千歳。對潮楼の書庫を見せていただくことはできますか」
「書庫、でございますか」
「鷲羽の書斎にあった地図で、気になることがあって。古い文書を調べたいのです」
千歳は少し考えてから、「幸兵衛殿にお願いしてみましょう」と答えた。
*
幸兵衛は鷲羽家の家老で、鞆ノ津の問屋場を管理している老齢の武士だった。白髪を短く刈り込んで、背筋がまっすぐに伸びている。瀬名が書庫を見たいと言うと、眉を上げたが断らなかった。
「お嬢様は幼い頃から書物がお好きでしたな。どうぞ、ご存分に」
——瀬名は本好きだったのか。
ゲームでは「傲慢な令嬢」としか描かれていなかったが、この世界の瀬名は知的好奇心のある人間だ。千歳も幸兵衛も、瀬名が調べものをすることを不自然に思っていない。元の瀬名の性格に助けられている。
書庫は對潮楼の奥にある小部屋だった。
障子を開けると、紙と墨の匂いが押し寄せてくる。古い紙の、乾いた甘さ。墨の炭素の匂い。糊が劣化した酸っぱさが混じっていて、鼻の奥がくすぐったくなる。
棚に巻物と綴じ本がぎっしり並んでいた。背表紙に書かれた題目をざっと見る。交易の記録。潮位表。船の出入帳。鞆ノ津に出入りした船の名前が何百年分も綴じられている。
——港の記録だ。
建築学科の血が騒ぐ。港湾の記録は建築の資料と同じだ。いつ、どこで、誰が、何を。時間と空間の積み重ねが、港という場所を作っている。
目的の文書は、すぐには見つからなかった。
鷲羽の書斎にあった地図の「墨で消された家紋」。あれが何なのかを調べたい。でも何を探しているのか自分でもはっきりしないから、手当たり次第に巻物を開いていく。
交易記録を3巻ほど読み進めたところで、古い帳面に挟まれた紙片が落ちた。
薄い和紙に、細かい文字が書かれている。墨の色が他の文書より薄い。古い。
「瀬都内海七家ノ成立ニ関スル覚書」
七家の成立。心臓が速くなる。
文字を追った。筆の崩し字が読みにくいが、建築学科で古文書を読む訓練は少しだけ受けている。
——瀬都内海の統治は、古くは八家によって行われていた。
8家。
七家ではない。
——八家のうち一家は、海守衆と七家の橋渡しを担う特別な役割を持っていた。潮守家と呼ばれ、鷲羽家の分家筋にあたる。
潮守家。
鷲羽の分家。海守衆との橋渡し。
——地図で消されていた家紋は、この家のものか。
——しかるに、約五十年前の國主の裁きにより、潮守家は取り潰された。以来、七家をもって統治の形とする。
取り潰し。五十年前。國主の裁き。
「五十年の裁き」。ゲームでは聞いたことがない。1周しかしていないから、サブイベントで触れられていたのかもしれないけれど——いや。もしかしたらゲームでは、この情報自体が存在しなかったのかもしれない。ゲームの世界では七家が最初から七家で、第八の家など描かれていなかった。
でもこの世界には、消された家がある。
紙片を裏返した。
——潮守家の姫は、國主の世子を誑かした罪により弾劾され、過所旗を剥奪の上、追放された。
姫が世子を誑かした罪。弾劾。過所旗の剥奪。追放。
——これ、わたしと同じパターンだ。
瀬名も國主家の世子の許嫁で、ゲームでは裁きのあとに追放される。50年前にも、同じ構図の事件が起きている。
偶然か。
偶然で済ませていいのか。
手が震えた。紙片を巻物の間にそっと戻して、書庫の中を見回す。他にも何かあるかもしれない。でも雨の音が障子の向こうに響いていて、どれくらい時間が経ったのかわからない。棚にはまだ何十巻もの文書が残っている。1日では到底、全部は読めない。
——もう一度来なければ。
この書庫に。そして鷲羽の書斎にも。あの地図の消された家紋を、今度はもっと注意深く見る必要がある。
*
障子を開けると、廊下に千歳が座っていた。
「お嬢様。汐音堂の汐音殿がお見えです」
「汐音が?」
「雨の中お越しになって。お嬢様にお渡ししたいものがある、と」
對潮楼の縁側で、汐音が待っていた。
濡れた髪が額に貼りついている。前掛けの裾にも雨粒がついていて、港から石段を駆け上がってきたのが見てとれた。手に小さな包みを持っている。
「瀬名さん。昨日のお礼です」
