第3話 常夜燈の薬師
暖簾は藍染めだった。
濃い藍に白抜きで「汐音堂」と染められた布が、海風にゆるく揺れている。軒先に束ねた薬草が吊るされていて、乾いた葉の匂いが保命酒の甘い香りと混じり合い、このあたりの空気を独特なものにしている。苦みと甘さのあいだにある、名前のつけにくい匂い。鼻腔の奥が少しだけ痺れる。
常夜燈の裏手——千歳が教えてくれた通りの場所だ。石の燈籠を背にして港の通りをほんの数歩入ったところに、その小さな店はあった。
間口は狭い。板壁の建物で、2階に格子窓がある。格子の隙間から中の暗がりがちらりと見えて、棚に並んだ壺や瓶の輪郭が薄ぼんやり浮かんでいる。
——ここだ。
ゲームのヒロインがいる場所。汐音という名前の、薬師の娘。
「千歳。ここで少し、待っていてください」
「お一人で、でございますか」
千歳の眉がほんの僅かに寄った。鷲羽家のお嬢様が一人で薬師の店に入るのは、普通ではないのだろう。護衛の家臣2人も、千歳の後ろで困った顔をしている。
「体の調子が少し。保命酒が良いと聞いたので」
嘘ではない。この体——瀬名の体は、昨日の船旅のあとから少し気だるい。船酔いの名残か、この体に来てから蓄積した疲労なのかはわからないが、体が重いのは確かだ。
千歳は一瞬だけ迷ってから、「お声をかけてくだされば、すぐに参ります」と頭を下げた。この人はいつも、わたしが何かを隠しているとわかっていても踏み込まない。侍女としての距離の取り方なのか、瀬名本来の性格をよく知っているからか——どちらにしても、助かる。
暖簾をくぐった。
薬草の匂いが、一気に濃くなる。
店の中は薄暗かった。入口から差し込む光で、土間の左右に並んだ棚が浮かび上がっている。陶器の壺、木の薬箱、布で包まれた薬包。棚の奥に秤と乳鉢が見えた。乳鉢の内側に薬草の粉が残っていて、薄い緑色をしている。
天井から束ねた草が何本も吊るされている。茶色の樹皮を巻いたもの、花のつぼみを乾かしたもの、種のようなもの。それぞれ色と形が違って、空気の中にそれらの匂いが何層にも重なって漂っている。
奥の板間に、誰かがいる。
「いらっしゃいませ」
声が、明るかった。
薬草の匂いの奥から出てきたのは、わたしと同じくらいの年頃の少女だった。栗色の髪を一つに結んでいる。頬が日に焼けていて、健康的な肌の色。前掛けの紐が腰のあたりで結ばれていて、袖をまくった腕に擂り粉木を持っている。
笑うと、目が三日月になった。
——この子だ。
ゲームの立ち絵が一瞬だけ重なる。乙女ゲーム『潮騒のセレナーデ』のメインヒロイン。プレイヤーの選択次第で國主家の世子にも海守衆の頭領にも見初められる、薬師の少女。
でもゲームの立ち絵は、もっと——なんというか、ふわふわしていた。「かわいい平民の女の子」という記号で描かれていた気がする。目の前にいるこの子は、擂り粉木を握った手が逞しくて、目の下にうっすら隈がある。朝から調合をしていたのだろう。指の爪に緑色の粉が残っている。
「保命酒をいただけますか」
汐音の表情が変わった。笑顔のまま、目の奥に何かが走る。
「……鷲羽のお嬢様でいらっしゃいますか」
知っている。わたしのことを——瀬名のことを、知っている。
当然だ。鷲羽家は七家の筆頭。このあたりの海域の交易を仕切る家の一人娘が、護衛つきで港に来ているのだ。鞆ノ津は小さな港町で、余所者の来訪はすぐに伝わるだろう。
「ええ。鷲羽家の瀬名です。あなたが、汐音さんですか」
少女の目がもう一段大きくなった。
「名前を、ご存じなのですか」
——しまった。