包みを開くと、小さな壺が入っていた。手のひらに収まるくらいの大きさ。
「特別な保命酒です。うちで一番良い薬草を使って、わたしが仕込んだもの。体が冷えているときに、少しずつ飲んでください」
昨日、わたしが店に来て、薬草に触れて、保命酒を飲んだ。それだけのことに、雨の中をわざわざ届けに来てくれている。
壺を受け取った。汐音の手がずっと抱えていたのだろう。陶器がほんのり温かい。
「……ありがとうございます」
「それと——」
汐音が仙酔島の方を見た。雨に煙る島影が、縁側から正面に見える。
「明日、もし晴れたら——仙酔島に渡ってみませんか」
「仙酔島に?」
「あの島に、面白い人がいるんですよ。芸術家です。五色岩のそばに住んでいて、不思議なものを作っている人で。わたし、保命酒を届けに月に1回くらい渡るんですけど——瀬名さんに会わせたいなって、思いました」
汐音の目がまっすぐだった。打算がない。ただ、わたしに見せたいものがある、という目。
——仙酔島。
前世の旅行では行けなかった場所だ。鞆の浦から渡し船で5分。五色岩は赤・白・黄・青・黒の岩が連なる奇岩群で、パワースポットとして有名だった。ガイドブックの写真を見ただけで、実際に行く時間はなかった。
「行きます」
即答した。
汐音が笑った。雨に濡れた顔で、目が三日月になる。
*
汐音が帰ったあと、縁側にひとり残って仙酔島を眺めた。
雨はまだ降っている。島の稜線がぼんやりと浮かんで、海と空の境界がわからない。灰色の世界の中に、島の緑だけがかろうじて色を保っている。
書庫で見つけた紙片のことを、反芻する。
第八の家。潮守家。50年前の裁き。消された家紋。「姫が世子を誑かした罪」。
——ゲームの断罪イベントと、構造が同じだ。
ゲームでは、瀬名が世子の婚約者としてヒロインを迫害し、海祭りの日にみんなの前で裁かれる。でもこの世界では、50年前にも同じパターンの事件が起きている。令嬢が罪を着せられ、弾劾され、追放される。
ゲームは——この世界の「表面」だけを切り取ったものだと、最初から感じていた。でもまさか、裁きのパターンまで歴史に先例があるとは思わなかった。
——わたしの裁きは、偶然じゃないのかもしれない。
50年前と同じことが、今度はわたしの身に起きようとしている。もしそうなら、回避の方法も「前と同じパターンを壊す」ことにあるのかもしれない。
でも潮守家は回避できなかった。取り潰された。姫は追放された。
何が違えば、結果は変わるのか。
鷲羽の書斎にあった地図をもう一度、思い出す。
七家の家紋と領地が記されていて、端の方に墨で塗り潰された痕跡があった。あのとき何となく気になって、でも「今はもっと緊急なことがある」と後回しにした。
後回しにしたものが、ここで繋がった。
雨が小降りになっている。
仙酔島の輪郭が、さっきより少しだけはっきり見えた。島の右端に、色の違う岩肌がちらりと覗いている。赤みを帯びた岩。あれが五色岩の一部かもしれない。
明日、晴れたら渡る。汐音と一緒に。
——汐音は、この島の芸術家に会わせたいと言った。「面白い人」と。
ゲームの登場人物の中に、仙酔島に住む芸術家は——いなかったと思う。1周では出会わなかった。でもこの世界には、ゲームに描かれなかった人間が無数にいる。
千歳が傘を持って迎えに来た。
「お嬢様。宿のご用意ができております」
「千歳。一つ聞きたいのですが」
「はい」
「鷲羽家に——分家はありましたか」
千歳の目が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。すぐに元の穏やかな表情に戻る。
「……昔のことは、幸兵衛殿のほうがお詳しゅうございましょう」
答えを避けた。
千歳は知っている。でも、自分からは言えない。そういう顔だった。
——踏み込みすぎたか。
「すみません。少し、調べもので頭がいっぱいになっていました」
「お嬢様は昔からそうでいらっしゃいます」
千歳が少し笑った。瀬名の過去を知る人の、懐かしそうな笑み。
雨が上がりかけている。西の空に、わずかに明るい隙間が見えた。