ゲームの知識で名前を知っていたのを、そのまま出してしまった。鷲羽のお嬢様が鞆ノ津の薬師の娘の名前を知っている理由は、この世界にはない。
「保命酒が気に入ったので、作り手のことを聞きたくて。港で評判を聞きました」
咄嗟の嘘だった。千歳がわたしの背後で一瞬だけ息を止めたのが、気配でわかる。でも何も言わなかった。
汐音は数秒だけわたしの目を見て、それから——笑った。
「そうですか。それは嬉しいです。うちの保命酒、気に入っていただけたんですね」
警戒が消えたわけではないと思う。でも笑顔のほうが先に出る人なのだ。
*
汐音が奥から保命酒を持ってきてくれた。
小さな杯に注がれた琥珀色の液体。口に含むと、甘さが先に来て、あとから薬草の苦みが追いかけてくる。舌の奥で味が混じり合い、喉を過ぎると温かい。お腹の奥にじんわりと熱が落ちていく。
——前世で飲んだ保命酒と、味が違う。
観光土産で買った瓶詰めは、もっと均質な味だった。これは違う。手作りの、この店の竈で、この薬草で、この人の手で仕上げられたものの味がする。
「16種の薬草を使うんですよ」
汐音が棚から小さな壺を取り出しながら言った。声が少し弾んでいる。
「もち米を蒸して、みりんを仕込んで、そこに薬草を漬け込みます。桂皮と丁子が骨格になって、甘草で甘みを出して、あとは——企業秘密です」
最後に笑った。保命酒の話になると声が明るくなる。好きなものを語るときの人間は、隠しごとが下手だ。
「この調合は、汐音さんが?」
「母から教わりました。母は祖母から。うちは3代続く薬師の家です」
3代。祖母。
ゲームでは汐音の出自は「平民の薬師の娘」としか描かれていなかった。それ以上の背景は語られない。でもこの世界では「3代続く薬師」に家系がある。祖母がいる。
——汐音の祖母は、海守衆の出身だ。
美桜が攻略後に教えてくれた気がする。「汐音ちゃんの祖母が実は海守衆の血筋で、それが終盤の伏線になるんだよ」と。さらっと聞き流したから詳細は覚えていない。
でも今、目の前にいる汐音は——ゲームの「ヒロイン」ではなく、3代続く薬師の家の娘で、保命酒の調合に情熱を注いでいて、知らない客にも笑顔を向けてくれる一人の人間だ。
「触ってみてください」
汐音が桂皮の瓶の中身をひとつまみ、手のひらに載せて差し出した。
「乾燥の具合で効き目が変わるんです」
指先で薬草に触れた。桂皮はかさかさした木の皮で、爪で軽くこすると甘い匂いが強くなる。
「こっちが丁子。歯が痛いときにも使います」
小さなつぼみを指で潰すと、鋭い香りが立つ。痺れるような、舌の奥を刺す匂い。
「茴香。白朮。枸杞……」
次々に瓶を開けて、中身を見せてくれる。汐音の手が迷いなく動いている。16種類の薬草を、それぞれ違う量だけ量り取って、布の袋に詰めていく。秤を使わない。指と目の感覚だけで量を決めている。
——すごいな。
前世の大学で、研究室の先輩が試薬を調合しているのを見たことがある。あれは電子秤で0.01グラム単位で量っていた。汐音は指先の感触で、おそらくそれに匹敵する精度を出している。何年もの反復で体に刻まれた技術だ。
「この薬草は、どこから?」
「ほとんどは鞆ノ津の周りの山で採れます。でも桂皮と丁子は南の島から船で運ばれてくるんですよ。過所旗つきの交易船で」
——薬草の流通にも、過所旗が絡んでいる。
海守衆が海を押さえているということは、薬草の輸送も海守衆のインフラに依存しているということだ。汐音堂の保命酒は、海守衆なしには作れない。
「海守衆の方とは、付き合いがあるのですか」
汐音の手が一瞬止まった。瓶の蓋を閉める動きが、ほんのわずかだけ硬くなる。
「……取引はあります。薬草の仕入れで。案内衆の方が怪我をされたときに、手当てをすることも」
言葉を選んでいる。
ゲームの裏設定が頭をよぎった。汐音の祖母は海守衆の出身。でも父の方針で隠している。だから海守衆との関わりを聞かれると、慎重になるのか。
——深追いはしない。今は。
*
「瀬名さん」
汐音が急に声のトーンを変えた。棚の前に立ったまま、少し首をかしげている。
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「瀬名さんは——保命酒の味、覚えていますか?」
不思議な質問だった。
「今、飲みましたけれど」
「そうじゃなくて。前に飲んだこと、ありますか。この店で」
心臓が跳ねた。
「瀬名お嬢様は、2年前に一度、この店にいらしたことがあるんです。まだわたしが母の手伝いを始めたばかりの頃で。あのときはお付きの方だけで、お嬢様ご自身は店には入らなかったのですけど——入口のところから、棚をじっと見ていらっしゃいました」
2年前。
瀬名が——元の瀬名が、ここに来ていた。
わたしは知らない。千尋の記憶にはない。でも、この体の持ち主は、この店を知っていた。
「……覚えていません。すみません」
嘘ではなかった。
汐音は少し残念そうに、でもすぐに笑った。
「そうですか。でも今日、来てくださったんですね。嬉しいです」
「瀬名さん」
帰り際に、汐音がもう一度呼び止めた。
「どうして鞆ノ津に来たんですか。本当は」
笑顔が消えていた。芯の強い目で、まっすぐこちらを見ている。
保命酒が気に入ったから、では通じなかったらしい。鷲羽家のお嬢様が、護衛と侍女を連れて、自由港の薬師の店にわざわざ足を運ぶ。そこに理由がないはずがない。
——正直に言うべきか。
「あなたに会いたかったんです」と言ったら、怪しまれるだけだ。ゲームの知識を話すわけにもいかない。
でも、嘘を重ねるのは——この人に対しては、やりたくなかった。
「……保命酒の薬草は、どこから来るのか知りたくて」
結局、嘘ではないことを言った。
「昨日、船で鞆ノ津に来る途中で過所旗のことを知りました。この海は、海守衆の旗がないと渡れない。ということは、この港の保命酒に使う薬草も、海守衆の船で運ばれているんですよね。——それを作っている人に、直接聞いてみたかったんです」
汐音がしばらく黙っていた。わたしの目を見ている。嘘を探しているのか、本気を探しているのか。
「……変わったお嬢様ですね」
汐音が言った。少し、笑っている。
「七家のお嬢様が、港の薬師に海のことを聞きにくるなんて。聞いたことがないです」
「変わっている自覚はあります」
「でも——」汐音の声が柔らかくなった。「嫌じゃないですよ。知りたいって言ってくれる人は」
店を出ると、鞆ノ津の港が午後の光に揺れていた。
常夜燈にまだ火は入っていない。この港で何百年もそうしてきたように、暗くなれば灯るのだろう。
千歳が隣で控えている。何も言わない。わたしが薬師の娘と何を話していたのか、聞かない。
——汐音は、ゲームのヒロインだ。
でも「ヒロイン」という枠に収まる人間ではなかった。3代の薬師の技を継いで、保命酒の調合に情熱を注いで、初対面のお嬢様に薬草の棚を開けてくれる。そのうえ正面から「どうして来たんですか」と聞く芯の強さがある。
味方にしたい、と今も思っている。でもその打算とは別の場所で、この人と話していたかった、とも思っている。
どちらが本音なのかは——まだ、わからない。
潮の匂いに混じって、保命酒の甘い香りが風に乗ってくる。
指先に、桂皮のかさかさした感触がまだ残っていた。




